1章
一人目 千里Ⅰ
ズキズキした鈍痛に、悠一は目を覚ました。
重い瞼をなんとかこじ開ける。視界がぼやけて気持ち悪い。
体が異常にだるく、このまま目を閉じてしまいたい衝動に駆られた。
ぼうっとした頭で、悠一は辺りを見渡す。
辺りは暗闇で、うっすらと窓から月明かりが差し込んでいる。どうやら部屋にいるらしい。
ここはどこで、なんでここで寝ているのか、悠一の頭は混乱した。
依然はっきしりない頭の中で、必死に思考を続けていく。断続的に襲う頭痛が、その度に彼の心をへし折ろうとしていた。
(どこだろう、ここ……)
見知らぬ部屋だった。
質素でがらんとしていて、大きなベッドと椅子、あとはキャリーバッグが一つあるだけ。
ベッドも新品のようなシーツがひかれていて、生活感というものが全くない。
とはいえ、ここが何処であれ、このまま寝ているわけにもいかないのだ。
悠一が覚えている限りでは、夜道で誰かに襲われた。羽交い絞めにされ、口元を押さえられてからの記憶がないが、友好的でないことは分かる。
危機感の薄い彼とて、今回ばかりは危険が迫っていることは理解していた。
鉛のように重い体を引きずって、ベッドから身を起こす。
座っているだけで体中から悲鳴が上がる。四肢に力が入らず、そのまま倒れこんでしまった。ぼすん、と柔らかい布団が悠一を受け止める。
沈み込んだ体が、これ以上動くことを拒絶した。心も折れかけている。目を開けていることすら億劫だった。
急速に遠のいていく意識の片隅に、がちゃりという音が響いた。
扉の向こうで、何かが動いている。無遠慮な足音がはっきりと聞こえる。
荒い足音に、次いでどすんと何かが落ちる音。だんだんと大きくなったそれが、ついにこの部屋のドアに触れた。
ドアのすぐ向こうから聞こえる金属音が、恐怖を煽った。
薄れ掛けた意識が一気に覚醒した。
鍵が開く音をこれ程までに恐ろしいと思ったことはない。
ノブが傾き、ゆっくりとドアが開く。隙間から覗く暗闇に全身が粟立つ。
「ひっ……」
暗闇に爛々と光る目。
月明かりも届かない真っ黒な空間に、双眸と白い歯が浮かび上がった。
悠一はベッドの上を這いずった。無意識のうちに距離を取ろうとするが、シーツに皺を作るだけに終わる。
暗闇の主は、悠一を見つめたままゆっくりと歩を進めた。
一歩近づくたびに、月光が足元からその人物を照らしていく。
一歩。
膝まで照らす。黒いソックスが脹脛まで覆っている。
一歩。
腰まで照らされる。短いスカートに、照らされて太ももが扇情的だ。
一歩。
胸元までが浮かび上がる。見覚えのあるカーディガンだった。
一歩。
吊り上った口元、八重歯が光っている。目が細められ、嗤っているのだと気付いた。
「せんぱい」
歪んだ口から、ハスキーは声が発せられた。
聞き覚えのある、口は悪くても心優しい後輩の声。
「千里ちゃん……?」
助けに来てくれたのかと、一瞬期待が過ぎる。
だがその笑みは、「どっちの」笑みなのだろうか。
「せんぱい」
もう一度、千里は悠一を呼ぶ。
確かめるような、それでいて喜びが込められ入るような声。
「千里ちゃん、助けて……!」
努めて大声にならないよう、悠一は彼女へ助けを求める。
今頼れるのは彼女しかいないのだ。起き上がることも困難である以上、千里に助けてもらうしかない。
例え彼の頭にある最悪の状況だったとしても、微かな希望に望みをかけた。
しかし千早はベッドに近づこうとせず、乱暴にカーディガンの胸元を掴む。
助けを求める声に返事はない。
千里の息は荒くなり、はぁはぁと空気を求めていた。
そんな様子に、悠一は確信を持った。
「千里ちゃん……?」
恐る恐るといった言葉に、未だ千里は答えない。
全力疾走をしたかのような息の荒さで、苦しそうに腰を折る。
「せん、ぱい……せんぱい、せんぱい……っふ、ふふ……ぁはははは……!」
「千里ちゃん、なんで笑っ……」
「ははははは……ぁーあ、わからねぇ?そんなんだから……ふふ、ははははははははは!」
悠一の眼に映るのは、嗤う鬼。
金色の髪が月明かりを反射して、彼女だけが光っている。八重歯を剥き出しにして高らかに笑う様は、まさに異様だ。
何度も息継ぎをして、笑い続ける。収まったかと思えば、思い出したようにまた笑い出した。
「あー、はぁ……全く、この状況でアタシに助けてなんてどうかしてるだろ。前から思ってたんだけどよ、先輩本当に危機感ってもんがねーよな」
「…………」
「まぁ、そのおかげで上手くいったんだけどな」
「……千早ちゃんが、僕を?」
ははっ、と笑い捨てる千里。
白い歯が大きく映えた。
「連れてきたのはアタシじゃないけどな」
「なんでこんなことするのさ。こんなことしたって―――」
「ハッ、なんで?なんでって?いい加減分からないフリすんのはやめろよ」
分からないフリとは、何に対してだろう———と考えて、すぐに気付く。気付かない方がおかしいのだ。
心当たりはいくつもあった。別段鈍いわけでもないし、襲われかけたのだ。彼女は自分に好意を持っていることくらい、流石の悠一でも分かっていた。
それでも気付かないフリをしたのは、灯や真夜の手前、受け止めるわけにはいかなかったからだ。
灯も真夜も、自分を好いていてくれる。
家族として、それ以上に異性として、男らしくもない自分を好きだと言ってくれる。そんな彼女たちを、悠一は何よりも大事に思っていた。
はっきり言ってしまえば、千里よりも大事な家族なのだ。
たとえ彼女から愛の告白を受けても、受け入れるわけにはいかない理由がそれなのだ。
千里の眉が釣りあがる。
ハスキーな声に怒気が篭った。
「知ってんだろ、アタシが先輩をどう思ってるかなんて」
「……うん、知ってたよ」
「それで、鈍感なフリして逃げ回ってたわけだ。そっちのほうがよっぽど傷つくっつーの」
ずきりと胸が痛む。
彼女の言うことは正鵠を得ていた。
悠一の顔が歪んだ。気まずそうに顔を伏せる。
「今さらどうだっていいけどな。悪いけど、先輩はここで私のモノになってもらう」
千里の言葉に、圧される悠一。
すぐに持ち直して、顔を上げてはっきりと告げた。
「悪いけど、こんなことする千里ちゃんの気持ちには応えられないよ」
「言ってろ。いつまで同じこと言えるか楽しみだな」
毅然とした態度で千里を拒む。
恐怖心で手は震えていたが、このまま彼女の雰囲気に呑まれるわけにはいかない。
多少酷いことをされようとも、心を保つためには必要なことだった。
にやりと笑って、悠一へ近づく。
後ずさりも虚しく、千里は悠一の髪を鷲掴んだ。
伏し目がちだった顔を無理矢理上げて、至近距離で見つめる。
爛々と輝く猛獣のような目が、一瞬紅く光った。
「アタシの言うこと聞いといたほうがいいぜ。反抗的な内は、飯も水もやんねーからな」
「脅してるの?そんな関係が千里ちゃんの望みだったの?」
そんなわけないだろと、忌々しげに応える千里。
苛立った彼女は、投げ捨てるように悠一の頭を放った。
「今はこれでいいさ。どんだけ時間がかかっても、先輩の心が折れるまでアタシはやるからな」
「折れなかったら?」
「言ったろ、折れるまでやるって」
千里の言葉には自信が満ちている。
そうなるのが決まっているかのように断定した。
薄く嗤って、悠一から離れる。部屋を出ようとノブに手を掛けた。
「また出かけてくんから、先輩は大人しくしてな」
今度は言葉を返さない。
彼女と話すことなどないと、強気な姿勢は崩さなかった。
千里は気にせず言葉を続ける。
「逃げ出そうとしてもいいけどよ、朝まで痺れはとれねぇぞ。って言うか、逃げ出そうとしたらお仕置きだけどな」
かつての彼女のような、陽気な笑顔。リリィと出会う前に良く見せてくれた、明るい笑み。
その笑顔が悠一を複雑な気分にさせた。
じゃあな、と一言置いた後、千里は部屋を出て行った。鍵を閉める音にじゃらじゃらとした金属音。あのドアは開かないと思ったほうがいいだろう。
では窓はと思い、やけに分厚いカーテンを開ける。月光の差し込む大きな窓を確認していく。
が、溶接されているのか、窓枠自体が歪に固められていた。彼は知る由もないが、強化ガラスに嵌め換えられていて、ハンマーで叩こうがビクともしない代物だ。
おまけにセンサーのような物までついている。割って逃げることもできなさそうだった。
諦めと同時に、監禁されたという事実が彼を襲った。
およそ普通の人生を歩んでいれば遭うはずのないことだが、あいにく彼は普通じゃない。
悪魔に取り付かれ、呪われているのだ。おまけに最近は色々なことがありすぎた。その上監禁されて後輩に飼われるなど、神様は大分自分のことが嫌いらしい。取り憑いているのは悪魔だけど。
溜息を吐いて、ベッドへ横たわった。
体は相変わらず重く、動くのも困難であれば寝るしかない。どれ程寝ていたのは分からないが、ひどく瞼が重かった。
ただ目を瞑ると、心配事だけが思考を支配した。姉妹は怒り来るっているだろうし、この様子では学校もバイトも行けないだろう。そもそもトイレとかどうするんだ。
混乱を投げ出して、悠一は考えることをやめた。考え出したらキリがない。
そのまま意識を手放していく。慣れない枕と環境だが、極度の緊張に体は疲れきっていた。
月明かりが照らす中、思いのほか悠一はすぐに眠りにつくことができたのだった。
♪
悠一の住む町から遠く離れた山の中、木々の間にある建物を、リリィは空から眺めていた。
茶色などでペイントされた地味なそれは、隠れるようにして建てられている。
まともな道はなく、一見すると不気味な廃墟のようである。
空飛ぶ悪魔は、にやにやと楽しそうにその建物を見つめている。
ちょうど金髪の少女が建物から出てくるところで、なにやら苛ついた様子だった。
彼女の様子が、リリィにとっては滑稽で仕方ない。
「ふふ、面白くなってきたわね」
悪魔は嗤う。
窓から見える少年を見て、その笑みは深くなっていく。
「……この状況で寝れるなんて、随分と太い神経してるのね」
誰に語りかけるわけでもなく、悪魔は嗤って言葉を吐く。
ベッドに横たわる少年は寝息を立てている。随分タフになったものだ。
「まずは一人目……」
くすくすと、笑みは止まない。
ここからだと、リリィは楽しんでいた。
満月を背にドレスを翻す彼女は、紅い目を輝かせて笑った。
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