1/5のファム・ファタール

Ryoooh

序章

悠一Ⅰ

 夜も遅い、真冬の田舎道。

 夕方遅くから降り始めた雪が、しんしんと降り続いている。


 切れかかった街頭が点滅する中、少年は立ち尽くしていた。

 不規則に訪れる暗闇から、赤い瞳が少年を見据えている。少年もまたその瞳から目を離せずにいた。

 混じりけの無い金髪がふわりと舞い、白い肌が闇夜に映える。

 突然現れた黒いドレスが翻って、冷たい両手が少年の頬を包んだ。赤眼の金髪女性は、怖気を振るうような美貌の持ち主だった。その美貌とは裏腹に、くすくすと笑う様はとても無邪気だ。

 ふと、少年は彼女が人間ではないことに気付いた。氷のように冷たい掌は血が通っているようには思えず、なにより本能がそう訴えていた。


 女性がそっと少年の耳元に口を寄せる。

 花のような甘い香りが鼻を擽った。頭の奥が痺れる。


「――――――――」


 ぼそりと鈴の音のような声。その言葉を聞いて、少年は背筋を凍らせる。

 頬から手が離れると、女性はふと消えてしまった。辺りを見回してもどこにもいない。吐息に撫でられた耳が異様に熱い。


 我に返ると途端に気味が悪くなった。

 塾の帰りはいつもこの道を通るが、今まであんな女性と遭遇したことはなかった。格好も行動も、普通じゃない。

 あの街頭から十五分間、全力で走り抜いた少年は自宅のマンションへ到着した。温かみのある明りにほっとして、ふう、と息を吐く。

 

 このことを両親に話してみようか。

 きっとどうすれば良いか教えてくれるはずだ。変質者とか、前にも学校で注意喚起がされていた事もあった。対応策は両親と一緒に考えればいい。


 そう考えると、さらに気が楽になった。きっとすぐに忘れられる。遠回りになるが、しばらくあの道も使わなければいい。オートロックの抜けて、エレベーターを使わずに階段で一気に駆け上がった。


 鍵を回して、ドアを開けた。

 リビングからテレビの音が聞こえた。自室にカバンを置くより先にリビングへ向かう。とにかく誰かと話がしたい。

 ただいま、と言うと同時に、少年は目を見開いて固まった。


 部屋中に広がる血溜りの中で、真っ赤な男が倒れていた。顔が原型を留めておらず、服装と腕時計を見て、それが父親だと理解した。

 パニックになった。そのくせ、頭は妙に冷めている。叫びたいという気持ちと、状況を理解しようという考えが混ざり合って、結局その場で震えるだけ。


 父の傍で佇む女性は、少年の母親だった。手に大きな包丁を持ち、先端からどろりとした血が床へ垂れる。


 少年へ向けたその眼は、赤く光っていた。

 薄く笑いながら自分の首を切り裂く母親を見て、少年は気を失った。



――――くすくすと、どこかで聞いた笑い声がした。










 櫻井 悠一の朝は早い。

 家の誰よりも早く目を覚まし、そっと音を立てないように活動を始める。早起きが辛くないわけではないが、居候の身という立場が彼をベッドから引き剥がした。


 バイブレーションのみのアラームを止め、洗面所へ向かう。ドアの開閉音や足音にも気を遣い、冷たい水で顔を洗った。

 濡れた顔を上げると、鏡には少女が映りこんでいた。実際は十七歳の男子高校生なのだが、初対面の人間にはたいてい少女と間違われてしまう。

 コンプレックスではあったが、自己嫌悪するほどのものでもなかった。死んだ両親に似ているのだから、嫌いにはなれない。


 タオルで顔を拭うと、朝食と弁当の準備のためにキッチンへと向かう。

 中に入っている食材は頭に入っているが、一度冷蔵庫内を覗き込む。確認は毎朝の儀式のようなもので、特に意味はないけれど。

 朝は洋食と決まっているこの家では、準備が手早く済んで助かる。彼女らはトーストとサラダ、ハムエッグだけで満足なのだそうだ。

 弁当を残り物と冷凍食品で盛り付け、この日の準備は三十分程で済んだ。

 炊事が終われば、多少はのんびりできる。悠一はテレビを点け、ニュース番組をぼんやりと眺めた。


 不機嫌そうな唸り声が聞こえてきたのは、それから一時間後のことだった。











 悠一の両親の死後、葬儀に訪れた桃山 詩乃という女性が悠一を引き取ることを申し出た。


 父に兄妹がいるという話は聞いていなかったため、妹だと言い張る詩乃に少なからず不信感を抱いた。婿入りした父の旧姓が桃山ということすら知らなかった。

 とはいえ、身寄りのない悠一に選択の余地はない。心身共にショックを受けた彼は、自分がどこで誰と暮らそうがどうでもよかった。不眠症なども相まって、判断するのも面倒だった。

 こうして彼は、詩乃の家に半ば強引に引き取られていった。


 詩乃の拉致(悠一は未だにそう思っている)から二年。

 一年かけて打ち解けることはできた。そこから、女性だけの環境に慣れるまで半年。


 詩乃には二人の娘がいた。

 長女の真夜は英語教師をしていて、よく勉強を見てくれる優しい女性だった。

 次女の灯はとても明るく、非常に面倒見のいい女の子だ。感情が希薄になってしまっていた悠一にひたすら話しかけ、一年かけて悠一の心を開き、両親との死別という心の傷を癒した。

 二人のおかげで十分に睡眠や食事をとれるようになり、赤色や包丁を極端に恐れることもなくなった。

 二年間一緒に暮らすことで、彼にとって彼女たちはなくてはならない存在となっていた。


                   







「おはよう、真夜姉さん」


 黒のロングヘアーをぼさぼさに乱したまま、長女の真夜はリビングへやってきた。

 真夜は真冬だろうが、基本的に家では薄着でいる。タンクトップとショートパンツ以外でいるところは見たことがない。

 悠一は無遠慮にタンクトップを押し上げる胸元から目を逸らして、テレビへ向き直る。どうしても目が行ってしまうことに自己嫌悪した。


 真夜は欠伸交じりの挨拶を交わすと、真っ直ぐソファへと飛び込んだ。L字型の大きなソファだが、彼女はわざわざ悠一の隣へ座る。

 悠一の肩に鼻先を擦りつけたあと、彼の太ももに顔を埋めた。

 うつ伏せのまま、ぴくりとも動かない。時折むふーと呻いては、大きく深呼吸を繰り返していた。


「姉さん、涎垂れてない?なんか湿ってきてるような……」

「垂れてないから平気だよー」


 ハーフパンツが湿り気を帯びていくのが分かる。不快感を覚えつつも、引き剥がすようなことはしない。

 膝枕から脱出することを早々に諦め、悠一はあちこちに飛び跳ねた髪を優しく梳き始めた。


 長女の髪に寝癖が無くなった頃、次女が制服を着てリビングへ降りてきた。

 長女のように寝癖はなく、ゆるくウェーブしたセミロングの茶髪がよく似合う美少女だ。

 悠一に甘えきっている真夜の姿を見て、眉がぴくりとあがる。


「灯、おはよう」

「おはよう。で、その芋虫は何?」

「芋虫というか、真夜姉さんだね」


灯と呼ばれた少女は、寝転がる長女の背中を踏みつけた。

不機嫌さを隠そうともしない。身だしなみはバッチリでも、彼女は寝起きが非常に悪いのだ。

真夜はいひゃいいひゃい、と抗議するものの、されるがままだった。顔を上げる気はないらしい。


「こんなだらけきった怠け者がお姉ちゃん?最近太ったとか騒いでた割に朝からだらしないのね」

「太ってないもん!」


がばっと起き上がる。口元から涎が伸びているが、気にも留めない。


「これは太ったんじゃなくて、胸が大きくなったの。ウエストは現状維持だし。あぁでも、灯ちゃんにはあまり関係ない話かもね」

「はぁ?私のは平均サイズだから。無駄にでかいだけなんて、みっともないと思わないの?」

「そういうの、負け惜しみって言うんだよ。だって―――」


 ちら、と悠一を一瞥する。


「悠くん、おっきいほうが好きだもんね?」

「ぶっ飛ばす!あんま調子に乗るな!」


 真夜へ飛び掛る灯を尻目に、悠一はソファから逃げ出した。

 遅刻してもしらないよ、という少年の忠告は、転げまわる姉妹の耳には入らなかった。









「おっす、悠一」

「おはよう。珍しいね、一樹が一人なんて」


 うるさいな、と苦笑いを浮かべる大柄な男子生徒は、ごまかすように悠一の頭を撫でた。

 いかにもスポーツマンといった体格の良い一樹と並ぶと、悠一はかなり小さく見える。 


「楓のやつ、なんか今日は用事あって先行くってよ」

「ふぅん。早起きして一緒に登校してあげないの?」

「そう思ったんだけどな、たまには別々もいいだろ。普段は一緒に行かないと拗ねるから、こんな機会は滅多にないしな」


 楓とは一樹の恋人である。

 灯や悠一とも仲がよく、彼らのバカップルぶりはよく知っている。学校でも、登校時から放課後まで常に一緒に居るのが当たり前となっていた。同級生としては、たまに気まずくなることもあったが。 


「だいたい、お前だって今日1人だろ。灯はどうしたんだよ」

「真夜姉さんと朝から喧嘩してたから置いてきた」

「桃山先生と喧嘩?なんで?」

「……知らないよ」


 さすがに膝枕から喧嘩に発展しました、とは言いづらかった。真夜は外ではしっかり者の美人教師で通っている。家での事は絶対に言うなと厳命されているのだ。

 

 今日の授業のことや、昨日のテレビのこと、バイト先であったこと。

 取り留めのないことを話しながら、二人は学校へと向かった。

 山々が広がる景色を眺め、そこそこ大きい湖沿いの道を歩く。

 悠一はこの町を気に入っていた。確かに都会ではないが、生活や娯楽に困る程田舎という訳でもないし、電車を使えば数十分で大きな都会に出れる。一樹はそれが気に入らないようで、卒業したらこの町を出るんだと常々言っていた。

 

 話している内に学校へ着いた。大きめの校庭では野球部がだらだらと練習をしている。

 悠一たちの通う高校には、四年前に建て直した新校舎と、古くから残る木造の旧校舎がある。なにかの本にも載ったことがあるらしく、勿体無いので残してあるそうだ。とはいえ授業では使われておらず、錆び付いた立ち入り禁止の建て看板が入り口を塞いでいた。


 教室には既に一樹の恋人がいた。彼らに気付くと、文庫本をしまって挨拶を交わす。

 神代 楓は有名な旧家の一人娘である。正真正銘のお嬢様だが、彼女の態度はそれを感じさせなかった。気さくに話しかけてくることはもちろん、普通の女子高校生と変わらず可愛い物や甘いものに目がなかったりする。にこにこと笑みを絶やすこともなかった。

 とはいえ、気品や振る舞いは凄まじいものがある。日本人形のような容姿は美しく、切り揃えられた黒髪は朝日を受けて輝いているように見えた。

 

「おはよう一樹君。悠ちゃんは今日も可愛いのね」

「可愛いって言われるのは嬉しくないって何度言えば分かるんだろう」

「可愛いものは可愛いのだから仕方ないわ。そういえば、昨日悠ちゃんに似合う着物を見つけたの。帰りにうちに寄ってくれる?」

「え、いや、着ないよ?」


 悠一を撫でながら、楓はにこにこと女装を勧めた。

 子供をあやす様な手を払い、悠一は視線で一樹へ助けを求める。


「楓、やめとけ。その着物ってどうせ女物だろ。いい加減諦めろ」

「あら、ちょっと早起きすることを嫌がって恋人を一人で登校させた一樹君。なにか言ったかしら」


 一樹は言葉に詰まる。普段からにこにこと笑みを浮かべる彼女だが、今朝のことを怒っているようだった。

 口元は微笑んでいるが、目は笑っていない。切れ長の目が一樹を睨みつけた。


「いやあれは楓が別にいいって……」

「なにか言ったかしら」

「よし、悠一。二度も三度も変わらないだろ。頑張れ。大丈夫似合うさ」


 いい子ね、と満足げに笑う。力関係は楓の方が上なのも、誰もが知っていた。

 悠一のため息と、慌てた様子の灯が教室へ飛び込んできたタイミングは全くの同時だった。

 相変わらずの、大好きないつもと変わらない日々。

 また突然消えてなくなりませんようにと、悠一は笑いながら思った。


 ちなみに、悠一は放課後になると同時に楓に引きずられていった。

 校門前に停まっていた黒塗りのセダンに乗せられ、楓の屋敷へと連れ込まれる。これが初めてではないが、純和風の大きな屋敷にはどうしても慣れない。大きな庭では優雅に和鯉が泳いでいた。


 一樹は勉強、灯は生徒会の用事で一緒に来ることはできなかった。友人の恋人の部屋に二人きりというのは居心地が悪く、出来る限り早く終わらせようと思った矢先。

 嬉々として大量の着物―――そのうち半分くらいはだたのレディースの服―――を抱えている楓と、カメラを持つ使用人を見て、この時だけは消えてなくなればいいのにと思った。


 結構真剣に。


                 







 着せ替え人形から解放されたとき、外は既に夕闇が訪れていた。月が昇り、家々の明かりが町を彩る。

 楓の家まで送らせる、という申し出を断り、悠一は歩いて帰ることにした。随分遅くなってしまった上、楓と一緒に居たと真夜にバレることは避けたかった。灯はしぶしぶ許したが、真夜が知ればただでは済まないからだ。

 

 月明かりが湖を照らし、夜空には星が輝いている。今日は風が強いため、そよぐ木々が大きな音を立てていた。

 こういった景色や雰囲気が彼は好きだった。幻想的で、つい立ち止まって見惚れてしまう。

 しばらく景色を眺めていると、一際強い風が吹いた。突風のようなそれは、小柄な体を吹き飛ばそうとする。


 木々が大きく揺らめく中、コンクリートの荒れた道を誰かが歩いていることに気付いた。

 それは女性で、金髪で、黒いドレスのようなものを身に纏っている。

 全身が粟立った。ゆっくりと近づいてくるその女性から目が離せない。

 やがて悠一の前に立つと、そっと両手で頬を包んだ。

 デジャヴのような感覚に襲われ、吐き気が込み上げる。それでもその手を払うことができなかった。

 

 女性は、その美貌をさらに近づける。瑞々しい唇が、悠一の耳元へ寄せられた。

 いつかの雪の日の言葉を、その女性は囁いた。


「君が死んだら、私のもの」


 その女性の眼は赤く輝いていた。

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