千里Ⅰ
君島 千里が悠一と出会ったのは、今から半年程前のことである。
野良猫にエサをあげている所を見て、一目惚れというベタなものだった。それでも彼女の心を奪うには十分な光景で、初めて感じた衝撃は忘れられない。
わざわざコンビニで買ったのか、猫缶を紙皿に移して食べさせるという細かさ。嬉しそうに猫を撫でる少年を、彼が立ち去るまでひたすら眺めていた。
その少年が自分よりひとつ年上で、彼女が進学する予定の高校に通っていると知ったときはかなり戸惑った。
自分のことながら、こんな不良が彼の後輩になるのかと思うと不安になる。彼の後輩になるのなら、今のままでは嫌われてしまう確信があった。
その後、色々な手を使って彼の情報を集めた。嫌煙家としればタバコをやめ、平和主義者だと分かれば喧嘩をやめた。出来るだけ彼の好みに合わせるようにした。以前の自分からすれば、信じられないことだ。
周囲の反応は様々なものだった。友人は千里の変貌っぷりに驚きを隠せず、中学の教師は生まれ変わったような彼女に涙を流す程だ。さすがにそれは腹が立ったけど。
見た目こそ変わりはしなかったが、元々頭も良く、運動も出来る彼女は一目置かれるようになった。
不良仲間はもちろんのこと、今まで付き合いの無かったような連中ともよく話すようになった。姐御というあだ名が付いたのはこの頃からだ。
努力の末に、千里は劇的に変わった。そうでもしなければ悠一とは関ってはいけない気がしたのだ。
わずか二ヶ月で生まれ変わった彼女は、その後悠一に積極的に関っていった。
初めて会話したときは思い出したくもないが、着実に距離は詰められていると思っている。ペットみたいに可愛がられるのが当たり前の彼が、後輩に甘えられるのは新鮮に感じているはずだ。こればかりは、後輩という肩書きに感謝する。
唯一彼女が許せないのは、天使に纏わり付く虫が大勢いることだった。
暴力を好まない悠一の手前、以前のように力ずくで払うこともできない。もどかしいことだが、彼の意思に反することは許されなかった。
特にあの桃山姉妹は、特大の害虫だと思っている。
同じ屋根の下に住んでいるというだけでも万死に値するのに、あろうことか彼を我が物のように扱っているのだ。
それにあの姉妹の腹の中には、どす黒く汚い感情が渦巻いていると千里は思う。姉妹は時折汚らわしく濁った目で悠一を見ていることがあって、女の情動や嫉妬の篭った視線に悠一は気付いていないようだが、これではいずれ彼はあの毒婦の手に落ちてしまう。
そんな事はあってはならないのだ。
ただの憶測に過ぎないことは分かっていたが、一度考えてしまうと悪い妄想ばかりが膨らんでいく。
頭の中では、あの姉妹に陵辱された少年の姿が映し出されていた。半裸で縛られ、全身を無数のキスマークと唾液で汚された彼が、虚ろな目で千里を見ていた。
―――許せない、許せない、ユルセナイ。
こんなことは認められない。彼は汚されていい存在じゃない。
もし彼を汚していい者がいるとすれば、それは他ならない自分だけだ。
誰よりも彼を想い、尊重し、理解できる自分ならば。
だが、あの姉妹がいる限りは、あの醜い悪夢が現実のものとなってしまうかもしれない。自分の立ち入れないあの家で、いつ蹂躙されてもおかしくない。
妙にはっきりとした思考が彼女を支配する。なんで今までこんな事に気付かなかったのか、理解できない。答えはこんなにも簡単なことだったのに。
そんな思考を抱えたまま、今朝、彼女は手を引かれる悠一を目にした。
痛みで顔を歪めた彼を引くのは、憎い毒婦。冷静を装っているが、嫉妬に身を焦がした哀れな女。
考えるより先に、体が動いた。そして確信する。この女は、今にでも彼をモノにしようとする。ケダモノと人間が混在しているその顔が物語っていた。
この女がその気なら、こちらももう形振り構っていられない。
彼が汚される前に、奪ってしまえ。
♪
「あの女は、先輩の何なんだよ。いつも偉そうに先輩を連れまわして、自分の物みたいに扱ってやがる。今日だってあたしが止めなきゃ、どうなってたかわからねぇ」
消毒をして、ガーゼで綺麗にふき取る。沁みたのか、白く小さい手がぴくりと震えた。
千里は何時にも増して饒舌だった。二人きりという空間に、無意識に舞い上がっているようだ。
「あの女なんて言い方したらだめだよ。せめて桃山先輩とかさ」
「呼びたくはないけど、先輩がそう言うなら呼んでやる」
「ん、いい子だね」
悠一の望みは彼女の望みでもある。
この世で一番嫌いといってもいい相手でも、悠一が望めば従うのが千里だ。
全身で不満を表してはいたものの、頭を撫でられればその不満も消えていく。「しかたねーな」と悪態をついてはいたが、その顔は赤く綻んでいた。
「そういや、さ。先輩、あの女に、その、なんかされた?」
「なんかって何さ」
「そりゃ、無理矢理手ぇだされたとか。いやだってあの女、さっきも先輩のことそういう目で見てたんだって!」
一瞬、彼の体が跳ねる。
照れ笑いでも、困ったように笑って否定するでもなく、ドキリとして言葉に詰まる。
それを見逃す千里ではなかった。いつも彼を目で追い、一番の理解者を自称する彼女が、この意味を理解出来ない訳がない。
血の気が引いていくような感覚。
瞳孔が開き、手当てをしていた手が止まる。
「は?」
「あ、いや、そんなことされてないって。僕たちは家族だし、灯だってふざけてただけだし———」
「ふざけてただけ?」
慌てて否定するも、続けざまに放たれた不用意な一言が千里の脳裏に悪夢を呼び起こす。彼女の最も恐れていたことが、とっくに現実となっていた。
撫でる手を掴み、体ごと迫る。猛禽類のような視線が悠一を圧倒する。
冷え切ったはずの血が沸騰していく。その割には、千里は冷静にこれからの行動を組み立てていた。
ドアの鍵は閉まっているし、保険医は友人が足止めしている。後ずさる悠一は、すぐ後ろにベッドが迫っていることに気付いていない。
自然と握る手に力を込める。逃がさないように、抵抗させないように。これではあの女と同じだな、と自分に毒づく。
空いた手で胸倉を掴む。制服に歪な皺が走った。
そのまま持ち上げるようにして少年を立たせた。戸惑う彼に考えさせる間を与えるてはならない。
押し込まれるようにして、少年は白いシーツの上へと捻じ伏せられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます