栞Ⅰ
悠一の通う高校の周辺は、閑静な住宅街で囲まれている。
駅から二十分程と距離はあるが、バスなどの交通機関はしっかり通っており、不便さを感じることは少ない。
駅周辺はそれなりに発展しているし、昔ながらの大きな商店街は学生や地域住民で活気付いている。若さゆえのマナーの悪さも、元気があって良いということである程度は見逃されていた。
その商店街の人気スポットとして、悠一がアルバイトをするカフェがあった。
ウッド調のインテリアや、静かに回るシーリングファンライト、ハウスミュージックが流れるその空間は、落ち着ける場所として老若男女に人気である。
軽食やケーキも一級品でありながら、学生にも手が届く値段設定となっていることも人気の秘密だ。試験勉強のシーズンになると学生で溢れ、経営は順風満帆である。
マスターの紅茶に惚れこみ、悠一もこのカフェでバイトをするようになったのだが、未だマスターを納得させる出来ではなかった。
早くまともに淹れられるように、となじられはするが、それでも半年ほど週三日で働く中で、彼は店のマスコットとして売り上げに貢献していた。彼のシフトに合わせて女性客が露骨に増加することは、店にとって嬉しい効果だった。
この店のマスターである秋川 修は、その外見や面倒見のいい性格もあって女性に大人気であり、彼を目当てに来店する女性客も非常に多い。
百九十センチの身長と、格闘家を思わせる体躯は一見すると喫茶店のマスターとは思えない迫力があるが、黒い髪を後ろで縛り、綺麗に整えられた顎鬚がワイルドで格好いいと評判だ。
実際彼には色々な伝説があり、真偽はともかくとして、それが彼を一目置かれる存在へと押し上げていた。
もちろん、アルバイトスタッフは悠一だけではない。
女性客と同様に男性客が多い理由が、同じアルバイトスタッフである榊原 栞であった。
「悠一さん、首のところに何かついてますよ」
腰から下だけを覆った黒いショートエプロンに、ワイシャツと黒いベスト。おっとりとした声と共に、栞は悠一の首下をまじまじと眺めた。サイドで纏めた茶髪がふわりと跳ねる。
微笑んだような笑みを絶やさない彼女の目が、申し訳程度に開かれた。特徴的な垂れ目が近づき、悠一は思わず一歩下がってしまう。
誤魔化すように、悠一は首を摩った。首に残った千里の痕跡を意図的に隠そうとする。
「これ虫に刺されちゃいまして……なんかもう蚊が出始めたみたいですね」
「まぁ、それは大変ですね。絆創膏を持っているのですけど、使いますか?」
追いかけるようにして身を乗り出す。黒いベストとワイシャツを押し上げる双丘が目の前で強調された。
悠一よりも十センチ高い彼女は、彼と話すときは目線を合わせようとしたがる。それが彼の赤面を誘うと知ってから、彼女はわざとやっていることを悠一は知る由もなかった。
「あ、いえ、大丈夫です。家に帰って薬塗れば治りますよ」
「だめですよ悠一さん。こういうのは最初が肝心なんです。気付いたときにはひどくなってたりするんですから」
使いますかと訊いた割に、断ることは許されないようだ。
開いているのか不安になる目が剣呑さを帯びた(それでも微笑んでいるようにしか見えないが)。
悠一との距離が更に詰められ、見方によっては寄り添っているようにも見えてしまう。相変わらず人の多い店内がざわつき始めた。
「本当に大丈夫ですって」
「だめです」
「それに虫刺されって絆創膏じゃないような……」
「だめです。虫刺されには絆創膏です。それとも、お姉さんの言うことが信じられないんですか?」
栞はよく「お姉さん」であることをアピールする癖がある。
実際見た目はいかにも優しい年上のお姉さんといった風体で、性格も世話焼きで優しいと評判だった。
それでも強調してお姉さんと言いたがるのは、彼女自身が弟を欲しがっていたからだ。
彼女は可愛い弟をずっと願っていたが、両親に頼んでもそれは叶わなかった。悠一と出会い、彼がアルバイトとして働き始めてからは、彼を弟のように扱うことで夢が叶ったような気になっていた。
「でもそれ、本当は虫刺されじゃないんですよね?」
慌てる悠一が面白くて、栞はからかいの手を止めない。
わざと開けた胸元が見えるように誘導すれば、悠一は余計に赤面して目を逸らす。その様子が彼女の琴線に触れるのだった。
首に残った赤い痕も、悠一は虫刺されだと主張している。もちろんそんなものではないと彼女は気付いているのだが、必死で誤魔化そうとする悠一が可愛くて仕方なかった。
改めて指摘してやれば、彼女の思惑通りに焦る悠一がいた。うっ、と詰まってから必死に弁明する。
「違いますよ!本当に虫刺されなんですって!」
「蚊に刺されたらそんなふうにはならないんですよ?」
「本当なんですってばぁ……」
「くすくす。キスマークなら余計絆創膏で隠したほうがいいんじゃないですか?悠一さん目当てのお客さんに見られたら怒られちゃいますよ?」
上品に笑う彼女の声が耳に残る。からかわれていても、心地よく感じてしまう。
「それに、お姉さんもちょっと怒っちゃいます。悠一さんは、私の可愛い弟なのに」
拗ねたように、分かりやすく不満を表す栞。
冗談なのか、本気なのか分からない声音だった。しかし面と向かって怒っていると言われたら、誤魔化している自分が悪いように感じてしまう。
彼女の表情が崩れないのだから、きっと冗談なのだろうと悠一は判断した。
「すみません……でもこれ、不可抗力というか、悪戯の延長というか……」
「悪戯だったら、キスマークつけるようなことしていいんですか?」
はいだめです、と即答した。
叱られているような感覚で、小学生に戻ったような錯覚に陥ってしまう。
「だめなのにしちゃったんですか?もう、悠一さんがそんな悪い子だとは思いませんでした。誤魔化そうとしましたし、お姉さんショックです」
「いや、ほんとすみませんでした……」
「大体そんなにくっきり痕残るまでするなんて……」
眉毛を吊り上げて、怒っているとはっきりと表す栞。
内心はしゅんとする少年をもっと虐めたいと思っているだけで、悠一も栞が本気で怒っているとは思っていなかった。
店内のざわめきも収まり、カウンター席でやり取りを見ていた女生徒もにこにこと笑っていた。というのも、こういったやり取りはこの店では名物となっていて、何かにつけて栞が悠一をからかっては弄るという一連の流れが、常連客の間では楽しみの一つなのである。
「おーい、そろそろ真面目に働いてくれ」
カウンターの奥から、低く男らしい声が響く。凛とした雰囲気のマスターが休憩から戻ったようだ。
彼はヘビースモーカーで、休憩と称してはちょくちょく煙草を吸いに奥へ引っ込む。本日何十回目かの休憩が終わって店内へ戻れば、いつものようにアルバイトの二人がじゃれ合っていたのだ。オーダーもなかったとはいえ、従業員同士で長いこと話していれば注意の一つもしなければならない。
もっとも、仲が悪いよりはマシだし、アルバイトをそこまで厳しく律するつもりもなかった。一連のやり取りは客に好評だし、彼らのおかげで忙しい店も回っている。客に粗相とは取られない限りは、頃合を見て軽く促すだけにしていた。
はーい、とおっとりした栞の返事が返る。それに続いて、悠一がすみませんと謝罪した。
やり取りが終わったところで、ソファ席で雑談を楽しんでいた学生が手を上げて栞を呼ぶ。注文お願いしますといった声に釣られて、カウンター席の女生徒もケーキを選び始めた。キスマークへの追求はこれで終わりだと胸を撫で下ろす。
「あ、そうそう」
オーダーシートを持ち、注文を聞きに行く直前に、栞は囁くように悠一へ声をかける。
にこやかな顔を崩さず、彼女は悠一へ優しい声で忠告する。小さな子供への注意のように、言い聞かせるように放った。
「悪戯でキスマークを付けるような子と付き合っちゃだめですよ?その子は悠一さんに悪い影響を与えます。そのオトモダチにはしばらく近づかないと、お姉さんと約束してくれますか?」
その柔らかい笑顔に似合わない言葉だった。
ん?と返事を待つ栞に、悠一は思わず返事をする。
はい、という反射的な肯定に、栞は満足したように笑みを深くした。
「いい子ですね。さすが私の弟です」
「いや違いますけどね」
これは否定する。既に個性の強い姉妹の弟なのだ。これ以上はお腹いっぱいである。
くすくす、と笑う栞。無言のまま呼ばれたソファ席へと向かった。
悠一には聞こえない距離で、彼女は静かに舌打ちをした。
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