悠一Ⅲ

「あなたが悪魔だってことは、よくわかりました」


 土曜日の午後、悠一は諦めた表情で白旗を振った。

 診察を終えてから散々町を歩き回り、纏わりつく女性が悪魔ではないことを証明しようとしたものの、結局徒労に終わってしまった。


 なにせ誰にも姿が見えない上に、鏡にも写真にも映らないのだ。おまけに一歩も自分で歩くことはなく、空を気ままに飛び回っていた。

 宙に浮いている時点でほとんと諦めてはいたが、悠一はなんとなく意地になっていた。漫画や映画ではないのだから、悪魔ですと言われただけで信じる気になれなかったのだ。


「それで、悪魔さんはなんで僕に取りついたんですか?」

「その悪魔さんっていうの、やめてくれないかしら」


 ヤケクソ気味な少年の態度が気に入らないのか、金髪の女性は不機嫌そうに返す。


「一応私にだってリリィって名前があるの。そりゃ本当の名前じゃないけれど、気に入ってるのだから」


 切れ長の瞳で見下ろされると、有無を言わさぬ迫力があった。美人が怒ると怖いことは身を以って知っていたが、目の前の女性には別格の恐さがある。


 リリィさんですね、と素直に従う悠一に、見下ろしたまま彼女は言葉を続けた。


「だいたい昨日も言ったじゃない。キミは呪われたって。だから私がキミを殺しにきたの。まだ信じられない?」

「呪われる覚えがないんですけど」

「人間は知らないうちに恨みを買うものよ?」


 無邪気な笑顔の割りには、言っていることが随分恐ろしい。そのギャップのせいで今ひとつ危機感を覚えることができなかった。

 

「呪いって、僕は死んじゃうんですか?」


 一番重要なことだ。命に関わるような呪いなのかどうか。答えを聞くには勇気がいるようなことだが、危機感の欠けた今だからこそ訊くチャンスだと思えた。


 リリィはくるりと一回転して、いたずら好きの猫のような表情を浮かべた。薄い唇から紡ぎ出された言葉は、悠一の期待を裏切る内容だった。


「死ぬわ。けど、今じゃない」

「今じゃない?じゃあ、何年後とかそういうことですか?」

「言い方が悪かったわね。今ではないけれど、明日かもしれない。でももしかしたら、キミは呪いを解いて生きていられるかもしれない。それもキミ次第かしら」


 相変わらず無邪気な笑みのまま、含みのある言葉を投げかける。

 明日かもしれないという言葉と、呪いを解くという言葉に一喜一憂する。ころころと表情を変える様が、彼女にとっては面白くて仕方がなかった。

 複雑そうな表情を浮かべる少年に追い討ちをかけるかの如く、悪魔は捲し立てた。


「呪いは一方的ではないわ。掛けた人間にもリスクはある。けど、キミに掛かっている呪いは確かに命を奪うものよ」


 赤い瞳がぎらりと光る。

 少年が涙目で見上げる姿はまるで小動物のようで、悪魔の嗜虐心を大いに刺激するものだった。

 死刑を宣告されたも同然の本人は、今更ながら恐怖感に襲われていた。本物の悪魔から明日死ぬかもしれないと言われれば、当然の反応である。


「その、呪いってどうすれば解けるんですか?僕、まだ死にたくないです……」


 涙を堪えた言葉が悪魔へと投げかけられる。訊いて答えてくれるわけはないと思いながらも、もしかしたらという期待を込めた。

「もちろん呪いは解いてあげるわ。こう見えても、私はキミの事気に入ってるのよ」

「えっ?」


 嗜虐的な笑みは変わらない。気に入っているという言葉は、ペットを愛でるそれと変わらないことはすぐに理解できた。


「そうねぇ……でもタダで解いてあげるのも面白くないわねぇ……」


 わざとらしく考える様子を見せる。細い指が顎を撫で、何か思いついたように笑った。

 その笑みがあまりにも邪悪だったことに、悠一は嫌な予感を覚えた。そしてその予感は、見事に的中してしまう。


「ふふっ。私、実は未来が見えるのだけれど」


 口角が吊り上ったまま、堪え切れないように笑い出す。犬歯が尖っているようで、黒いドレスと相まってヴァンパイアのようだ。

 

「キミの事を愛している女性は……ふぅん、五人もいるのね。じゃあこうしましょうか。私はその五人を後押しする。ちょっとだけ自分に素直になれる呪いを掛けて、キミをモノにするように。この五人のうち、キミの妻となって生涯添い遂げる女性が一人だけいるのだけれど」


 突飛な話に、置いてけぼりを食らった悠一。未来の妻とは、一体なんの話だ。

 理解し切れないままではあったが、なんとか聞き漏らさないようにと懸命に耳を傾けた。

 この話が呪いを解くカギとなるのだから、聞き流すわけにはいかない。


「キミがその運命の女性と結ばれればキミの勝ち。呪いを解いてあげる。でも、間違ってそれ以外の女性と結ばれたら……その時点で、キミの負け。その場で殺すわ」


 嬉しそうに、まるで悠一が負けることを望んでいるように、リリィは笑いかける。

 少年の首を掴み、長い爪が柔肌を破ろうとする。刺すような痛みと共に、赤い血珠が滲み出た。

 少年の血を見て、リリィの顔に赤みが差す。こういうところは悪魔らしか思えた。


 首を掴まれたまま、少年は潤んだ瞳で悪魔を見上げた。


「ええと、つまり運命の人、っていうか、未来の奥さんと結婚すれば呪いを解いてくれるんですね?」

「結婚だけが結ばれるというわけでもないのだけれど……ふふふっ、これ以上は教えてあげない。キミが足掻く様が見たいのに勿体無いわ」


 血は止まらない。痛いはずなのに、悠一は抵抗しなかった。しなかったというよりは、出来なかったという方が正しい。金縛りにあったように、四肢が一切動かなかった。

 ネズミをいたぶる猫のように、リリィが腕に力を込める。


「キミが死んだら、キミの魂は私が貰うわ。そうしたら永遠に私のもの。いいわね?」

「いいですよ、わかりました。……悪魔に魂を売り渡すってこういうことを言うんですね」


 皮肉で返す悠一。自分の命をゲームの掛け金のように扱われた上に、体の自由を奪われて首まで絞められているのだ。少しくらい反撃してもバチは当たらないだろう。

 しかしそのささやかな反撃も、リリィを楽しませるスパイスにしかならなかったようだ。


「ふふ、その通りね。言っておくけど、簡単に解けると思わないこと。キミは気づいていないと思うのだけれど、彼女達はキミのをことを本当に愛しているわ。悪魔の私ですらちょっと引くくらい……ふふ、よく今まで無事だったわね」

「引くくらいって……そもそもその五人って一体誰なんです?」

「それも教えてあげない。でも、すぐに分かるとは思うわよ?今までよりよっぽど露骨にアプローチされるのだから」


 笑い声がさらに大きくなる。

 悠一を待ち受ける女難を想像してか、リリィは嬉々としていた。足をバタつかせ、口元は先程からにやけっぱなしである。漏れ出た笑みが笑い声になり、心底楽しそうに腹と口元を押さえて笑った。

 ひとしきり笑った後、依然見上げたままで固まる悠一に告げた。


「愛に殺されるのが先か、それとも私に殺されるのが先か、どちらでしょうね?」

「どちらでもないです。運命の人を見つけて、呪いを解きます」

「ふふ、いい子ね。頑張って楽しませてちょうだい」


 リリィの美貌が悠一の首元へと寄せられる。花の香りが舞い、悠一は顔を顰めた。この匂いがするときはロクなことがない。

 契約成立、という言葉と当時に、悪魔の舌が首を舐めた。鮮血を舌先がなぞり、ナメクジのような感触がさらに悠一の表情を曇らせる。

 悪魔の眼が強く輝くと、悠一の金縛りが解けた。首元を袖で拭い、悪魔へ無言の非難を示す。それも彼女を喜ばすだけだとは、まだ少年には分からなかった。


「……帰ります」

「そうね、帰りましょうか」

「ついてくるんですか?」

「キミが死ぬまではずっと一緒よ?あぁ、死んでからも一緒だったわね」


 くすくす笑うリリィに、悪態は無駄だと諦める悠一。

 恐らく自分が何をしようが、彼女はそれを楽しむんだろう。争いごとが嫌いな少年が選んだ選択は、波風を立てないという諦めだった。


「はぁ……もういいです。そういえば、リリィさんってご飯とかどうするんですか?」


 少年の素直な言葉に、悪魔は同じく素直に答える。こうしていると、彼女が自分を呪い殺そうとする悪魔とは思えなかった。

 

「あ、食事は外で済ませるから要らないわよ。人間の料理ってどうしてあんなにも素晴らしいのかしら」

「……」

「……なによ」

「いや、悪魔って普通にご飯食べるんだなぁと。誰にも見えないのに」

「ふふふっ」

「お金とか、色々無理があるような気がするんですけど」

「そこはほら、姿は見えるようにして、お金はキミが持っているじゃない?」

「……あ!」


 あったはずの万札が消えていることに気づき、やっぱり悪魔だと再認識するのに時間はかからなかった。

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