一人目 灯Ⅰ / 楓Ⅱ

 杉の木で出来たテーブルを挟んで、灯と楓はしばらく無言で睨み合った。


 使用人が運んできたお茶は既に冷め切っており、とても親友が訪ねてきたとは思えないような雰囲気が部屋に張り詰めている。控えめに言っても最悪の雰囲気だ。

 灯は眉を吊り上げたまま、目の前の少女が白状するのを待ち続けた。相対する楓もにこにことしているものの、話し出す様子もなかった。


 しばらく気まずい空気が流れた後、結局先に折れたのは灯だった。

 元々悠一を見つけられない焦りがあった上に、我慢することが大嫌いなのだ。根競べで負けるのは目に見えていた。

 咳払いを一つして、彼女が一番聞きたいことをストレートにぶつける。


「悠一はどこ?」


 まるでお前が攫ったんだろと言わんばかりの、失礼な物言い。

 自分の言葉に疑いを持たず、まっすぐに楓を見据えた。


「……どうして?」

「あのメッセージを見たらアンタがやったって思うでしょ」


 嘘だ。

 メッセージの一件もあるが、本音は違う。誘拐などするような人間を思い浮かべたら、真っ先に楓の顔が浮かんだだけだった。

 超がつく程の変態な上に権力も金もある。自分の欲望の為なら軽々と一線を越える狂人。

 それが神代 楓という人間の印象だ。

 悠一を盗撮してはトイレに篭り、一日中盗聴してはにやにやと笑っている女なのだ。

 危害を加えることがないから見逃してやっていたが、こうなった以上許すわけにはいかない。


(どうせお前がやったんだろうが、このクソ女)


 悠一を害することは許さない。

 自分の所有物を勝手に持っていかれて、返さないというのならもう知らない。

 壊してでも奪い返してやる。


「私、今結構ギリギリなの。正直に答えて」

「ふふ……そうね、灯ったら余裕がなさそう。悠ちゃんがいなくなったのがそんなに堪えたのね」


 ダン、と轟音が室内に響く。

 分厚いテーブルにヒビが入った。湯のみが倒れ、転がっては床へ落ちる。幸い二つとも空だったので畳に染み入ることはなかった。

 叩き付けた拳を戻して、もう一度灯は同じ言葉を並べた。


「悠一は、どこ?」


 一際低い声。

 ギリギリというのは本当なのね、と楓は思った。

 それでも彼女は動じることなく、火に油どころかガソリンを注いでいく。


「それが人に物を聞く態度なのかしら」


 くすくすと笑う声。声音と笑み、言葉の選択全てが灯の神経を逆撫でた。

 そんな安い挑発も今の灯には効果が大きかった。楓の思惑通り、灯のボルテージはどんどん上がっている。

 血が沸騰していくのをはっきりと感じ、灯の思考が物騒なものに塗り潰されていく。

 衝動的に目の前で揺れる細い首を握りつぶそうとして―――雨音に混じった言葉に、伸ばしかけた手を止めた。

 届く寸前で、和装の少女は頭を下げて話し出す。


「私じゃないわ。悠ちゃんがいなくなったことは知っているし、探してもいるけど見つからないの」

「……は?」

「この間私たちと別れたあと、悠ちゃんはいなくなったみたい。灯は私が攫ったと思っているみたいだけど、やったのは私じゃない」


 楓の顔から笑みが消え、ハッキリとした口調で疑惑を否定した。

 その表情を至って真剣そのものだ。長い付き合いだが、あまりこういった楓を見たことはなかった。

 だからこそ、彼女が嘘偽りなく話しているのだと灯は錯覚してしまう。

 

―――楓は心の中でほくそ笑んで、ドラマで見たように精一杯演技してみせた。


「私が今知っているのはここまで。ごめんなさい、力になれなくて」

「え、あ、いや……私のほうこそ、ごめん……」


 芝居がかり過ぎたかと思ったが、自然と流れた涙が効果的だったようだ。ばつが悪そうに、灯の声がしぼんでいく。

 一方的に疑いをかけた挙句、家具まで壊しているのだ。ここ最近は暴走気味な彼女でも、自分のしたことが非常識であったことくらいは気付いていた。

 指先で涙を拭い、またにこやかに微笑む楓を前に、灯は頭を下げる。

 悔しさと戸惑いが混ざった表情だったが、最終的には罪悪感が勝った。

 いいのよ、と謝罪を受け入れた楓が手を叩くと、使用人が二人膝をついたまま障子を開けた。

 一人が手早く湯のみを片付け、楓はもう一人の使用人に灯を送るよう指示をする。灯は断ろうと思ったが、嵐のような天候を見て言葉に甘えることにした。

 灯は退出際にもう一度謝罪して、この日は帰宅することとなった。

 

 





 緊張の解けた部屋、使用人も下がって初めて、楓は大きく息を吐いた。

 もちろん相対していた灯が怖かったとか、嘘がバレないかと冷や冷やしていたわけでもなく、ただ単純に落胆したからだ。

 少し真面目な顔をしただけで、灯はころっと騙されたのだ。

 よくよく考えれば怪しいはずなのに、ただの一言で引き下がってしまった。あれで悠一のことを愛しているのだとよく言えたものだ。私なら体に訊くのにな。

 おかげで忍ばせていた短刀も、飾られていた日本刀も出番を失ってしまった。人間を斬ることなど久しくなかったのだから、今日こそはと期待していた自分が馬鹿みたいだ。

 特に、逆上した親友を斬り捨てるなど、生涯に一度あるかないかの大イベントだ。加えてそれが愛する少年に与える影響を考えると、楓の人生にとって最高の出来事になるはずだったのに。

 失った機会を惜しんで、楓はまた盛大に肩を落とした。

 

(でもまだ、愉しみはとっておかなきゃ……)


 元々策略を巡らせるタイプではないのだ。その場の判断とノリで、面白くなるように行動する。

 今ここで怒らせて決着をつけるよりも、もっともっと怒りを熟成させたほうが面白くなると思ったのだ。

 耐え切れずに破裂しそうになったところで、彼女の目の前で悠一をあの女に犯させてやる。発狂寸前まで追い詰めた灯はどんな顔をするのだろう。ましてや、そんな醜い姿の家族を見て、愛しい少年はどう感じるのだろうか。


 悠一は灯の本性を知らないのだ。それを知ってなお、彼は家族を愛すことができるのか。できなければ、灯は少年をどうするのだろう。どちらにせよ少年の心に傷がつくことは間違いないはずだ。

 そうなったときのことを思い浮かべて、楓は一人微笑んだ。


 嵐はまだ、止みそうにない。

 

 





 叩きつけるような豪雨と時折光る空の下、灯を乗せた車は暗い山道を走っていた。

 黒いスーツの男は、無言のまま前方へ神経を集中させていた。使える主の友人を乗せている上にこの嵐だ。万が一もあってはならなかった。

 無言を貫き通す灯に気を遣って、彼も同じように口を噤む。


 バックミラーに映る彼女はずっと俯いたままだ。

 ぶつぶつと独り言を話すことはあったが、この豪雨では聞き取れない。試しに反応しても無視されるのだから、彼も意思疎通を諦めていた。

 

 走り出して数分立つが、依然山道が続く上にここから先は特に曲がりくねった道が続くエリアとなる。気を引き締め直して、男はシートから身を乗り出した。


「あの……」

 

 いくつかのカーブを曲がった頃、初めて後部座席の少女が声を上げた。

 気分を害することもなく、男はバックミラー越しに少女を見た。無愛想にならないように笑みを作って返事をした。

 見れば灯は口元を押さえて、気分を悪そうにしている。若干身体も震えているように見受けられた。


「ご気分が優れないようでしたら、一度停車致しましょうか」


 カーブが続いてばかりで、車に酔ってしまったのだろう。男は努めて優しく、主の友人へ配慮した。

 幸い路肩に車を停められるスペースはあった。多少危険かもしれないが、こんな天候の中、神代家まで続く山道を走る車などないはずだ。

 ダッシュボードから酔い止めを出して、灯へと手渡す。未開封の水があってよかったと安堵した。

 ペットボトルの水を半分ほど飲んで、灯は大きく深呼吸した。

 

「すみません。車、あまり慣れてなくて……」

「申し訳ございません、もっと配慮して運転すべきでした」


 意外と話しやすそうな少女だと、男は認識を改めた。無視していたわけではなく、気分が悪かったのか。

 

「運転、よくされるんですか?」


 突然の問いかけ。気を紛らわせたいのかと、男は苦笑しながらも答えた。


「はい、送り迎えを担当させて頂く機会が多いものでして」

「いつもこの車なんですか?」


 少女は質問を重ねた。男も気分を害することはなく、丁寧に答える。

 車中で美少女と二人きりというシチュエーションも、彼を饒舌にさせていた。

 

「そうですね。この車を使うのは私だけです。運転手を主とする使用人はそこまで多くな―――」

「あ、もういいです」


 後ろから伸びた腕が、男の首へと絡みつく。

 反応したときには、少女の細腕ががっちりと男の首を絞めていた。

 一瞬悪戯なのかと頭を過ぎったが、すぐにその考えは払われる。冗談で済まされるような力ではなかったのだ。潰れそうな喉から嗚咽が漏れる。


「……ぁがっ、……っ、な……ぁあッ!」


 何故、と問いたくても、言葉が出ない。

 暴れてみてもビクともせず、視界は徐々に狭まっていく。

 最後に一瞬だけ、バックミラーが目に入った。以前楓が獣のようだと称していた瞳が、シートの後ろからこちらを見ていた。

 

 徐々に薄れいく意識に、容赦なくギリギリと絞り上げる腕。

 眼前が暗闇に覆われると同時に、ぼきりと鈍い音が社内に響いた。

 男の手はだらんと垂れ、シートに身体を深く沈める。漂ってくる異臭に灯は顔を顰めた。

 助手席の窓を少しだけ開けて換気する。社内に充満していた匂いがだんだんと薄れていく。しばらくして、やっとまともに呼吸ができるようになった。

 

 灯自身、この男に恨みがあるわけでも、ましてやただ八つ当たりしたわけでもなかった。

 ここ数日の憂さ晴らしにはなっかもしれないが、それだけで初対面の人間に手を掛けるほど狂ってもいない。

 きっとこの男はなにも知らされていなかったのだろう。きっと楓に言われるがまま、命令に従っただけなのだ。

 促されるままに乗った車中で、灯の鼻は微かな残りがを見逃さなかった。

 車内に残った愛しい少年の残り香が、灯の頭を急激に冷めさせた。

 この車を使うのはこの男だけ。なら、こいつが悠一を連れ去った可能性がある。

 

 可能性が少しでもあるなら、摘み取っておいた方がいい。


(こいつに悠一を攫う理由なんかないんだろうけど。どうせ、楓の命令かなんかでしょ)


 親友気取りのあの女はやはり嘘を吐いていたし、自分を送らせるドライバーに彼を選んだのもわざとだろう。挑発のつもりだろうが、燻った火種をまた燃え上がらせるには十分過ぎた。

 これは楓への決意表明だ。そっちがその気ならやってやる。

 邪魔をするなら容赦はしないと、言葉ではなく行動で示す。楓の命令だと証拠を握ったら次はお前だと言外に叫んだのだ。

 尻尾を掴んで、邪魔者は潰す。最初からこうしておけば他の女たちに悠一を取られることもなかったろう。


(あぁ、待っててね悠一。私が全部綺麗にするから)


 くつくつと嗤い、灯は車の外へ。土砂降りの雨にうんざりしていたが、今となっては恵みの雨のように思える。


 運転席を開けてアクセルを踏む。男の足で固定されたまま、車は勢いよく走り出した。

 しばらく真っ直ぐ走った後、酷く錆付いたガードレールを突き破って車は崖下へと転落した。

 衝突音は雨に消され、微かな爆発音と薄っすらとした光を感じながら、灯は傘を差して歩き出す。

 

 獣のような嗤い声は、雷鳴によって掻き消された。

 

 



 

 

「お嬢様、よろしかったのですか」


 部屋の後始末を終えたあと、佐々木は縁側で雨を眺める主に問い掛けた。

 具体的に何がとは訊かない。言わなくても聡明なこの少女は理解するからだ。

 しばらく間を置いて、楓はゆっくりと返事をした。

 

「あの運転手さん。名前なんだったかしら」

「岐部、と申します」


 そう、と少女は呟く。訊いた割には興味なさげといった様子だ。

 

「気の毒なことをしたわね。灯がその方をどうしようが、知ったことではないけれど」

「万一、岐部が戻った場合は私で処理します」

「お願いね」


 佐々木は深く頭を下げ、楓の前から姿を消した。

 

 灯はメッセージに気付いただろうか。いや、気付くに決まっている。そうでなければいけないのだ。

 これでもう後戻りはできない。自分も親友も悠一も、彼に群がる玩具たちも。

 上辺の日常を続けて、隙を見ては刺し合う日々が始まるだろう。その中心があの少年なのだから、なんと愉快なことか。


 酷くなる一方の雨をその身に受けて、楓はこの日初めて本心から嗤った。

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