栞Ⅱ
ほんの少しだけ冷たく感じる程の夜風が、夜道を歩く栞の体を撫でた。
火照った体を冷ましてくれるだけでなく、血が上った頭を冷静にさせてくれる。
一人暮らしのマンションに着くまでには、いつも通りの自分に戻らなくてはならない。一人、部屋で悶々と過ごす夜は嫌いなのだ。
今日は彼女にとって苛立つ事の多い日であった。
正確には週末からなのだが、その中でも今日は特に最悪だった。愛しい想い人が襲われかけたのだ。
自分の意中の相手がモテることは知っていたし、モノにするには時間がかかることも分かっていた。手っ取り早い方法もあるにはあるが、彼の性格上、精神的に結ばれるほうが先決だ。力ずくで、というのは最も愚かな方法なのだ。
愚かな方法だとは分かっているからこそ、彼女はその手段をとることはないのだが、彼の周りをうろつく目障りな女たちはそれが分かっていないらしい。
家族のフリをして擦り寄る雌猫もいれば、暴力的で力づくなバカ女、盗撮や盗聴を当たり前だと思っている変態。
今まで無事だったのが奇跡のように感じるが、それが何時まで続くかは分からない。その証拠に、ここ数日で彼の身の危険が増しているように感じていた。
彼の近況は、彼自身から相談という形で知ることができる。というのも、悠一にとって栞は“相談に乗ってくれる「年上のお姉さん」だからだ。
悩みや勉強、他愛のないことまで、何でも親身に助言を与えてきた。弱みを見せる愛しい少年に歯を食い縛りながらも、確固たる信頼を勝ち得たのだ。
この関係こそが、彼を手に入れる一番の近道だと信じている。
確信したのは彼に付いたキスマークを見たときだった。
キスマークに言及したとき、悠一はほんの一瞬ではあったが影が差したのだ。その後には作ったような笑み。
自分でなければ気付かない彼の隠し事―――それも、彼にとっては喜ばしくないものであることは、容易に想像がついた。
それを心中で良く思っていないのであれば、やはり体から手に入れても心は離れていくだろう。順番を間違えてはいけないのだ。
(それにしても……)
気に入らないのは、あの噛み痕のようなキスマーク。
店に来た姉妹に変わった様子はなかったし、変態女は痕を残すよう真似はしないはず。となれば、犯人はあの金髪のバカ女だろう。
暴力的な女だとは思っていたが、ついに悠一に襲い掛かったらしい。ぎりっ、と静かな夜に似合わない音が響く。自分の歯軋りだと気付いて、口元を手で押さえた。
やってはいけない事と、やりたい事は別物なのだ。
この感情は嫉妬だということも理解しているが、自分の心は誤魔化せない。キスマークを見たとき、その上から齧り付いて上書きしてやろうかと本気で思った。
とはいえ、バカ女の方は放っておけば自滅する。
冷静さを取り戻すように、自分に言い聞かせるように思考する。怒りが和らぐことはなかったが、今後のためと思って噛み砕く。
握りこんだ拳を開くと、爪が割れてしまっていた。軽く舌打ちをして、割れた部分を捩じ切った。
とにかくあのバカ女―――千里は、一歩後退となった。
このまま悠一が千里を避けていけば、彼女の脱落は決定的だ。拒絶されたときの暴走にさえ注意を払えばなんとかなる。力づくだけでなんでも手に入ると思ったら大間違いだ、下品な女め。
拒絶されて絶望したところで、自分が止めを刺してやればいい。いずれ自分の伴侶になる男に襲い掛かったのだ。心を砕くくらいで終わらせるつもりはない。二度と女として生きていけないようにしてやる。
その前にあの変態女に始末されるかもしれないが、それはそれでいいだろう。自分の手が汚れないのであれば、手間が省けて大歓迎だ。
結局のところ、最後に笑うのが自分であればいい。
信頼を得た後は、彼の周りにいる女を避けるように仕向ける。そうすれば傷ついた彼が頼る先は自分しかいなくなる。
悠一が自分なしでは生きていけない世界になれば、自ずと彼は自分のものになる。
そのためには、彼の周囲を壊すことだって厭わない。いや、むしろ壊れてしまえばいい。周りも、彼自身も。
先程までの怒りはどこへやら、くすくすと笑う栞。
可愛らしく自分に甘える悠一を想像しただけで、心が澄んでいくような気さえする。
暗い夜道で一人笑う女は、家に着くまで笑みを絶やさなかった。
♪
バイトも終わり、自宅で食事と入浴を済ませた少年は、家族との会話もそこそこに自室へと引っ込んだ。
今日は色々とあり過ぎて、姉妹と楽しく談笑する元気がなかったのだ。真夜は分かりやすく不満を表していたが、本気で疲れている様子の悠一を見てしぶしぶ引き下がった。
灯は珍しく何も言わずに就寝を促していた。就寝ぎりぎりまでコミュニケーションを取りたがる彼女も、何か思うところがあったのだろう。
というわけで、悠一は久々に早い時間から自室に篭る事ができたのだった。
ベッドへ身を投げて、沈む体を感じながら天井を見上げた。明るすぎる部屋を嫌う悠一の部屋は、暖色の間接照明で照らされている。
そのままぼうっと眺めていると、黒いドレスの美女が目の前を横切った。相変わらず歩くということをしない彼女は、何を言うわけでもなく悠一を見下ろしていた。
「……なに?」
じっと見詰められている状況に我慢できず、悠一が抑揚のない声で話しかけた。
我慢比べに負けた気がして、ちょっと悔しい気もしたけれど。
一拍置いて、リリィははっきりとした声で答えた。
「別に何もないわ」
「なら、じっと見るのはやめて」
「ふふ、どうして私が君の言うことを聞かなければならないのかしら」
小馬鹿にしたような態度で、リリィは空中で寝そべった(言葉にすると変な感覚だが)。
頬杖をついたような仕草で、薄ら笑いを浮かべている。言葉も何処となく刺々しい。
付き合いは浅いが、何故か彼女の言いたいことを悠一は理解した。
「……昼間は、助けてくれてありがとうございます」
「あら、お礼を言えるなんて知らなかったわ。助けてあげてからもう半日以上経っているのだけれど、二人きりになれなければ恥ずかしくて言えなかったのかしら?」
「言うタイミングが無かっただけだよ。それに、元々リリィが原因でしょう」
感謝を待っていたかのように、リリィはすかさず憎まれ口で言葉を返した。
確かにお礼を言うべきではあったのだが、よくよく考えれば千里がああなったのはリリィが原因なのだ。納得できない気持ちもあって、今まで言えず終いだったのだ。
やっと求めていた言葉が聞けて満足したのか、彼女の言葉から刺々しさが抜け落ちる。
「ふふ、これで五人が出揃ったわけだけれど、もう目星はついたかしら。あんまりのんびりしてると、君ってすぐ食べられてしまいそうだもの」
リリィは心底嬉しそうな表情を浮かべた。まるでそうあってほしいかのようだった。
「ひとつ聞きたいんだけどさ」
軽口を無視して、悠一は言葉を続けた。変わらず、声に感情を込めないようにする。
「誰も選ばなかった場合はどうなるの?」
時間制限は聞いていない。であれば、最悪誰とも結ばれなければ死なずに済むのではないかと考えたのだ。
「さぁ、どうなるのかしらね。結ばれるってことが何かも分からないで、ずっと逃げ続けるのならそれもいいと思うわ。それはそれで私も楽しいし、君が生涯逃げ回るのを眺めるのも悪くないわね」
嗜虐的な色を帯びた瞳が、すっと細められた。
明確な答えは得られなかったが、口ぶりから察するに、やはり時間制限はないらしい。
見下ろす赤い瞳に、悠一は動じることなく思考を続けた。命がかかっているのだから、多少の犠牲は覚悟していた。
彼女にはまだいくつか聞きたいことがあった。生き残るために、今日のような日々から身を守るために、ルールは明確に把握しておかなければならない。
「私が言えるのはここまで」
悠一が更に質問を重ねようとした矢先、その言葉を出させることなくリリィは幕を下ろした。
これ以上は答えない、という明確な回答。あとは自分で考えろとでも言いたげなその行動は、悠一の目を閉じさせるには十分だった。
何も言えなくなった悠一は、諦めを溜息で表現した。わざとらしく大きく吐いて、宙に浮かぶ美女に不機嫌です、という意思表示をする。
反発する少年が可愛らしく感じたリリィは、こちらも仕方ないとばかりに言葉を付け足す。
何だかんだ言って、彼女は彼に甘いのかもしれない。
もっと楽しませて欲しいという希望と、今すぐにでも殺して自分だけのものにしたいという欲望。どちらも捨てがたいが故に、手助けをしてしまうのだった。
「逃げられるというのなら、彼女たちがそんなことを許すとでも思っているなら、どうぞご自由に。ふふ、無理だと思うのだけれど」
「これ以上は言えないんじゃなかったの」
不機嫌そうに、悠一は目を瞑ったまま言い放った。疲れと、逃げられないんだろ、という気持ちが彼を苛立たせた。
「ふふふ、そうね。今はもう言わないわ」
おやすみなさい、と耳元で囁くリリィ。
吐息すら感じる言葉に、それでも悠一は目を開けなかった。
明日からどんな顔で千里に会えばいいんだという思いを抱えたまま、数分足らずで夢の中へと沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます