悠一Ⅱ

 桃山 真夜は、愛しい弟が眠る横で怒りを必死に堪えていた。


 いつまで経っても帰宅しない悠一を心配した灯が、まだ仕事をしていた真夜に連絡をとったのが午後九時を回った頃。車で探し回り、路上で倒れている悠一を見つけたときは我を忘れて取り乱してしまった。

 幸い怪我をしているわけでもなく、今では自室のベッドで穏やかな寝息を立てている。医者の話ではどこも問題はないそうで、改めて明日診察に連れて行く事となった。


 彼が倒れていたことは真夜にとって大問題だが、それ以上に彼女を怒らせる理由があった。

 灯の話では、悠一は放課後に楓の家に行ってらしい。一人で、しかも今回が初めてという訳でもなく。

 それだけでも怒りが収まらない程だったが、家に帰ってこないという妹からの連絡の上、挙句に寒空の下で倒れていたのだ。彼の目が覚めて理由を聞かないことには、眠れそうもなかった。


 きっと神代が何かしたのだろうと、真夜は決め付けていた。

 明日が土曜日で幸いだと心から思った。このまま理由も聞けずに神代の小娘に会ってしまったら、あの澄ました顔をぐちゃぐちゃにしてしまったかもしれない。


 無意識にふふふ、と笑ってしまう。

 それはそれでいいかもしれない、と思うのだ。大切な家族を傷付けるなら、相手が誰だろうが許せるものか。

 

「ん…」


 ひとつ呻いて、悠一が寝返りをうつ。そのまま目を開き、しぱしぱと瞬きを繰り返す。愛する少年の寝起き顔に、心が綻んでいった。


「悠くん」


 声をかけると、寝ぼけ眼が真夜を捕らえた。


「あれ、ここ……」

「悠くんのお部屋だよ。外で倒れてたの、覚えてない?」


 ゆっくり体を起こす。ベッドに腰掛けていた真夜が背中に手を添えた。


「今日は神代の家に行ってたんでしょう?あの女に何かされたの?」

「いや、神代さんはなにも……色々着替えさせられて、写真とか撮られたくらい。あれ、でもその後……」


 靄がかかったような頭の中で、悠一は必死に記憶を取り戻そうとする。なにか恐ろしいことがあったような気がしてならなかったが、思い出せない。

 真夜がベッドサイドのライトを点けた。着替えや写真という言葉に手が震えていたが、悠一の前で怒りを表すような真似はしなかった。


「思い出せないんだけど、何かあった気がする。景色眺めてて、風が吹いて、それで……」


 ずきりと頭が痛む。思わず顔を顰めた。


「大丈夫?今日は無理しないで、明日お姉ちゃんと病院行こう?」


 内心では今すぐにでも何があったかを知りたかったが、彼に無理を強いるつもりはなかった。自制心を総動員して、優しい姉として振る舞う。

 悠一はその言葉に逆らわず、再びベッドに寝転がった。


「明日はお昼くらいに病院行こうか。喉渇いてない?汗はそんなに掻いてないけど、一回シャワー浴びておく?」

「……姉さんは僕を小学生かなんかだと思ってるでしょ」

「そんなことないよ?お姉ちゃんは悠くんが大事なだけ。今日みたいなことがあったら、お姉ちゃんだって平気じゃいられないよ」


 そっと悠一の頭を撫でる。さらさらした髪を払い、額に手を当てた。

 熱がないことを確認すると、そのまま頬を撫で付ける。手のひらに感じる柔らかい肌の感触が愛おしい。

 悠一は嫌がる素振りを見せず、姉のしたいようにさせていた。真夜が心中穏やかではないことは分かっていたので、下手に刺激したくはなかった。

 

「ごめんね」

「ん、もういいから」


 真夜がライトを消す。もう寝ろということだろう。


「おやすみ、真夜姉さん」

「はい、おやすみ悠くん。また明日ね」


 瞬間、シャンプーの香りが強くなる。

 頬に添えられていた手が首へ回り、唇に柔らかいものを押し付けられた。真夜の唇だと分かり、とっさに唇を閉じる。

 案の定、ぬめった舌が悠一の唇をくすぐり、水音を立てた。

 あは、と嬉しそうな声と共に、暖かい吐息を感じた。真夜はくすくす笑って、もう一度軽いキスをした。


「ふふ、おやすみ」


 眉を顰めて、悠一は真夜を見上げた。

 先程までの姉としての顔ではなかった。蕩けたような、彼の嫌いな真夜の表情だった。悠一は答えることなく、掛け布団を口元まで引き上げた。

  

 遠ざかる足音を確認して、彼はもう一度口元を拭った。


 

            






 先程までの不機嫌さはどこへ行ったのか、真夜の足取りは軽かった。

 気恥ずかしさからか、最近は悠一がキスを避けていたため、週一、二回程しか味わえていなかったのだ。溜まっていた黒い感情も晴れていくのが分かる。


 とはいえ、生殺しのような状況は変わらないのだ。

 軽いキスばかりで、彼女としてはもっと深く踏み込んでいきたかった。二十四歳の成人女性なのだから、いい加減持て余してしまう。

 

(そろそろ強引にいってもいいかなぁ。ふふ、無理矢理っていうのも、いいかも)


 悠一も男の子だ。本気で嫌がっているわけではないだろうし、この体で押し切れば絶対にいける自信もあった。灯や神代に遅れをとる前に、既成事実を作ってしまえばいいのだ。今回の件で色々と危機感を覚えていたためか、自制が利かなくなってきているようだった。

 

 バスルームへ直行し、ぬるま湯のシャワーを浴びた。浴びて火照った体を冷まそうとするが、一向に収まる気配がない。

 少し思案して、真夜はバスルームに鍵を掛けた。シャワーハンドルを回すと、浴室内に大きく水音が響いた。寝ている灯や悠一に聞こえないように、タオルを口に噛む。


 彼女がバスルームから出てきたのは、それから二時間後だった。









 すぐに寝れるわけもなく、悠一はベッドの中で何度も寝返りをうっていた。


 枕に顔を埋めながら、今日の出来事を思い出していく。が、肝心な部分が抜け落ちてしまっていた。

 湖を眺めていた辺りから記憶がなかった。突風が吹いて、振り返ったところまでは覚えているものの、そこから先がない。

 喉まで出掛かっている感覚が気持ち悪く、その不快感が眠気を一層遠ざけていく。


 体を起こして、ランプを点けた。

 階下からシャワーを浴びる音が聞こえる。相変わらずシャワーを出しっ放しにする人だ。昨日も灯に注意されていたのに。

 真夜の触れた頬を触る。

 今日はよく頬を撫でられる日だなと思い、楓に撮られた写真を思い出してさらに落ち込んだ。一樹のように男っぽくなりたいとは思うが、十七歳でこの容姿なら絶望的だろうか。

 カーテンを開けると、少女のような自分の姿が窓に映り込んでいた。色の抜けた髪に、長い睫毛と垂れ目。簡単に折れてしまいそうな細い体躯は、自分自身ですら男とは思えなかった。


(なんで、こんなに……)


 中学生までは、母に似たこの顔が好きだった。可愛いと言われることも悪くなかったし、周りの友人と比べても少し体が小さいくらいだった。

 高校生になってからは、最早コンプレックスとなりかけている。ぎりぎりのところで耐えられているのは、両親の面影があるからだ。

 

(せめてもう少し身長が伸びればなぁ……)


 せめて百七十センチはほしい。そうすれば、女顔でも今よりは男っぽくなれるはず。

 希望半分、諦め半分の気持ちで、悠一は窓に映る自分を見つめた。


 ほんの数分、窓をぼんやりと眺めている間に、雲が月を覆い始めた。部屋を照らしていた月明かりが遮られていく。

 窓の中の自分がよりはっきりと映し出された。暖色のランプと、壁に掛けられた制服。簡素なデザインの壁掛け時計が小さな音を立てて動いていた。


 窓に映った、自分の背後。その部屋の奥。

 ベッドサイドに備え付けられたランプに違和感を感じた。このぞくりとする感覚は、前にも味わったことがある。

 違和感の正体はすぐに分かった。



―――ランプの光が、ぐにゃりと歪んで欠けていた。



 部屋を照らす光は、まるで何かに遮られているかのようだった。

 その遮る「なにか」は、ゆらゆらと揺れている。悠一の頭に幽霊の二文字が浮かび上がり、かつて見た心霊映像が脳裏を過ぎっては後悔した。何でこういうときに思い出してしまうのか。

 光は変わらず不自然に欠けたまま、影になった部分は揺らめいたままだった。


 意を決して、悠一は窓から目を離す。

 このまま突っ立っていてもしかたない。こういうときは勢いだ。大声で追い払え。

 じんわりと汗が滲む手のひらを握りこみ、一気に振り返った。

 振り返りざま、叫んだ。思ったより大きくなかったが、それでも十分部屋に響いた。


「わああああああ!」

「うるさいっ!」


 勇気を振り絞った悠一を、金髪の女性は思い切り引っ叩いた。









「夜中の二時過ぎてるのよ。君はもう少し常識のある子だと思っていたのだけれど、私の勘違いだったのかしら」


 拗ねたように睨む女性は、床に正座する悠一の頭をぺしぺしと叩く。わざとらしくため息を吐いては、涙目の少年をなじっていた。


「え、いや普段は叫んだりしないです……」

「なら何故叫んだのかしら」

「部屋に知らない人がいたら叫びますよ。幽霊だと思ったんだし……」


 誰なんだ、なんでここにいるんだ、なんで怒られなきゃいけないんだ。

 言いたいことは山ほどあったが、何故か言えずにいた。言われるがまま正座してしまうのだ。


「幽霊?私が?」

「え、違うんですか?」


 女性の強い反応に、少年が体を震わせる。

 どうやら言葉を間違えたようだ。と言うか、幽霊でなければ何なのだ。勝手に人の部屋に侵入して、泥棒か何かなのだろうか。

 頭を小突いていた手が、悠一の顎を捕らえる。白く細い指が顔を上げさせた。

 女性の顔がにやりと歪んだ。絶世の美女の笑みを目の前にして、悠一の顔が赤くなる。


「賢いのか馬鹿なのか……キミ言ってること、間違ってないわ」

「へ?」

「私、悪魔だもの」


 前言撤回。

 ただの変質者だったようだ。綺麗な人なのに、勿体無い。

 話を合わせるように答えた。


「……悪魔って、あの悪魔ですか」

「どの悪魔か知らないけど、私は君に取り付いた悪魔。呪われた君を殺すためにここに来た、呪いそのものよ」


 赤い眼の悪魔はそう笑って、少年の額に口付けた。



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