悠一Ⅴ
鈍い振動と小さな音に、悠一はゆっくりと目を開けた。
枕元に置いてあったスマートフォンが震えていた。
ぼやけた頭と霞んだ目で、ディスプレイを確認する。大きな文字で「一樹」と映し出されていた。
枕に顔を突っ伏しながら、とりあえず応答へスライドさせた。
「ふぁい……どうしたの……」
『おー、悠一。悪いまだ寝てたのか』
首を捻って、壁掛け時計を確認。短針は十時を越えたところを指していた。
家事炊事を担当している彼にとって、休日でもこの時間まで寝ていることは稀だ。
寝すぎたなぁ、とぼんやりした頭で反省する。起きて姉妹のご飯を作らなくては。
『おーい?起きてるかー?』
「あー、ごめん。起きてるよぅ……」
『おう、そんでさ、お前今日暇か?』
「んー、予定ないけど。午後からなら大丈夫かなぁ」
午前中は家事をしなければならない。
洗濯機を回して、その間に食事を作る。朝昼兼用の食事になってしまうが仕方ない。
洗濯物はすぐに干せば乾くだろうし、掃除は帰ってからやればいい。家中はできないが、リビングや水周りくらいはできるはずだ。
それにせっかくの休みなのだ。友人の誘いを断る理由はなかった。
『おし。そしたら、一時に駅でいいか?』
「いいけど、どこいくの?」
『いや、街まで出ようと思ってさ。楓も来るから、灯誘っておいてな』
彼らの中で街と言えば、昨日灯と出かけた駅周りの中心街を指す。
映画館での出来事が脳裏に蘇った。熔けそうな息や舌の暑さが思い出されて、また枕へ顔を押し付けた。
悠一も思春期の男の子だ。
興味がないわけではないが、そこまで積極的になれるかは話が別である。少なくとも、誰とでも誘われるがままに行為に及ぶほど貞操観念は軽いつもりはない。
大きく溜息を吐いた。息で枕が熱を持つ。
とりあえず一樹に了解した旨を伝え、電話を切った。
ディスプレイには十時十五分と表示されている。いい加減起きなければ。
思い体を引きずって、ベッドを降りる。ぼうっとした頭は、未だクリアになっていない。
しんとした家の中は、どこか別の世界のような雰囲気だ。
金髪の悪魔もいないようで、姉妹もどこか出かけてしまったのだろうか。
冷たい水で顔を洗い、陽光差すリビングへ。カーテンは既に開いていて、小鳥のさえずりが耳を撫でた。
ソファには姉妹の姿があった。あられもない姿で、シャツが破けたり下着が千切れたりしている。昨夜喧嘩したまま力尽きて寝てしまったのだろう。
二人にタオルケットを掛け、手早く家事を済ませていく。暖めてから食べてくださいと書置きをして、外出の準備をした。
何時まで騒いでいたのだろうか、姉妹は一向に起きる気配がなかった。喧嘩する程仲が良いと言うが、この姉妹にぴったりの言葉だと思った。
仲良く眠る姉妹に小さく声をかける。
いってきます、という言葉に答えるように、二人は寝返りをうった。
♪
駅に着くと、既に楓と一樹の姿があった。
仲睦まじく談笑する二人は、誰から見てもお似合いのカップルだろう。違和感が全くなく、悠一の理想とするカップル象はこの二人だった。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
「いや、まだ時間前だしな。悪かったな急がせちゃって」
男の子らしく、悠一と一樹は挨拶代わりのハイタッチをする。その横で、楓が上品な笑みを浮かべていた。
「神代さんもおはよう」
「おはよう悠ちゃん。灯は来れなかったみたいね?」
あー、と言い淀む。理由を説明するのは骨が折れそうだ。
「なんか起きれないみたいで。昨日姉さんと夜中まで喧嘩してたみたいだから」
「ふふ、灯らしいわね」
「またかよ。よく喧嘩するよな、あの姉妹は……」
嘘は言ってないし、二人も喧嘩の理由もいちいち訊いてくることはない。
詮索家ではないことに心の中で感謝した。
「まぁいいや。とりあえず行こうぜ」
「そういえば街でなにするのさ」
「あら、一樹君たら何も言ってないの?」
「いや、言ったら来ないだろこいつ……」
ちら、と同情するような視線を受ける。
嫌な予感がして、早くも帰りたくなってきた。片手で謝る様な仕草をした一樹を見て、初めてハメられたと気付く。
楓が満面の笑みで、今日の目的を教えた。
「今日は悠ちゃんのお洋服を買おうと思って」
「いやだ!!」
即答だった。
洋服を買うのはいい。だが、楓の言う服とは男物ではないのだ。
悠一に女装をさせることに心血を注ぐ彼女のことだ。絶対ロクなことにならないのは目に見えていた。
「悪い、言い出したら聞かないの知ってるだろ?自分で誘ったら断られるからって、俺に呼べって言い出してさ」
「ふふ、大丈夫よ。お金は私が出してあげるし、そんなに過激なのは着せないからし、酷いことはしないから」
「信用できないよ!」
口元を押さえて笑う姿はさすが良家のお嬢様といった具合だが、言っていることはただの変質者だ。
以前彼女と買い物をして、ランジェリーショップで三時間試着させられたことを思い出す。
店員まで悪乗りして、挙句店内で写真まで撮られたのだ。それ以外にも前科があるため、信用など一欠けらもない。
「ま、頑張れ。メシは奢ってやるから、な?」
「ご飯くらいで済む問題じゃないでしょ!彼氏なら止めてよ!」
「止められるもんなら止めてるっつーの」
大げさに両手を上げて、仕方ないだろとアピールする一樹。
楓の尻に轢かれていることは知っていたが、ここまで言いなりになっているとは思わなかった。
なんとか遊ぶだけにして、ファッションショーを避けようと奮闘する悠一。そんな少年に譲歩してやるほど、神代 楓は優しい性格ではないのだ。
「悠ちゃん」
びくっと、悠一の体が跳ねる。
先程までとは変わった冷たい声質に、一樹までもが固まった。
声の主は、ブリザードが吹き荒れているような冷たい笑顔を浮かべていた。
細められた目だけは笑っていないようで、艶っぽい黒髪を掻き上げる仕草が恐ろしさを倍増させた。
「あまり我侭言うと、私悠ちゃんの可愛い姿を自慢したくなっちゃうわ」
その一言が、悠一に止めを刺した。
悪い、と肩を叩く一樹が恨めしい。
結局少年は、高いご飯を奢ってもらうという見返りを以って、楓を満足させるはめになった。
♪
一軒目、同世代の女子に人気のアパレルショップ。
十代の女の子に特に人気があり、ガーリッシュ系がメインで取り揃えられていた。
どちらかと言えば幼く見える悠一には似合っており、楓は店員を巻き込んで撮影会まで行っていた。
ノリのいい店員がエスカレートしたため、一軒目は二時間で終了した。
二軒目、フェミニン系が売りの店。
ワンピース系を中心に着させられ、悦に入った楓の後ろで笑いを堪えている一樹が印象的だった。
絶対に仕返ししてやると決意し、この店は一時間で終わった。
三軒目、ピンクで染められた店内が眩しい、姫系のショップ。
悠一に一番似合うのはこれだと言い切る楓が興奮し、かなり時間を取られてしまった。
げんなりしたのは、隣のゴスロリショップの店員までもが参戦したことだ。
他店舗の試着室にまで服を持ってくる辺り、もうなんでもありなのかと泣きそうになった。
他の客まで燃え上がってこの店はたっぷり三時間で終了した。
そして午後七時を過ぎた頃、やっと解放された悠一は心身ともに疲れきっていた。
買い物に付き合わされた一樹も大分うんざりしていたようだが、お前にそんな資格はないと言い放ってやった。ざまあみろ。
楓はまだまだ不完全燃焼のようで、「明日はどのお店にしようか」と訊いてくる始末である。
流石に二日連続は体も心も持たない。泣いて嫌がって、家事と勉強を理由にしぶしぶ譲歩してもらった。
一樹の両手いっぱいの紙袋はさておき、この日ご馳走になった食事は豪勢なものとなった。
前から興味のあったステーキハウスで、最高ランクの国産牛を使っていることで有名な店だ。やや場違い感は否めなかったが、それでも好奇心には勝てない。
この疲労感の原因となったカップルへの仕返しとして、悠一はできる限り高いメニューを選んだ。一樹は何か言い足そうだったが、奢るといった手前結局言えずじまいであった。
食事も楽しみ、腹いっぱいで満足した頃には、夜九時を回っていた。
灯と真夜へ今から帰るとメッセージを送り、三人は駅へと向かう。
ちなみに、楓は撮影都度姉妹へ写真を送っていたらしく、珍しく夜遅くまで外出していたことに文句は言わなかった。
普段は夜七時を過ぎると怒るくせに、と毒づく。が、心配してくれていると思えば悪い気はしない。
電車を降り、ロータリーに差し掛かったところで、楓は改まって言った。
脅してまで付き合わせたという気持ちがあるからこそ、しっかりと感謝は口にしたいようだ。
「悠ちゃん、今日はありがとう。来週うちで買ったお洋服を着ましょうね?」
「あー、やっぱり着るんだね……いやわかってたけどさ」
試着室ではできないような撮影会のため、楓はわざわざ購入したのだ。
またあの辱めが待っているのかと思うと、今から憂鬱な気分になってしまう。
「一樹はいいの?恋人の家に他の男が出入りしても」
「お前だろ?っていうか、悠一と楓に何かあったら灯とか桃山先生が黙ってないと思うけどな。君島とかに知れたら殺されるんじゃないか?」
というわけで心配はしてない、と笑う一樹。つられて悠一も笑った。信頼してくれているのだと思うと、なんだかこそばゆい。
悠一は二人と駅で別れ、薄暗い夜道を散歩がてら歩いて帰った。
寒さはほとんどなりを潜め、湿り気のある風は心地良さすら感じられる。
なんだかんだ言っても、悠一は楓と一樹のことが好きだった。
大事な友人だし、気兼ねなく接することができる。他人に対して積極的に交流をもてない彼でも、彼らは特別なのだ。
多少趣味に巻き込まれるくらいは、許容しよう。これ以上エスカレートされるのはごめんだけれど。
「……〜〜♪」
自然と溢れる鼻歌。今日は本当に気分が良い。
呪いのことなど問題は山積みだが、今日は気晴らしになった。
なんとかなるんじゃないかという、根拠のない自信まで湧いてくるほどだ。
口ずさんだまま、月明かりが照らす道を歩いていく。
背後に忍び寄る人影に、悠一は気付くことができなかった。
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