灯Ⅴ / 真夜Ⅱ

 これ見よがしに指輪を見せびらかしていた灯は、当然の如く真夜の怒りを買った。


 終始上機嫌だった灯は夕食時も(結局家で食べることになった)、リビングでのんびりしているときも、薬指に輝く指輪を眺めていた。


「あら、灯ちゃん。なんだか今日はご機嫌だね」

「ふふ、分かる?」


 夕食後のリビング。

 のほほんとした雰囲気が漂っていた空間で、お茶を啜っていた真夜が声を掛けた。

 良い気分に浸っていた灯は、未だ何も知らない姉に自慢を始める。


「これ、悠一に買ってもらっちゃった。放課後デートで映画観に行ったんだけど、悠一が買ってくれて、指輪嵌めてくれてさ。楽しかったなぁ……」

「あらあら……」


 薬指に光る指輪を、うっとりとした表情で見詰める灯。

 煽るような答えに、真夜はにこにこと表情を崩さない。

 くすくすと笑い合う声がだんだんと大きくなり、真夜の額に青筋が走った。


「ゆうくん」


 不穏な空気から隠れるようにキッチンで洗い物をしていた悠一を、真夜が静かに呼んだ。

 ぎくりとした彼は、恐る恐る真夜へ視線を向ける。


「灯ちゃんの言ってる事は本当なのかな」

「えっと、本当です、はい……」

「そう、本当なのね」

「お姉ちゃん、嫉妬は見苦しいからやめてくれる?」


 灯の発言が更に真夜を逆撫でた。

 真夜の表情は崩れない。にも関わらず、どす黒いオーラのようなものが立ち昇る。

 灯の幸せオーラとは対象的な、心臓の弱い人が見れば卒倒しそうな瘴気だ。


「悠くんと灯はもう付き合ってるのかしら」

「いやっ、それは違っ……」


 とっさに否定する悠一。今度は灯が彼を睨み付けた。

 否定の言葉に反撃の糸口を手にした真夜が、追い討ちをかけていく。相当腹を据えているようだ。口から蒸気のようなものが漏れているのは、きっと気のせいだろう。


「あら、違うのね。お姉ちゃん勘違いしちゃった。ごめんねぇ灯ちゃん、そんなことある訳ないのにね?」

「はっ、お姉ちゃんよりは可能性あると思うけど?」


 真夜の眼前に指輪を突きつけて、挑発で返す灯。

 年上の余裕を意識しているのだろうか、激昂することはなかった。が、真夜の眉は限界が近いのかひくひくと震えていた。


「へえ、悠くんが私より灯ちゃんを選ぶってこと?」

「現実見なよ、お姉ちゃん」

「随分自信があるのね。でも冗談はその胸だけにしてほしいかなぁ」


 睨みあっていた視線を下げ、灯の胸元を見下ろす。薄ら笑いを浮かべて口元を押さえた。

 同世代の中では羨ましがられる灯のバストも、真夜の前では霞んで見えてしまう。

 昔からスタイルに関しては、姉と比べられ続けていた。

 グラマーな女教師という肩書きを持つ姉を、灯は何度紹介してくれと頼まれたことか。そんな思い出が灯のコンプレックスを増長させていた。

 その部分をあからさまに指摘されては、灯も黙っていられないのだ。


「なに!?私の胸がなんだって言いたいの!?」

「べっつにぃ?肩凝らないし邪魔にもならなくて羨ましいなぁって思っただけだよ?」

「Gカップがそんなに偉いわけ!?」


 テーブルを叩いて立ち上がる灯。

 優位に立った真夜は、胸を抱えるようにしてアピールした。Tシャツの絵柄を歪ませるそれは、灯にとっては憎むべき敵だ。

 キッチンで身を縮めていた悠一はも、無意識に目線が寄ってしまう。物心ついた時からそういった男の視線に敏感だった真夜は、悠一の視線をすぐに感じ取った。

 真夜と目が合い、慌てて逸らす悠一。しかし一歩遅かった。


「ほら、悠くんだってお姉ちゃんのここが好きみたいよ?」


 灯が親の敵のように睨み付ける。

 眼光が鋭くなり、爛々と鈍く光っては、今にも襲い掛かりそうなほど不穏な雰囲気が漂っている。

 悠一は自然動物の特集番組で見た、狩りの最中の虎を思い出した。今の灯にぴったりな表現に、自分が捕食対象になったような気分になった。


「悠一、アンタ今日私と何したのか忘れたの?」

「へっ?」

「映画館で、忘れたわけじゃないわよね?」


 地獄の底から這い出るような低い声。

 しかも人に聞かれたくないような内容を、最も聞かせてはいけない真夜の前で話そうとしている。

 手に汗を握り、悠一は必死で誤魔化そうとした。


「いや、そんなことないけど……その話はちょっと」

「なに?お姉ちゃんには隠せってこと?」

「だからちょっと本当にやめてお願いします……」


 どうやら灯は、映画館での出来事を真夜に暴露したいようだった。

 自分は悠一と一線は越えずとも、その手前まで来ていると優位性を示したいらしい。

 要は姉の前で、悠一の口からはっきりと言わせたいのである。それに巻き込まれる悠一は気の毒だが。


「悠くん、いいのよ。別にお姉ちゃん怒ったりしないから、言ってごらん?」


 絶対に嘘だと、悠一は瞬時に理解した。

 怒らないと言っている人間が、湯のみを握り潰すはずがなかった。


「ええっと……」


 思い出して、赤面する。

 映画館で手淫で弄ばれましたなど、そもそも恥ずかしくて言えないのだ。

 そんな様子が、真夜を更に逆撫でた。


「そう、言えないようなことなのね」

「そういうことだから。朝みたいに一人でサカってれば?」


 真夜の目が見開かれた。

 何か言おうとして、結局言えずに唇を噛んだ。そのまま俯く。とんでもない爆弾発言だった。

 風邪だったのではなかったのかと、悠一は驚いた。が、それ以上に狼狽したのは真夜だった。

 悠一に負けないくらい顔を赤くして、ぷるぷると震えていた。怒りから突然の羞恥に、頭が追い付いていないようだ。

 自慰のために仕事を休んだなど、悠一には特に知られたくなかったのに。

 

 今朝は情けを掛けた灯も、今となっては容赦なしである。

 完全にイニシアチブを取ったと確信した灯は、止めを刺すべく畳み掛けていく。


「私は映画館で悠一を可愛がってあげたから。ま、一人遊びが好きなお姉ちゃんはせいぜいベッドに忍び込んでいちゃいちゃするくらいが限界なんじゃない?」

「灯、そろそろいい加減にしてってば……」


 居た堪れなくなって、悠一が助け舟を出す。

 今の真夜の気持ちを考えると、これ以上は嬲り殺しだ。自分が彼女の立場だったら、穴に一生入ってそのまま埋もれてしまいたいくらいだ。


 悠一の声に押されて、震えていた真夜がぼそりと呟いた。

 覚悟を決めたような彼女に、灯が一瞬たじろぐ。

 そしてその内容は、灯の発言を大きく上回るものだった。


「いいもん……」

「はい?なによ?」

「どうせ灯ちゃんは最後までしてないんでしょ?」


 顔を上げる真夜。涙目ではあったが、射抜くような視線が灯を貫く。

 なんとなく感じた嫌な予感に、悠一は身を震わせた。

 その予感は、間違っていなかった。


「私はシたもん。寝てるときだけど、悠くんの初めては私が貰ったから」

「はああぁぁ!?なにそれ、どういうこと!?」


 爆弾どころかビッグバン級の発言に、一気に形勢逆転となった。

 とんでもない仕返しに、今度は灯が狼狽する。嘘だろうと疑う前に、この姉ならやりかねないという心配が上回ったのだ。

 事実、真夜は前科が何度もあり、その度に悠一が必死で抵抗するか、灯に見つかって止められるかで未遂に終わっていた。

 ここ最近はベッドに潜り込むことが多かったことも当然知っている。であれば、その間に襲われていてもおかしくはなかったのだ。


「ちょっとまって姉さん、それ僕も知らないんだけど!」

「それはそうよ、だって悠くんぐっすり眠ってたもの」


 動揺を与えたのは、灯だけではない。

 その相手である悠一にも、灯に劣らずその衝撃は波及した。


「お姉ちゃん、それ犯罪だから!っていうかホント頭おかしいんじゃないの!?」

「あら、公共の場で手を出す灯ちゃんに言われたくないわぁ。手でシてあげたくらいで喜んでる灯ちゃんには笑わせてもらったけど、ふふふ」


 結局止めを刺されたのは灯のほうだった。

 誰よりもリードしていたと思っていた矢先、姉に遥か彼方へ差をつけられていることを思い知らされたのだ。

 指輪の嬉しさは消え去り、とてつもなく惨めな気分に落とされた。


 真夜の最大級の挑発に、頭の中でぷつんと音がした(気がした)。


「……す」

「ん?どうしたの?未だに処女の灯ちゃん」

「ブッ殺す!!」


 アクション映画でも見ているような、非現実的な喧嘩が始まった。

 怪鳥のような奇声を上げて舞う灯と、チープな悪役のような笑みで応戦する真夜に、悠一は制止することを諦めた。

 明日から三連休で助かった、とつくづく思う。経験上、恐らく夜通し喧嘩は続き、二人が力尽きるまで止まることはないだろう。


 それ以前に、知らないうちに童貞を奪われていたことを知って、悠一も心の整理ができていなかった。

 初めては好きな人とムードある場所で、なんて乙女のような思考を持っていた彼は、自分の知らないところで済んでしまっていたことに大きなショックを受けていた。

 真夜のことは嫌いではないが、それでも寝ているうちになんて酷過ぎる。


 もう今日は寝てしまおうと、近所迷惑な音を立てる姉妹を放って自室へと帰っていった。




                  





「ねえリリィ、いる?」


 薄暗い部屋の中、ベッドに横になっていた悠一は、虚空に声を掛けた。

 なぁに、と艶っぽい声が、天井から聞こえてくる。

 天井からするりと姿を現したリリィに、驚くことはもうなかった。


「リリィさ、もしかして姉さんが僕に、その……何かしてたところ見てたり、する?」

「何かって、どういうことかしら」


 暗闇で分かりづらいが、うっすらと赤みを帯びている悠一。ブロンドの悪魔はそれを察したのか、からかうように聞き返した。


「ふふ、冗談よ。言いたいことはわかるわ」

「もう……それで、どうなの?」


 ごくりと喉を生唾が通り過ぎる。

 心のどこか片隅で、ただの嘘であってくれと期待していた。

 くすくすと笑う悪魔は、はっきりと言ってのけた。


「そうね……残念だけれど、嘘は言ってないわね。今朝も楽しんでいたようだし。ふふ、気付かない君も悪いのだと思うのだけれど」


 あぁやっぱりか、と頭を抱える悠一。儚い希望は打ち砕かれ、いつの間にか大人の階段を一歩上がっていたのだった。

 むぅぅと唸ってから、不貞腐れるように布団を頭まで被った。

 慰めるように、リリィは悠一の傍へ寄った。花の香りが彼を包み込む。自然と落ち着きを取り戻した。


「いいじゃない。あの子のこと、嫌いではないのでしょう?」

「そういう問題じゃないんだよ」

「なら呪いのことが心配?体を重ねただけでは、結ばれたことにはならないのだけれど」


 それは分かっていた。

 動揺してたとはいえ、リリィは自分の命を奪う様子はない。であれば、肉体関係だけでは結ばれたと見做されないのは理解できた。

 それだけでも分かったことが、不幸中の幸いかと割り切るしかない。これを不幸と呼んでは、真夜のファンクラブの連中に締め上げられるだろうが。


 そこまで考えて、ふとリリィの言葉が気になった。


「ん?重ねただけでは?」


 体を重ねただけでは、ということは、肉体関係を持つことが一つの鍵となるということか。

 体の関係以外に、何かがあった場合は結ばれたと見做されるのだろうか。

 

「ねぇ、リリ―――」

「ふふ。だめよ、これ以上はまだ教えてあげない」


 布団から顔を出して、すぐ傍で見下ろすリリィに問いかける。が、質問すら許されなかった。

 にやにやと笑う悪魔に、悠一は訊くことを諦める。

 こうなった彼女は、どれだけしつこく質問しても笑うだけなのだ。全くの時間の無駄で、それなら寝ているほうがまだ生産的だ。


「いいよもう。後は自分で考えるから」

「いい子ね。まだ時間はあるのだから、ゆっくり考えなさい?」


 目を細めて、悠一の頬を撫でた。

 ぞっとするほど冷たい手のひらに、改めて本当に悪魔なのだなと思った。

 それでも彼は氷のようなその手から、いなくなってしまった母親のような感覚を思い出した。


 優しく、慈しむようなその手を感じながら、悠一は心地良く眠りについた。

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