灯Ⅰ

 桃山 灯の寝覚めは最悪だった。

 悪夢に魘されていたのか、汗だくの上に涙まで流していた。


 すがるように伸ばされた手が冷えた空気を掴む。一瞬ぽかんとして、恥ずかしそうにため息を吐いた。


 嫌な夢を見た。

 内容はほとんど記憶に残っていないが、とにかく嫌悪感だけが胸に残るような夢だった。覚えているのは、悠一と映画に出てくるような金髪の女だけ。

 普段なら夢に悠一が出てくるだけでその日は上機嫌でいられたものだったが、この夢は最悪だ。汗を吸ったTシャツとホットパンツの不快感も相まって、寝起きは最低の気分だった。


 せっかくの日曜日だというのに、これでは二度寝する気にもなれない。苛立たしげにシャツを脱ぎ、床へ放り投げた。悠一が見れば、きっと洗濯機へ持って行ってくれるはずだ。

 自分の汗が染み込んだシャツを手に取る少年を想像して、背筋がぞくりとした。

 

 悠一のことになると、灯は少し理性のタガが外れやすくなる。彼女自身それは理解しているし、それが悪いことだとは思っていなかった。

 彼女にとって同居人の少年は何よりも優先すべきもので、自分だけの宝物だ。

 彼に近づく女は排除してきたし、彼を害する人間には制裁を加えてきた。塞ぎこんでいた彼を救ったのは自分だという自負がある。ならば当然、彼は私のモノになるべきなのだ。


 妙にすっきりとした頭には、愛しい少年のことばかりが浮かんでいた。

 少女のように可愛らしく、誰にでも分け隔てなくその優しさを分け与える。小動物のような姿は庇護欲をそそり、逆に苛めて泣かせたくなるような嗜虐新も煽ってくる。


(あぁ……そういえば)


 金曜日の夜。楓の家からの帰り道、彼は路上で気を失っていたらしい。

 あの日は本当に大変だった。姉は怒り狂って自分の部屋を半壊させ、母は電話口で「冒険したい年頃なのかしらねぇ」と暢気なことを言っていた。

 悠一の体に怪我も異常もなかったから良かったものの、彼に何かあったら自分を抑えられる気がしない。親友と呼べる楓ですら、彼に危害を加えるならこの手でばらばらにしてしまっていたかもしれなかった。


「はははははは……あーぁあ」


 結局楓は彼に手を出した訳でもなく、悠一を送ろうとしてくれたようだった。断られたことも、まあ彼の性格を考えたら納得できた。


(断られても強引に送ればいいのに。気の利かない女ね)


 心の中で毒づく。彼の前はもちろんだが、他人には絶対に見せられない一面である。

 ストレスを溜め、我慢と努力を積み重ねて出来上がったイメージを壊したくはない。

 今後の自分と悠一の生活のためにも、今のうちから自分の味方を固めておくべきなのだ。

 使える駒を増やして、自分のイメージをより良いものにする。その上で、彼を自分のものにするように仕向けていく。美少女で優等生で、人当たりも良い。そんな女の子であれば、悠一も文句はないだろう。


(まぁ、どっちにしろ逃がさないんだけどね)


 仮に他の女に目移りするようなら、その女に“優しく”お願いをして、彼から離れてもらえばいい。それでも食い下がるのなら、体で分かってもらえばいい。

 部屋の気温は決して高くない。薄着であれば寒さを覚えるくらいだが、彼女の体は火照っていた。悠一のことを考えるといつもこうだった。


 スマートフォンを取り出して、パスワード付きの画像フォルダを呼び出す。容量の半数を占めているそのフォルダに入っているのは、悠一の際どい画像や動画ばかりだった。

 浴室やトイレを盗撮した画像や、寝顔を延々と撮り続けた動画、親友の頼みを断りきれなくて、仕方なく袖を通した女装写真など。

 半分は自分で撮ったもので、もう半分は楓が盗撮したものだ。

 最初に盗撮のことを知ったときは、本気で楓を始末しようと考えた。

 その首を綺麗に跳ね飛ばせるように、しっかりと刃を研いだナイフ(家の物置に転がっていた)も準備した。生まれてきたことを後悔させるために、あらゆる拷問の方法も学んだ。

 そもそも楓は一樹の恋人のくせに、悠一にまで手を出すとは何様のつもりだろうか。

 名家のお嬢様だか知らないが、思い知らせてやろうと思ったものだ。


 そんな心中とは裏腹に、灯の頭は彼女を利用価値を考えていた。

 灯の目に映る悠一の画像は、当時の彼女では到底手に入らないものばかりだった。聞けば、可愛いから撮っているだけで、彼をどうこうするつもりはないらしい。むしろ、灯と結ばれることを望んでいるというのだ。


 そんな言葉を鵜呑みにした訳ではないが、少年の半裸写真に心を揺さぶられてしまった。

 利用価値がなくなって、楓の言葉に嘘があれば終わりにすればいい。それまではせいぜい利用してやる。

 言い訳じみた考えを持って、灯は楓の“趣味”を許容したのだった。


 ベッドに転がって一時間。

 悠一の画像を堪能した灯は、朝から盛る自分への羞恥心と我慢の限界を感じていた。

 時刻は午前十時を過ぎた頃で、そろそろ悠一が部屋で勉強を始める時間だ。

 せっかく隣の部屋に本物がいるのだ。今はデータではなくて、生身の少年を愛でればいい。

 ついでに昨日一言もなく出かけた理由も問いただそう決め、彼女はラフな格好のまま部屋を出た。


 少年の困ったような声と少女の弾んだ声が、のんびりした空気の流れる部屋に響いた。

              










「悠一」


 日曜日。昼食を終え、リビングでだらだらと過ごしている中で、灯は思い出したように声をかけた。

 真夜は二度寝のために部屋へ引き上げていて、詩乃は先々月から単身赴任中。この時間に二人きりになることは珍しいことではない。


「昨日、病院の後、本当はどこにいってたの?」


 またその話かぁ、と悠一は困ったように笑った。散々部屋で尋問したのに、彼女は彼の答えに納得がいっていないようだ。

 再放送のバラエティ番組が流れる中、悠一は変わらない笑顔のまま答える。


「本当に一人で町をぶらぶらしただけだって」

「一人で?姉さんを先に帰して、昼も食べずにウロついてたの?」

「食欲もなかったし、最近暖かくなってきたからね。散歩するには丁度良かったんだよ」


 灯は直感的に嘘だと見抜いていた。

 彼は嘘をつくとき、必ず作ったような笑顔を浮かべる。さらにはちらちらと虚空に視線を何度も向けていた。最愛の人の行動に些細な違和感を感じることなど、彼女にとっては簡単なことだった。

 そもそも、彼は出かけるときは必ず行き先を告げる。散歩だろうがごみ捨てだろうが、黙って行くことは今まで一度もなかった。

 灯は当然、追求の手を緩めない。自分に隠し事など、断じてあってはならないことなのだ。


「嘘つかないで。ならなんで私に何も言わなかったの?」

「だって灯、昼過ぎても寝てたみたいだったし……」

「ふぅん、まだそんな態度とるんだ」

「だから本当だってば……」


 少年の顔が困ったように歪む。

 声変わりしてないのではと思わせる高い声が、灯の心をくすぐった。嘘を追及しなければならないのだが、このまま許してしまってもいいかな、と思い始めてしまう。


「そんな声出したってだめ。ちゃんと言うまで、今日は許さないから」


 が、心を鬼にして、灯は悠一に詰め寄る。香水を使っていないはずだが、彼から甘い花のような香りがした。

 ソファへ押し倒すように、少年へ圧し掛かかった。顔を赤くして戸惑う少年が愛おしく感じる。姉が起きてくるまで、まだまだたっぷり時間はあった。


 そのまま首筋に鼻先を埋めて、深呼吸をする。脳髄が痺れるような感覚に、思わず声が出てしまった。今日はもう“追求するフリ”をして、この可愛い男の子を心行くまで楽しんでしまえばいい。

 

「恥ずかしい?やめて欲しかったら、正直に言いなさい。それまでは私の好きにするからね」

「だからぁ……」


 羞恥心から、逃げようとする悠一を押さえ込む灯。身を捩るたびに押し付けられる双丘の感触に、余計恥ずかしさが込み上げていく。


 結局、彼は言うことを変えないまま、姉が起きてくるまで灯の悪戯は続いたのだった。

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