灯Ⅱ
「顔赤いけど、大丈夫?」
リビングで待っていた灯の第一声は、悠一の動揺を大きく誘った。
もしかして分かってて言っているのではと疑いたくなるくらい、彼の最も突っ込まれたくない部分を突く。本気で心配している様子でなければ、今すぐ土下座で謝り倒すしかなかっただろう。
「風邪かもしれないから、一応熱測ってこうか」
「あ、いや、大丈夫だよ。昨日の夜ちょっと暖かかったからかな、ははは……」
怪訝な顔をされるが、灯は深く追求はしなかった。
乾いた笑い声がリビングに響き渡る。尻すぼみになって、気まずそうに消えていった。
「そんな暑かったかな……ま、とりあえず熱だけは測っておきなよ」
「うん、ありがとう」
救急箱を漁り、白い体温計を手渡す灯。もう何年も前に買った体温計だが、あまり使用しないせいか新品のように綺麗だった。
灯は体温計を脇に挟む悠一に向き直って、感情を込めずに訊く。
「それで、お姉ちゃんとなにやってたの?」
「ぶフッ!」
思わぬ言葉に噴き出してしまう。何か言おうと口を開いてみたが、言葉は一向に出てこなかった。その態度が彼女の確信を深めていく。
「なんで……」
「なんで?なんでってことは、やっぱり何かしてたんだ!」
とっさに出た言葉が、灯を爆発させる不用意な一言になってしまった。
その一言が逆鱗に触れ、一気に沸点を超えていく。
カマを掛けられたと悟ったときには既に遅く、眉の吊り上った灯がリビングを出て行くところだった。
「待って待ってちょっと待って!」
「うるさいッ!今日こそは許さないあのクソ女!」
どたばたと階段を駆け登っていく。止めようとして伸ばした手をすり抜け、真夜の部屋をノックなしで蹴り開けた。
灯が激昂してドアを蹴り飛ばすのはこの一ヶ月で二度目だ。前回壊した鍵を直していないため、今回はすんなりとドアが開いた(それでも何かが壊れたような鈍い音を立てた)。
「お姉ちゃん!また襲ったでしょこの淫乱女!今日という今日はぶっ殺してやる!!」
飛び入った勢いそのままに、灯は敵意剥き出しで怒鳴り散らす。
朝から随分と物騒な言葉遣いだが、これでもまだ大人しいほうだ。本当にキレたときはこんなものではない。
「へっ……?」
「あ」
目と目が合い、姉妹が共に唖然とする。
気の抜けた声を出し合い、そこから続く言葉が凍りつく。
噴火寸前の怒りは一気に冷め、「この状況」に怒ればいいのか謝ればいいのか混乱してしまった。
見詰め合い、硬直したままで時間が過ぎていく。何て言えばいいのか分からず、先程の悠一同様の乾いた笑いが姉妹の口から漏れた。
「あの、なんかごめん……」
「いえ、こちらこそ……」
やっと目を伏せて、後ずさるようにして部屋を後にする。
ベッドの上では、玩具を片手に自分を慰めていた真夜が、涙目で震えていた。頭に被っていたのは悠一のボクサーパンツだろうか。
そっと閉めた扉の向こうから、後悔の念を詰め込んだような悲鳴が上がる。辛うじて「誰か私を殺してぇ」と叫んでいるのが分かった。さすがの灯でも、あの状況で追い討ちはできない。
追い付いた悠一に今日は許してあげたと告げ、彼の背中を押してリビングへと戻った。
真夜は「風邪を引いたから休む」という体で、一日中部屋に引き篭もることになるのだった。
♪
「ねえ、今日さ、学校終わった映画見に行かない?」
「映画?」
午前の授業も終わり、屋上でのお昼休み。悠一の作った弁当を食べ終わった灯が悠一を誘った。
五月中頃のこの時期なると、昼休みの屋上は生徒で賑わうようになる。
太陽が出ていればかなり暖かくなるので、昼食のシチュエーションとしては抜群であった。
「そ。昨日観たいやつあるって言ったじゃない?」
あぁ、と気のない返事を返す。
確かに、シリーズ物のアクション映画の続編が公開中だと聞いた覚えがある。
「いいんだけどさ、今日姉さん風邪引いてるって―――」
「お姉ちゃんはいいの。むしろ今日は放っておいてあげて」
「でも……」
「いいから。マジで」
にこにこした表情から一変、鬼気迫る真剣な声で話を切られてしまった。
どこまでいっても血を分けた姉妹なのだ。真夜も悠一に惚れていると知っているし、その相手に「あいつは朝っぱらから大人の玩具で遊んでました」と告げ口するのは躊躇われた。
貸しだからね、と心の中で呟く。他の人間にはとことん冷たくなれるのに、真夜には徹底的になれなかった。
「ついでに晩御飯も外で食べよっか。私行きたいとこあったんだよね」
スマートフォンを弄り、ブックマークして置いたサイトを呼び出す。画面に映し出されたのは女性に人気のパスタ専門店だ。
「ね、お姉ちゃんには私から連絡しておくから」
満面の笑みを浮かべる灯に、悠一はデートの誘いを受けることにした。
真夜の心配もあるが、たまには羽を伸ばすのも悪くない。
いいよ、と頷くと、灯は一層笑みを咲かせた。あまり二人きりで出かけることがなく、こういった機会は久々なのだ。
手早く弁当を片付けて、二人は屋上を後にする。
隠れるようにして、金髪の少女が二人の背中を睨みつけていた。
♪
電車で約三十分程、二人は商業施設の立ち並ぶ街へと到着した。
駅周辺を中心として、広範囲に渡って食事や娯楽を楽しめるように作られている。
悠一たちの目的である映画館は、中心街の真ん中にあった。
ショッピングモールの上階にあり、この日も若者で溢れかえっている。放課後の時間ともなれば学生服の生徒が目立ち、その中に悠一たちの姿もあった。
上映スケジュールが表示された電光掲示板を見て、灯はがっかりしたようにため息を吐いた。
「あぁ……タイミング悪かったかなぁ。次一時間後だって」
「仕方ないよ。先にご飯食べる?」
「まだ五時前なんだけど。まぁ、ちょっとそこら辺ぶらっとしよっか」
そう言って、灯は悠一の手を引いた。
どことなく灯は浮かれているようだった。じんわりと手に汗が滲んでいる。
手を繋いだまま、雑貨店やアパレルショップをだらだらと回った。
手のひらを掴んでいた手は、自然と指を絡めるように握られている。気恥ずかしかったが、花が咲いたような笑顔の灯を見ると話すわけにもいかなかった。
サバサバとした性格の灯は、意外と可愛いものが好みだったりする。
雑貨店ではピンク色のマグカップやぬいぐるみを、アクセサリーショップで手にとっていたのはハートをあしらったアクセサリーばかりだった。
「あ、これ可愛い。ねね、悠一はどう思う?」
学生向けに安価な商品を取り揃えているアクセサリーショップで、初めて灯が悠一へ問い掛けた。
手にはやはりハートがデザインされたリングが握られている。シルバーのシンプルなデザインだが、ワンポイントのハートマークが彼女の琴線に触れたようだ。
「うん、いいと思うよ。似合ってる」
「えー、そうかなぁ。ちょっと私には可愛過ぎるかなぁ」
まんざらでもない様子で、指に嵌めた。リングを光にかざす。
安価ではあるがしっかりとした造りのそれは、蛍光灯の光を反射して輝いていた。
「うーん、どうしようかな……」
迷った様子で、ちらちらと悠一を盗み見る。
その様子を見て、悠一は彼女が言わんとしていることを感じ取った。
要は、悠一に買って欲しいのだ。
普段の灯は、自分の欲しいものは迷わず買う。意見を求めることはあっても、結局は自分の意思で買い物をするタイプの人間だ。
いつもは引っ張ってくれる灯が、可愛らしい一面を見せてくれる事に嬉しさを覚える。
懐事情は抜きにしても、久しぶりのおねだりには答えてあげたかった。
「いいよ、僕が買ってあげる」
「いいの!?」
間髪入れず、灯が目を輝かせた。
やっぱり待ってたのか、と心の中で笑った。両手でリングを包み込んで、胸に引き寄せる。心底幸せそうな笑顔がこの上なく微笑ましい。
「ありがとう。私、絶対大事にするから」
「はいはい。これからはあまり怒らないようにね」
直球の感謝が照れくさくて、茶化して誤魔化した。
そのままレジで会計を済ませ、このままでいいと灯は指輪から手を離さなかった。
店を出てすぐに、灯が悠一の袖を掴む。
「悠一、あのさ……」
珍しく、灯が照れたように俯く。
顔も赤く、搾り出された声は聞こえるか聞こえないかというくらい小さい。
「指輪、嵌めてもらっていい……?」
そっとリングを手渡す。その手が小刻みに震えていた。
乙女チックなところがある彼女は、買って貰ってから嵌めてもらうまでがワンセットだと考えていた。
好意を寄せている男の子に嵌めてもらうことこそが、今日一番のメインイベントなのだ。
悠一は何も言わず、差し出されたリングを手に取る。灯の体温で暖かくなっていた。
受け取って貰えたことに、彼女はさらに紅潮した。
俯いたまま、左手を差し出す。
悠一はその意味を理解して、一瞬戸惑ってしまう。その指に嵌めることがどういう意味を持つか理解しているのだ。
息を呑む。
手に取った灯の左手が熱い。自分の手も同じだ。
自分を立ち直らせてくれた、もう一度家族の暖かさをくれた少女の薬指に、シンプルなリングを嵌める。
抵抗なく、そのリングは指に収まった。
今にも泣いてしまいそうな灯が、今日一番の笑顔を見せる。
「ありがとう、悠一」
どういたしまして、と言った声は掠れてしまった。
♪
照れ臭そうな二人を、リリィは遥か上空から眺めていた。
リリィも悪魔とはいえ女性の気持ちは分かる。デートを邪魔するほど無粋な女ではないつもりだ。
とはいえ、彼らの視界に入らないようにつけていたが、彼女はこんな甘い展開は望んでいなかった。
あれ程慎重に見極めろと忠告したのに、彼はすぐに雰囲気に流されてしまう。あるいは、あの姉妹が特別なのだろうか。
つまらなさそうに二人を眺めていると、見知った顔が足早に近づいていくのが見えた。
金髪で、グレーのカーディガンを着た制服の少女だ。ありふれた姿だが、あのどす黒いオーラとも呼べるような雰囲気はひと目でわかる。
くすくすと笑って、彼女は楽しそうに傍観を続けた。
♪
こつこつとローファーの足音が、人で溢れるショッピングモールの雑音にかき消されていく。
少女が見据える先には、自分の想い人。
その想い人の目の前には、少女が最も嫌う女の姿。
二人は手を取り合って、何をしているのだろうか
屋上での会話を聞いて、心配になって後をつけるまでは良かった。
手を繋いでいたときは、その手を捻じ切ってやろうかと思った。
嫌がる素振りを見せない悠一に、どんなお仕置きをしてやろうかと思案した。
それでも、自分だけ蚊帳の外のような感覚は拭えなかった。
嬉しそうに微笑む女を見て、血管が千切れそうになる。
それを見て笑う少年を見て、胸が抉れそうに痛む。
気がつくと、少女は二人の前に立っていた。
女の左手、その薬指にはシルバーのリング。目の前にはアクセサリーショップがある。
どれだけ鈍い人間でも、この意味は分かる。
周りの目も気にせず、はっきりとした声で言い放った。
「先輩、なにしてんだよ」
少女の目から光が消えた。
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