千里Ⅱ

(ふふふ……あー、本当に面白い子)


 眼下では、血走った目の少女に組み敷かれた少年が必死に抵抗をしている。

 少年の口は塞がれ、両手首は頭上で押さえつけられていた。短いスカートが捲くれていることも気にせずに、金髪の少女は手に感じる体温を楽しんでいるようだった。


 少年と悪魔の視線が交差する。

 襲い掛かる後輩のその先、天井でゆらりと舞う悪魔は嗤っていた。

 いつか見た、その美貌に似合わない無邪気な笑み。

 楽しくて仕方がないといった笑顔に、助ける気はないなと悠一は諦めた。


(そんな目で見られても、助ける気なんてないわ)


 悪魔は依然嗤ったまま、興奮したように千里を煽った。

 赤い眼が鈍く光る。押さえつけている少女の手が力強くなっていく。


(悪魔に助けてもらおうなんて本当にお馬鹿さん)


 少し話をしただけで、味方になったと思っているのだろうかとリリィは思う。

 人を疑うことをしない、純粋で馬鹿な少年だからこそ気に入った訳なのだから、こうでなくては面白くない。

 もっともっと抗って、楽しませて欲しい。まだまだ物語は始まったばかりなのだ。

 抵抗が弱くなってきた少年の耳元で、ぼそりと呟く。楽しむ為なら手間を惜しむつもりはない。


「君はこの子を選ぶということでいいのかしら?」


 悠一の目が大きく見開いた。 







 なかなか戻ってこない悠一に、灯は焦りを覚えていた。

 ケガの手当てとはいえ少し爪が食い込んだだけだ。数分で済むような手当てに何十分かかっているのだろう。

 教壇に立っている真夜も同じようで、空いたままの席をしきりに気にしていた。授業にも身が入っておらず、何度も同じページを一人の生徒に読ませている。その生徒は七度目の英文を読まされたところで、反抗することをやめていた。


(遅い。遅すぎる)


 手の中のシャープペンが乾いた音を立てて折れる。水族館で買ったお気に入りのペンだったが、今はどうでもいい。

 体調が悪いとでも言って、保健室へ行こう。灯が席を立って声を出そうとしたとき、スマートフォンが鈍い音で振動した。

 画面にポップアップしたのは、親友の名前と短い一文。



―――悠ちゃんなら大丈夫。



 たった一言、簡潔に書かれたメッセージが、灯の不安を加速させた。

 喉まで出掛かった声を押し込める。何人かが灯を見たが、すぐに目線を戻した。

 真夜に隠れるように、慣れた手つきで楓へ返信する。


『なんでそんなことが分かるのよ』

『さあ?でも、今はまだ大丈夫』

『まだ?』


 まるで何かが起きるのを予知しているかの如く、楓のメッセージは自身に満ちている。

 見れば頬杖を付いて音楽を聴いていた。目が合ってもにこにこしているだけ。読めない表情に、心で舌打ちして微笑み返す。


『まだってどういうこと』


 業を煮やした灯が連続してメッセージを送る。短いバイブと共に、舌を出したスタンプとまた簡素な一文が映し出された。


『うそ。ごめんなさい、ただの勘よ』


 拳を思い切り机に叩き付けようとして、寸前で止める。

 楓が意外と悪戯好きなのは知っていたが、今は本当に勘弁して欲しかった。空気を読んで欲しいものだが、何度言っても直らないのだから無駄かと諦める。

 付き合ってられない、と返信して立ち上がった。集まった視線を無視して体調不良を訴え、答えを聞く前に教室を出る。

 真夜の怒鳴り声が聞こえたのは、扉を閉めた直後だった。



     




「先輩は、あいつにこんなことされたのかよ」


 ひどく冷めた声で、千里は悠一に問いかけた。

 ワイシャツのボタンを弾き飛ばして、悠一の胸元を大きく開く。抵抗する少年の力など彼女にとってはなんの障害にもならなかった。


 薄っすらと汗が滲んだ首元と鎖骨を見て、千里の喉が鳴る。ごくりと鳴った音がやけに大きく聞こえる。聞かれていないかと心配したが、悠一はそれどころではないようだ。

 

 鎖骨近くにつけられた小さな痣に、千里は苛立ちを覚えた。


「これ、キスマークだろ。これってそういうことだよな。先輩さっき、されてないって言ったよな」

「ちがっ……」

「ふざけてキスマークつけるようなことしてたのかよ」


 パン、と破裂音。

 後から滲むような痛みと暑さに、悠一は自分が頬を叩かれたと気付いた。

 反射的に目に涙が滲む。暴力を振るわれたという事実が、抵抗する心を折っていく。

 手のひらに残る感触に充足感を感じた。じんじんとした痺れが、悠一を支配している証のように思えたから。


「悪い先輩にはお仕置きだ」


 続けて二発、両の手で悠一の頬が叩かれる。両腕で顔を覆って逃げるが、千里は邪魔臭いとばかりにその腕を押し退けた。

 濁った目が、悠一の眼前に迫った。反射的に目を逸らした。顔に当たる生暖かい息が気持ち悪かった。

 

「逃げんなよ、先輩」


 ヒリつく頬に、千里の口元から唾液がぽたりと零れる。思わず喉から悲鳴が漏れた。

 その反応が千里の興奮を煽り、さらに理性を溶かしていく。鎖骨から喉元、頬を通って目元までをゆっくりと舌でなぞった。

 蛍光灯に照らされた唾液の線が艶かしく、自分の体液で悠一を汚していると思うと下腹部が熱くなる。堪らずもう一度舌で舐め上げた。


「まって、千里ちゃっ、ぁっ……」


 息が苦しい。

 悠一がなにかを言っているが、耳に入らない。そんなことよりもっと味わいたくて、汚したくて堪らない。

 身を捩って逃げようとする悠一の、真っ白な喉笛に噛み付いた。柔らかな肌の食感が本能を刺激する。

 このまま噛み千切ってみるもの良いかもしれないと思い、顎に力を込めた。


「あぃっ……がっ、いたぃ、からっ!」


 犬歯が刺さる痛みに、悠一が抵抗する。金髪の獣はその抵抗すら興奮に変えた。

 キスマークを超える印を、この少年に刻み込む。全力で暴れる悠一の手や足が千里の体を叩くが、この程度ならいくらやられても止まらない。止まってやらない。


 ぷつりと肌を食い破り、鉄の味が舌に広がったとき。


 千里の意識は、急速に暗闇へと落ちていった。







「はぁっ、はぁっ……」


 糸が切れた人形のように倒れこむ千里をどかして、悠一はベッドから床へと崩れ落ちた。

 首をさすり、指に微かに血が付いているのを確認してぞっとする。あのまま噛み千切られていたら、と恐怖を覚えた。

 千里は気を失っているらしく、うつ伏せのままベッドから起き上がらない。今は目を覚まさないことを祈った。


「困った子ね」


 悠一の傍へゆっくりと舞い降りる悪魔。黒いドレスよりも先に、長いブロンドがクリーム色の床へ触れた。

 先程までの楽しそうな表情から一変して、苦々しげに美貌を歪めていた。


「助けてあげないつもりだったのに。簡単に死なれても困るのよね。ちゃんと抵抗してくれないと、すぐに死んじゃうわよ?」

「死んじゃうって……」

「言葉の通りよ。あのままだったら君、喉笛食いちぎられていたわね。ふふっ、それはそれで面白いかもしれないけ、れ、ど」


 語尾を区切って、千里へ向く。見下ろす目には不穏な色が宿っている。


「まだだめよ。もっともっと君には頑張ってもらわないとね」


 そっと千里の頭を撫でると、リリィの目が赤く光った。


「千里ちゃんに何をしたんだ」


 気丈に、自分を鼓舞するように大きく声を上げた。いくつかボタンが千切れたワイシャツの胸元を握り締める様は、陵辱された少女のようである。

 リリィは答えなかった。「んー、悪くないわね」などと言っている。


「リリィ、お願いだから答えて。千里ちゃんだけじゃない、灯にも何かしたでしょう?」

「したわ。言ったはずよ。後押しをした、って」


 くすくすという嘲りのような微笑。望んだ答えにならない返答がもどかしい。


「この子は君のことが本当に好きなのね。君を汚して、壊して、独占してしまいたいって。他人に汚されるのなら、いっそ自分でって思うのは当然だわ」

「……千里ちゃんはそんな子じゃない。そりゃ口調は荒いけど、優しくて頼りにされてて、可愛いところもあるいい子なんだ」


 悠一にとって千里は可愛い後輩だ。

 決して私欲で暴力を振るうような、ましてや人を汚して壊そうなどという人間ではないと信じていた。


「ふふ、やっぱり君は面白いわ。純粋で、馬鹿で、無防備で……人を疑うってことを知らないのね」


 悠一の言葉は肯定も否定されなかった。小馬鹿にしたような言葉を返される。


 リリィが手を払うと、床に転がっていたボタンが見る見るうちにワイシャツへと縫い付けられた。数秒後には何もなかったかのように制服が修復され、首の髪傷もなくなっていた。

 魔法のような光景。改めて彼女が人外の者だと再認識した。


「……ありがとう」

「ふふっ、どういたしまして」


 悪魔にお礼を言うのもおかしなことだが、直してもらった以上感謝は述べたかった。

 こういう律儀なところが漬け込まれる隙となっているのだが、彼の性格上栓なきことだ。

 うつ伏せのままの千里へタオルケットを掛け、ベッド周りを仕切るカーテンを閉めた。

 静かに寝息を立てている彼女を見てほっとする。恐怖心はまだ拭えていない。それでも、彼女は大事な後輩だ。

 例え人を傷つけることを愛情表現とするような子だとしても。


 計ったかのようなタイミングで、大きなノックが保健室のドアを壊さんばかりに叩きつけた。



                    ♪




 保健室へ灯が到着したことを確認して、楓はイヤホンを外した。

 これ以上は聞いていても無意味だった。灯と悠一のやり取りなど、毎晩飽きるほど聴いている。

 薄く笑って、相変わらず同じページから進む気配のない授業へと意識を向けた。


(灯も君島さんも、まだ彼のことわかってないのね)


 独占欲ばかりで、彼のいいところをわかっていない。綺麗なままの悠一など、何の魅力があるというのだ。色々なものに汚されてこそ輝くというのに。

 他人の汚い欲望やどす黒い感情に心も体も蹂躙されて、初めて彼は完成する。

 ボロボロになって、擦り切れる寸前の悠一を愛でてあげたい。従順で自分がいなければ生きていけないくらいまで躾けてあげるのもいい。自分以外の女に犯させて、飽きるまで録画した後、それを鑑賞しながらお仕置きしたい。女装?当然毎日させるに決まってる。

 

 悠一と灯が教室へ戻ってきた。真夜の表情が一気に明るくなり、やっと授業が進むと思った矢先にチャイムが鳴った。

 くすくすと笑って、楓は悠一の傍から離れようとしない灯を見た。


 今は好きに彼を追い掛け回せばいい。

 彼に暴力を振るおうが犯そうが勝手にしてろ。


「最後に彼を手に入れるのは、この私」


 悠一から視線を外して、楓は自分の恋人に声を掛けた。

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