悠一Ⅳ

 悠一たちの通う高校は、地域を代表する規模の校舎と生徒数を持つ学校である。


 いくつかの高校が合併し、そこに生徒が集まってくるのは必然であった。そのためバスや電車で片道何十分も掛けて通う生徒も多く、朝から疲れた表情を浮かべる者も少なくなかった。


 それでも朝は登校する生徒達で賑わっていた。各学年の昇降口が近くに集められているため、どうしても人で溢れてしまう。

 人ごみが苦手な悠一は、この騒がしい時間帯を避けるために毎朝早起きをする。もちろん灯も悠一と共に家を出る事がほとんどで、今こうして彼らが人ごみに揉まれているのは滅多にないことだった。

 

「灯、待って待って引きずらないで!」


 濃紺のブレザーの群れに埋まった悠一が大声を上げる。

 同学年の男子生徒より一際高い声は喧騒の中でも通りやすく、女生徒に引きずられた少年が注目を集めた。


「早くしないと遅刻しちゃうじゃない。もう結構ぎりぎりなんだから」

「いやもう後階段登るだけだし……」

「寝坊したくせに文句言わないの!」


 微笑ましげな視線の中、弱々しい声で灯へと抗議する。そんなやり取りを見て、周囲の女生徒が黄色い声を上げた。

 どちらかといえば「猫が可愛い仕草をした」ようなものなのだが、灯はその声が耳障りだったかのように眉をヒクつかせた。


 悠一は学内でもっとも可愛いマスコットとして名高く、モテるというよりは可愛がられることが多い。

 同様に灯も男子生徒から人気が高く、姉の真夜と並んで美人姉妹と称されていた。同年代とは一歩抜きん出たスタイルは男子生徒の視線を集め、緩やかにウェーブしたセミロングの髪は羨望の眼差しを受ける。


「悠一、早く行こう」


 灯がワンオクターブ低い声で急かす。

 視姦に近い無遠慮な視線よりも、気安いボディタッチを許す悠一を見ることのほうが不快だった。

 彼はすれ違い様に挨拶を受けては、頭を撫でられたり頬を突かれたりなど、やられたい放題だ。中には腰や耳を撫でられたりなど、セクハラまがいの行為をする女生徒もいる。外面を保つのも一苦労だった。


 靴を履き替えた瞬間に、灯は悠一の手を引く。近くにいた男子生徒が舌打ちをした気がした。

 

「いたっ、灯、痛いってば」

「いいから、早く行こう」


 握る手に力が篭っていた。激痛とまではいかないが、それなりに痛みを感じる程の強さで、彼女らしくない行動と態度だった。

 表情からは窺い知れないが、今朝から灯の機嫌はとても悪かった。当然理由は悠一にあり、当の本人がそのことに全く気が付いていないことにも不満を覚えていた。

 

 昨夜、彼は部屋に入ったかと思えば誰かとひたすら話していたのだ。

 深夜一時を越えた辺りで眠ってしまったようだが、それまで誰かと電話でもしていたのだろう。

 そのせいか、彼は珍しく寝坊をした。少年の作った朝食を食べ損ね、手作り弁当もなし。さらには目の前で顔も知らない女に体を触らせている。これ以上耐えられる訳がなかった。


「灯、ちょっと……本当に痛いってば」


 少年の手をさらに強く握ってしまう。気付けば奥歯を噛み締め、ぎちぎちと鳴らしていた。

 こんな顔は見せられない。窓にうっすらと映る表情は鬼のようで、今から人を殺しに行くような目をしている。顔を伏せて、このまま行くしかない。

 いつもならこんな事にはならないのに。ここ数日で自分の感情がコントロールできなくなっている。それが余計に彼女を苛立たせた。

 弱々しく抗議する少年の声を無視して、そのまま無理矢理階段を登ろうとしたとき。


「おい、ちょっと待て」


 背後から女生徒の声。同時に、灯の腕が強く握られた。爪が食い込んで、鋭い痛みが走る。

 思わぬ邪魔に頭に血が上った。その勢いのまま振り返ると、見覚えのある顔にまた歯が鳴る。

 明らかに校則違反と分かる金髪のショートヘアに褐色の肌。短いスカートにピンク色のカーディガンを腰に巻く女生徒は、灯に負けるとも劣らない美少である。


「……何?」


 君島 千里が、灯の腕を思い切り掴んでいた。

 殺意の篭った視線が灯を貫く。傍らでおろおろとする少年に一瞥し、千里は怒気の篭った声で言い放った。


「先輩が痛がってるだろ。何してんだお前」

「アンタには関係ない。私と悠一の問題なんだから、他人が首突っ込まないでくれる?」


 二人とも掴んだ手は話さない。

 睨み合いの中、何事かと周囲に生徒が集まり始めた。大半が「涙目の悠一君可愛い」や、「浮気がバレたのか」といった緊張感のない話をしていた。

 ちなみに、校内では灯と悠一は付き合っているということになっている。保護者だろうという声もあるが、灯は交際を否定したことがなかったので、事実として広まっていた。

 同じように、この褐色の少女が悠一を奪おうとしていることも有名な話だ。

 清楚で明るい人気者と垢抜けた後輩ギャルの戦争という構図は、今のところ膠着状態ということになっているものの、昼ドラのような展開に面白がる生徒は多かった。

 悠一からすれば、声高には言えないが迷惑の一言であるが。


「身内だったらなにやってもいいのかよ。痛えって言ってんだから離せって言ってるだけだろうが」

「悠一のことは私が一番良く分かってるの。本当に痛いんじゃなくて、恥ずかしいだけなんだってこともわからないの?」

「そんなわけねーだろ。先輩泣きそうになってんじゃねぇか」


 本当に痛いし泣きそうなのは半分あなたのせいです、とは言えなかった。

 いい加減視線を集める羞恥心に耐え切れず、勇気を出して仲裁しようと割って入った。 


「と、とりあえず灯も千里ちゃんも落ち着いて、ね?」

「「うるさい!!」」


 興奮した女生徒二人に一蹴され、余計泣きそうになる。せめて手を離してもらいたかったが、どうやらそういう訳にはいかないようだ。

 掴む手の力は、すでに握り締めるに近い状態となっていた。ぎりぎりと軋む音まで聞こえてきそうだ。食い込む爪が痛い。というか、突き刺さっていた。


「君島、アンタみたいなガラの悪い女がうちの悠一になんの用なわけ?」

「あたしの先輩が腹黒女に苛められてたら助けるに決まってんだろ」

「“あたしの”!?誰に断ってそんなふざけたこと言ってんの!?」

「なんでお前の許可が必要なんだよ!お前のじゃねぇだろ!」

「アンタのでもないわよ!」

「ねえもうほんとにやめて……」


 ヒートアップし続ける二人に挟まれ、悠一が顔を真っ赤にして俯く。

 せっかく隠していた本性が半分曝け出されているが、構わず灯は後輩を攻め立てた。

 相対する女生徒も一歩も引かない。

 彼女は一学年下の後輩で、君島 千里といえば昔は知らない者はいない程の問題児だった女生徒だ。悠一と出会ってからは大人しくなったようだが、それでも口の悪さや態度は直っていない。


 結局、恥ずかしさに耐え切れなくなった悠一がへたり込むまで口論は続いた。

 駆けつけた教師に一喝され、灯と千里は教室へ向かう。悠一は手の治療のために保健室へと連れて行かれた。


 未練たっぷりの灯の視線を感じながら、悠一は早退を本気で考えた。 


               







「もうちょっと言いたいことは言わなきゃだめよ?」

「言ったよ。見てたんでしょ」

「ふふ、うるさいって言われちゃったわね」


 あいにく保険医は不在で、自力で治療する羽目になってしまった。

 一見すると独り言のように見えるが、彼には宙を舞う金髪美女の姿が見えている。

 夜通し語り合った今では、リリィは気兼ねなく話せる友人のような関係となっていた。

 蛍光灯を指で突くリリィは、含みのある声音で言った。


「これで、少しはわかったんじゃないかしら」

「わかったって、なにが?」

「私が後押ししてあげた子のことよ」


 あぁ、と悠一は理解した。

 リリィが言っていた五人のうち、千里と灯がそれに該当するらしい。

 確かに灯には変化が見られた。リリィと出会ってから、理性が弱くなっているように思えるのだ。押し倒して舌を這わせるような真似は今までなかったし、悠一に怪我をさせるようなことは有り得なかった。般若のような形相で声を荒げた時は目を疑ってしまった。


「あれがリリィの言ってた後押し?なんか怖くなってる気がしたんだけど……」

「そうよ。ちょっとしたお呪いで理性のタガを外して、欲望に忠実になるようにしてあげただけ」

「性格を変えるとか、そういうやつなの?」

「少し違うわね。言ったでしょう?理性のタガを外したって。あれは元々彼女の中にあった本性。理性に閉じ込められてた彼女の本当の姿」

 

 つまりは家での蕩けた灯も、先程の灯も今まで押えつけられていた本性だということだ。

 にわかには信じられなかった。この二年、彼女の優しさは身を以って知っている。人当たりが良く、明るい優等生で、長い時間をかけて自分を救ってくれた優しい女の子。それが灯だと思っていた。それを証明するように、彼女の周りは人で溢れている。


「健気に隠していたんでしょうね。覚悟したほうがいいわ。この程度、氷山の一角程度でしょうから」


 黙りこむ悠一。

 彼の知る灯を信じたかったが、正直舐め回された時点でイメージは崩れていた。明らかに今までとは違うのだ。

 考え込んでいると、ドアがノックされる。保険医かと思ってドアを開けると、気まずそうな表情を浮かべた女生徒が立っていた。派手な金髪で、前髪を弄りながら何かを言おうとする。


「千里ちゃん」


 名前を呼ばれ、びくっと身を震わせる。

 目線を合わせない後輩はあー、うー、と言葉にならない声を漏らした。

 やがて諦めたように、そっぽを向いて話し出す。先程までと違って、声は小さい。


「えっと、先輩、さっきは悪かったな。痛そうにしてるの見たら、なんかこう……いてもたってもいられなくなってさ」


 なんとか搾り出した千里は、そのまま俯いてしまう。その頭を少年は優しく撫でた。

 悠一と千里の身長はほとんど変わらない。手を伸ばして撫でる姿を見て、千里はおかしくなって笑った。


「千里ちゃんが助けようとしてくれたことは分かってたから」

「でもあたし、うるさいとか言っちゃったし……」

「灯も同じこと言ってたし、気にしてないから大丈夫だよ」

「とにかく、悪かったなって。それと、先輩ケガしてただろ。アタシこう見ても手当ては上手いからさ、アタシにやらせてくれよ、な?」


 撫でられるまま、ハスキーな声に甘ったるさが加わる。口論のときとは打って変わって、声音も若干和らいでいった。


 千里が悠一以外には絶対に見せない素顔がこれだった。

 本当は可愛いもの好きで、悠一には一目惚れをした。不良だからという偏見もなく、千里に対して優しく接する少年に彼女は夢中だった。

 その想いは止まる事がなく、二人きりのときは甘えるようになってしまった。その度に笑いながら甘やかしてくれる悠一が愛おしくて仕方ないのだ。


 後ろ手で、ドアを閉めた。安っぽいカギが小さな音を立てる。

 教室を抜けるときに友人が後は任せろと言っていた。千里が悠一に惚れていることを知り、応援するといってきたお節介な友人だ。

 余計なお世話だとは思いながらも、貰ったチャンスはモノにしたい。


 金髪の後輩は、長い舌で唇を舐めた。

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