灯Ⅲ / 千里Ⅲ

「なぁ、なんとか言えよ先輩」


 真っ黒な瞳が、悠一を睨みつける。

 その瞳の奥に紅蓮の炎が燃えていた。


 時間が止まってしまったかのように、悠一は何も答える事ができなかった。

 根はいい子だと思っていた後輩が、剥き身の憤怒を自分に向けているのだ。初めて感じた千里の恐怖に、足が竦んで動けなかった。


「なあ」


 そう言って、もう一歩。

 それでも悠一は答えられない。言葉が喉から出てこない。


「アタシに言えねえような事なのかよ」


 炎が強く揺らめく。

 最早何を言っても裏目に出る気がして、体が言葉を発することを拒絶していた。


 無言を貫く悠一に痺れを切らしたのか、千里が溜息を吐いた。


「言いたくねえなら言わなくていいよ」


 たった一歩が、恐怖を倍化させる。

 雑音が消え去り、千里の声だけが頭に響く。悠一の喉奥から、嗚咽のような声が漏れた。 


「体に訊くから、もう喋らなくていいや」


 もう一歩。千里と悠一の距離が着実に縮まっていく。

 そっと伸ばされた手が、死神の手のように感じた。褐色で、よく手入れされた綺麗な手。カラフルに彩られたネイルも、今は恐怖を煽るものでしかない。


「待ちなさい」

「あ?」


 千里の伸ばした手を、灯が無遠慮に掴んだ。

 ぎしりと軋む音が聞こえそうなくらい、力一杯握り込んでいる。

 灯の声に、緊張が若干緩んだ。気付けば肩で息をしていた。

 千里の眼が、悠一から灯へと移った。その憎しみが篭った視線を灯が睨み返す。


「私の悠一に手ぇ出さないでくれる?」

「お前の?」


 灯の言葉が、煽るような灯の態度が、千里を余計に燃え上がらせていく。

 もともと灯は千里のことが大嫌いだった。力で全てを手に入れようとするタイプが嫌いで、その中でも千里が最悪だと思っている。

 当然千里にとっても、灯は嫌悪の対象だ。真夜に対しても同様だが、灯が一歩抜きん出て嫌いだった。

 自分のことを棚にあげて、人を非難する性悪女。力づくなのはお前も同じだと吐き捨ててやったのを覚えている。


「私の、よ。この指輪が見えない?」


 左手で千里の腕を掴んだまま、彼女の眼前へ見せつけるように捻り上げる。

 灯の左手、その薬指には嵌められたばかりの指輪。

 千里の眼が見開かれ、掴んだ手を振り払った。

 一瞬、泣きそうに顔が歪んで、すぐに伏せられた。


「……なんだ、そうなのかよ。そういうことかよ」


 くつくつと、腹の底から這い出るような笑い声。

 派手な金髪から除く瞳から、光が完全に失われた。宿っていた炎も消えていく。


「先輩。何も言ってくれないんだな」


 傾げられた首、その生気のない瞳が、じろりと悠一と向く。

 怒りの表情から一変、薄ら笑いを浮かべる千里。先程の激昂した千里よりも、数倍恐ろしく感じる。

 不気味な笑い声は止まらず、周囲の目が彼らに注目しつつあった。

 何とか勇気を振り絞って、悠一はやっと言葉を返す。


「……指輪を買ってあげたのは、本当だよ」

「買っただけか?その指にあるってことはそういうことなのか?」


 その言葉に、灯も期待した視線を送る。

 むしろ一番その答えを聞きたいのは灯だろう。

 正面には光を失った目の千里、真横には目をきらきらさせている灯。周囲には「修羅場?」と好奇の視線を送る野次馬達。

 皆、悠一の言葉を待っていた。それがプレッシャーとなって彼を襲う。


「あ、えっと……その、なんていうか……」


 正直なところ、指輪は欲しがっていたから買ってあげただけで、「指輪」ということに深い意味はなかった。もちろん、薬指にはめて欲しいと言われた意味は理解しているものの、断れなかったと言う側面が大きい。

 軽い気持ちといえば聞こえは悪いが、彼にとって深い意味はなかったのだ。


 それを正直に言ってしまえれば楽なのだが、その言葉は灯を失望させてしまうだろう。かといって、「そういう意味」だと肯定することは、嘘を吐くのに等しい。そもそも灯と交際するつもりは今のところないのだ。


「ハッ」


 千里が馬鹿にしたように笑った。

 踵を返して、その場を立ち去っていく。


「まって、千里ちゃ―――」

「悠一」


 千里を止めようとする悠一を、一言で制する。

 指輪についてはっきりとした答えが出なかった以上、悠一にそんな気はないことはわかった。ならなおさら、千里がこの場にいるメリットは灯にとって皆無だ。

 せっかく立ち去ろうとしてくれているのだから、このまま何処かへ消えてくれたほうがいい。


「放っておきなさい。それよりも、映画始まっちゃうよ」

「でも……」

「今は放っておいて。今言っても逆効果だし、あの子も受け止めきれないだろうから」

「そうなのかな……」

「そうだよ、ね?いいからもう行こう?」


 複雑な心境のまま、灯は悠一の手を取った。

 小さなすべすべとした手が、手の中に納まる。

 今はこれでいい。少なくとも、指輪を贈られたという事実だけあれば。

 それが悠一にとってどうであれ。既成事実だけあればいい。


 奥歯がぎりっと軋む。せっかくの幸せな気分が台無しだ。

 

 薄々気付いていたが、目を逸らしていた。

 一人で盛り上がっていたこともわかっている。それでもたまには、幸せな気分に浸っていたいのだ。

 彼を巡る戦いは先が見えない。障害は他の女だけでなく、彼の性格にもあった。

 思春期だというのに女性を避けるところや、そのくせほいほい他の女に付いていってしまうこと。人を疑うことをしらないこともそうだ。

 自分にも特別な感情なんてないだろう。大切な家族というだけで、きっと女性としては見ていない。先程答えられなかったのがいい証拠だ。


 ならば。


 握る手に力が篭る。

 好意を寄せる男の子の手は、灯の手をしっかりと握っていた。


―――家族ではなく、女として意識させればいいのではないか。


 真夜もやっているのだ。自分だってスタイルには自身がある。胸だけが女の価値じゃないってことを解らせてやる。

 同じ屋根の下で住んでいるのだから、一度意識させればこっちのものだ。

 彼のことは全てわかっているのだ。性格も、扱い方も、全て。


 最悪、彼の気持ちは後でいい。

 今は周りの女たちからリードすることが最優先だ。既成事実を作ったその後で、しっかり管理すれば彼を独占することができるはず。


 振り向くと、困ったような少年の姿。

 はっきりと答えられなかったことで、灯が怒っていると思っているのだろう。鈍感そうに見えて、そういった機微には鋭いのだ。

 不安を取り除くために、彼に向かって笑いかける。怒っていないと思わせるために。


 灯の作った笑顔に、悠一はほっとする。

 気がかりは色々あるようだが、今は二人の時間を楽しんで貰いたかった。


 映画館では、もう入場が始まっていた。

 オーソドックスにポップコーンと炭酸飲料を買って、館内へと踏み入る。薄暗い雰囲気にどきどきする。

 灯は暗い館内で、自分の唇を舐めた。


 悠一の女難は、この日から始まったのだった。


                





「どうせ、あいつに無理矢理買わされたんだろ」


 人で賑わうショッピングモール。和気藹々と楽しむ人ごみの中で、千里は一人薄ら笑いを浮かべていた。

 ときどき思い出したかのように高笑いをしては、周囲の人の視線を集めた。


「アタシが助けてやんないとな……」


 彼女の脳裏には、助けを求める悠一が浮かんでいる。

 真夜や灯、その他大勢の女たちから、逃げ惑う彼の姿。助けてくれと、千里に縋り付く少年の涙。

 だから言ったのだ。散々忠告したのに、言うことを聞かないからこんなことになる。

 黙って大人しく自分のものになっていれば、あんなことにはならなかったのに。


「先輩はアタシのもんだ」


 完全にモノにするには、彼をそう教育してやればいい。

 体で、心で、恐怖で、暴力で、愛で以って教えてやればいい。

 最後はそれが二人のためだと気付いてくれるはずだ。そうすれば、彼は自分から離れられなくなる。

 痛いのは最初だけ。素直になれない馬鹿な彼を、仕方なく痛みを以って救ってあげるのだ。

 その後は、たっぷり愛してあげよう。真っ白な彼を、自分で好きなように汚すのだ。

 その汚れすら、それがどんな汚れだろうが、喜んで受け入れるように叩き込む。


「ははっ、ははははははは……」


 愉快だった。

 これからのことを考えると、堪らなく愉快だ。


 歩く足が速くなる。準備のために、ホームセンターなど色々寄らなければならない。

 いつかの夢で見た女が言っていたように、やりたいようにやればいい。

 いやにすっきりした頭で、千里の心は晴れ渡っていった。


 悪魔だけが、彼女の心の変化に気付いていた。







 映画は前評判に劣らず、序盤から派手な演出が続いていた。


 首が痛くなるからという理由で、最後尾の座席に座る二人。公開終了が近いからか、悠一たち以外の客は数人程度だった。

 もきゅもきゅとポップコーンを食べる悠一。音を立てないように食べている辺り、彼の性格が窺い知れた。


 右手は相変わらず灯に握り締められていた。

 そうでもしなければ、彼が何処かへ行ってしまうのではないかとでも言うように、ずっと離されることはなかった。

 やはり彼女を傷つけてしまったのではないかと不安になるが、今は何も言わないことで精一杯だった。


 灯のことは嫌いではない。むしろ好きと言える。

 それでも、女性に対する根源的な恐怖は彼が付き纏っていた。

 あの優しい母が父を殺したように、女性はどこか奥底に鬼を飼っているのではと刷り込まれている。彼にとって世界で一番信頼できる人間が、刃物片手に世界を壊したのだ。心のどこかでは、人を信頼しきることに恐怖を覚えていた。


 どれだけ信頼しようとも、いつか裏切られる日が来るのではと思うと、人と深く関わることへの一歩が踏み出せなくなる。


 そんな中で、灯や真夜は自分に新しい家族の暖かさをくれた存在だ。

 そんな二人を、母親と重ねてしまう自分に自己嫌悪する。特別な関係になったら、全て壊れてしまうような気がしてならないのだ。


 そうなってしまうくらいなら、と考えるのは間違っているのだろうか。


 まだ十代の彼にとっては、何が正解なのかはわからない。ましてや女性との交際経験などないのだから、どうなってしまうかなんて皆目検討がつかない。

 それが姉妹を苛立たせていることは分かっているのだが、どうしようもないのだ。

 ごめん、と謝ることが、今彼にできる唯一のことだった。


 スクリーンには、主人公の俳優と、その恋人のキスシーンが映し出されていた。

 悠一には十分刺激的で、ふと目を逸らしてしまう。赤くなった顔が分かりづらいというのは、映画館の良いところだと思う。

 逸らした目で、ちらと灯を盗み見た。邪魔にならないように、一瞬だけ視線を送る。


 ひっ、と息を呑む悠一。

 暗闇に浮かび上がった灯の顔が、悠一を凝視していた。

 映画そっちのけで、無表情でこちらを見つめる灯。瞬きもせずに、気付かないフリをする少年をひたすら眺めていた。

 一体いつから見詰められていたのだろうかと思えるくらい、彼女は微動だしない。


 一瞬だけ、二人の目が合った。


 誤魔化すように、何もなかったようにスクリーンへと向き直る。

 一度気付いてしまったら、彼女の視線がひしひしと感じられるようになる。


 握られていた手が不意に離される。

 そのまま、彼女の左手が蛇のように悠一へと絡みつく。肩から首、右手は腿へと置かれた。

 二人の席の間、肘掛にあったドリンクが払われる。邪魔だとでも言うように、床へと叩き付けられた。

 

「ちょっと灯、飲み物が……」

「うるさい、静かにして」


 灯にとって、飲み物などどうでも良かった。

 思い立ったが吉日。行動は早いほうがいい。騒がしい映画でよかったと心の底から思った。


 覆い被さるようにして、灯は悠一の唇を奪った。

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