神なる獣


 王女が倒れて四日が過ぎた。

 紫蘭宮のとこした王女は、昏々と眠り続けたまま目覚めない。

 宮には慌ただしく人が出入りし、何とか王女が息を吹き返すよう手を尽くしていたが、そこに蝶の国から来た侍女の姿はなかった。王女が倒れた夜、剣を飲んで自害しようとしたところを他の侍女たちに押さえられ、牢に入れられたためである。


「妃はまだ目覚めないのか」


 と、その日も紫蘭宮に現れた皇帝が、殺気立った目つきで居合わせた者たちをめつけた。今にも牙を剥いて暴れ出しそうな様子に、宮医ぐういや紫蘭宮付きの侍女たちは身を震わせ、ただただこうべを垂れるしかない。


「申し訳ございません、陛下。考えつく限りの医術を施してはいるのですが、いずれも捗々はかばかしくなく……妃殿下がお倒れになった原因についても依然調査中で……」

「言い訳は聞き飽きた。このまま妃が目覚めねば、おまえを冥府への供として遣わすことになるが構わんな」

「そ、それは……無論、引き続き全力を尽くす所存ではありますが……」

「第六妃の侍女はやはり何も話さないのですか。今もまだ〝自分は第二王子の言いつけを守っただけだ〟と?」


 怯え恐懼きょうくする宮医を見かねたのかどうか、ときに尋ねたのは眠る王女の傍らに座した皇太后だった。今、ここに彼女がおらねば、皇帝に無能と断じられた宮医や侍女たちはとうに首をねられていたやもしれぬ。

 されど狂暴で知られる皇帝も、母の前では剣を抜かない。憤怒にを血走らせ、血に飢えた獣のごとき気配をまといながらも、努めて冷静を装う口調で言った。


「ええ。あの様子では本当に何も知らされていないのでしょうが、もはや何を尋ねても泣き喚くばかりで話ができるありさまではありません。あと一日待って何も吐かぬようなら、指を一本ずつ落としていくつもりでおりますが」

「そこまで脅されて答えぬということは、指を落としたところで無駄な血が流れるだけでしょう。とすればやはり、蝶の国の王子が殿下に飲ませるよう指示したという酒の正体を暴くことが肝要です。あれに何の毒が含まれていたのか、それさえ突き止めることができれば……」

「し、しかし、皇太后陛下。再三申し上げたとおり、妃殿下がお召しになったささを獣や囚人に飲ませても、毒の症状を訴える者はおらず……であるならばやはり、原因は酒ではなく病にあるとしか……」

「野心にまみれた蝶の王子が、何の意図もなく侍女に命じて酒を飲ませるわけがなかろう。これでもまだ毒ではないと言い張るつもりなら、おまえを金で買った者の名を答えて楽に死ぬか、俺をたばかった罪で地獄の苦しみを味わいながら死ぬか選べ」

「ご、誤解です、陛下! 私は金で買われてこのようなことを申し上げているのではありません! お望みとあらば陛下の御前であの酒を飲んでご覧に入れます!」

「ほう。少しずつ体を切り刻まれて死ぬよりは毒をあおった方がマシだと言いたいのか? ならば誰もがのたうち回りながら殺してくれと懇願する毒をくれてやる。安心しろ、効果のほどは先の戦で検証済み──」

「……陛下。宮医殿のお話は、本当です……ですから、どうかご寛恕かんじょを……」


 ところが刹那、か細く響き渡った女の声に皆がはっと息を飲んだ。見れば四日のあいだ眠り続けていたはずの王女が、寝台の上で辛うじてまぶたを開けている。額には珠のような汗が浮かび、色を失った唇から零れる吐息は儚く消えてしまいそうだった。ゆえに皇帝はすぐさま傍らへ膝をつき、作り物のように冷たい王女の手にすがる。


「やっと……やっと目を覚ましたか。待ち侘びたぞ。この四日、もう二度と言葉を交わせぬのではないかとどれほど案じたことか……!」

「も……申し訳……ございません、陛下……ご心配を……おかけして……」

「そんなことはいい。それよりも、宮医の話が正しいとはどういうことだ? まさか病なのか?」

「……いいえ、陛下。これは……呪いです。我が祖国に代々伝わるあるむしの……」


 苦しげな息の下から、王女は皇帝を見つめて言った。

 その口の端に、微かな笑みが乗っている。皇帝は己が耳と目を同時に疑った。


「〝呪い〟だと……? 何を言っている? まさかあの晩、おまえが話していた不死蝶ふしちょうの呪いが実在するとでも言うのか?」

「いいえ……は……私のはらわたむ、この蟲は……不死蝶などという、美しいものでは……ありません……醜く、いびつで……人を蝕む毒を生み出す……蟲の姿を借りた、魔ものです……」


 王女は自らの腹部に手を置きながら、すべてを語った。

 蝶の国の王室に代々伝わる〝蟲〟の存在。その〝蟲〟を生まれたばかりの女児に寄生させ、身体からだに毒を帯びた娘を造り出す悪しき因習。自らもまたそうして生まれた〝蟲の王女〟であり、祖国の脅威である皇帝を暗殺すべく嫁がされてきたこと。

 そして全身に回った〝蟲〟の毒により、子が宿せぬ肉体からだであることも。


「では、初めから……其方そなたは人質ではなく、陛下のお命を狙う刺客として我が国へ潜り込んだということ? それが事実なら其方が入宮してほどなく、陛下が体調を崩され、病臥びょうがされたのは……」

「……はい。すべては……私が体の内に飼う……蟲の毒が為したことです。ですから、陛下……どうか……私のことは、お忘れを……」


 浅い呼気を繰り返す王女以外、誰もが言葉を失っていた。

 皇帝を見つめる王女の瞳は澄み切っている。

 時折苦痛に顔を歪めながら、されど今時期の星空のごとき透徹さで。


「私は……ここで、死ぬべき人間です。生きていたところで、益もなく……陛下を欺き……お命を狙った……本来であれば……捕らえられ……処刑されて然るべき、女です……ですので、どうか……」

「ふざけるな!」


 刹那、とどろわたった咆吼が居合わせた者たちの肩を震わせた。

 立ち上がった皇帝の眼は燃えている。赫々かくかくと、猛り狂った獅子のごとく。


「このまま忘れて死なせろだと? ならばおまえはなぜ俺を助けた? 半年前、俺が床に臥したのがその蟲とやらの毒のためだと言うのなら、放っておけば確実に息の根を止めることができただろう! だがおまえは母上に俺の不調を告げ、紫蘭宮から遠ざけた。あれはなぜだ!?」

「……分かりません。私にも……なぜ、あのような失言をしてしまったのか……」


 あらゆる感情が抜け落ちてしまったような表情で、王女は静かに目を閉じた。

 まさか今度こそ呼吸が止まるかと、色めき立った宮医らが身を乗り出す。

 されど王女は生きていた。

 瞳を閉じたまま二、三度深く息を吸い、やがて痛みを吐き出すように、言う。


「……ただ……今、思えば……私は……恐れたのかもしれません……」

「恐れただと?」

「はい……これ以上、陛下に惹かれることを……私も……あなたを愛していると、認めることを──」


 ゆえに遠ざけたのだと、王女は言った。より深く皇帝と交わることを、愛されていると知ることを、皇后にと望まれることを恐れたからだと。

 そうなれば皇帝暗殺という使命を果たす心に迷いが生じてしまう。

 皇帝を殺められなくなれば終わりだ。

 王女は今日まで信じてきた生の意味を、自ら否定することが恐ろしかった。

 幼い頃からただ一途に、想いが報われることだけを願って生きてきたのだから。


「……陛下。どうか私を殺して下さい」


 そう告げた王女の瞼から雫が溢れ、零れた。

 白皙はくせきの頬に尾を引く涙が、音もなく滑り落ちてゆく。


「私は……祖国を……愛してもいないくせに……父や兄を……心底憎んでいるくせに……さだめを拒むこともせず、あなたを殺めようとした……醜い女です。ただ、己を守るためだけに……すべてを騙して、生き延びようとした……今、我が身を滅ぼそうとしている、この蟲は……私の心、そのものです。ですから、どうか……殺して下さい……」


 喉を震わせそう告げた王女は、白く痩せ衰えたかいなで瞼を覆った。

 されど涙は止まることなく、次から次へと零れ落ちる。

 誰もが息を飲み、主君の決断を待つ他なかった。

 されど金獅子帝国の若き皇帝は、


「断る」


 え、と短くた王女の驚愕を無視し、皇帝は彼女の目もとを隠す細いかいなを引き剥がした。

 そうして傲然と王女を見下ろす。紫蘭宮の窓から注ぐ陽光を全身に浴びながら。


「何度も同じことを言わせるな。俺はおまえをただひとりの妻にと望んでいるのだ。そのおまえにこんなところで死なれては、困る。答えよ。今、おまえの命を喰らおうとしているのは、毒でも病でもなく腹の中にいる蟲なのだな?」

「は……はい……恐らく、兄から渡されたあの薬酒が……蟲を苦しめ、のたうち回らせるためのものであったのかと……」

「では蟲さえ除いてしまえば生きられるということか。宮医。何か方法は」

「い……いえ……恐れながら、毒蟲どっこを人の体内に棲まわせるなどあまりに荒唐無稽で前例がなく……唯一方法があるとすれば、東の大陸に伝わるという医術で腹を切り、蟲を取り出すとか……」

「馬鹿を言え。貴様はどうやら本気で皇妃を殺したくてたまらんようだな。腹を切られた人間が生きていられるかどうか、今、貴様の身で試してやろうか」

「ひっ……と、とんでもございません……! 私も古い医術書に記述があるのを見たのみで、方法までは分かりかねます……! しかし他に蟲を取り除く方法など……ただの虫下しであれば、既に処方して効果がないことを確認しておりますし……」

「〝虫下し〟──」


 と、真っ青な顔をした宮医の言葉を復唱し、皇帝は束の間思案した。

 かと思えばにわかに決然と顔を上げ、近衛騎士団長を呼べと命じる。

 命を受けた侍女のひとりが一礼し、慌ててねやを飛び出した。

 ほどなく男子禁制の禁を破って駆けつけた騎士に、獅子は言う。


「今すぐ戦支度を始めろ。宰相に命じ、各地の貴族にも出兵のげきを飛ばせ。これより我が国は蝶の王国に宣戦布告する。国王一族を捕らえ、尋問にかけるぞ」


 寝台の上の王女が目を見張った。宮医も、侍女も、誰もが瞠目どうもくし立ち尽くす中、唯一忠実な騎士だけが敬礼し、ただちに勅命を遂行すべくせてゆく。


「へ……陛下、お待ち下さい! 突然何を……!?」

「騒ぐな、安静にしていろ。俺は今からおまえの祖国に攻め入り、蟲を下す方法を探してくる。蟲を暴走させる薬があるのなら鎮める薬もあるはずだ。だが蟲の存在を知るのは代々蝶の国の王族のみだと言うからには、現王に直接尋ねてくるしかあるまい。答えぬようなら兄の方でも構わん。八つ裂きにしてでも聞き出してやる」

「な、なりません……! 兄はきっと、こうなることを見越して、西の異教徒たちと手を結んでいます! いま攻め込めば、必ずや異教徒の手を借りて……っ!」

「殿下!」


 皇帝が出陣すると聞き、跳ね起きようとした王女はしかし、再び腹部を押さえくずおれた。体を真っ二つに裂かれるような激痛に悶えながらも悲鳴を噛み殺し、荒い息をついて言う。


「で……ですから、陛下……どうかご再考を……!」

「断る、と言った。既にさいは投げられたのだ。俺の暗殺を企てたばかりか、間もなく皇后となる者をも殺めようとした罪は万死に値する。西の異教徒どもと手を組んでやってくると言うなら好都合。諸共に喉笛を噛み千切り、俺と同じ時代に生まれたことを後悔させてやろう」


 そう言って笑う皇帝の顔は、まさに牙を剥いた獅子そのものだった。

 獰猛どうもうにして孤高。

 百獣の頂点に立ち、畏怖いふの象徴として誰もが平伏する神なる獣だ。

 されど王女には分からない。

 ゆえになぜ、と尋ねれば、痛みで震える濡れた頬に、獅子がそっと手を添えた。


「言ったはずだ。たとえおまえが何者であろうとも、俺は生涯をかけておまえを守り、愛すると。この誓いに背けば俺は金獅子の加護を失くすだろう。世界中の誰が俺を裏切ろうとも、俺は、俺だけは、おまえを信じ愛した俺を裏切りはせぬ」

「陛下、」

「ゆえにおまえも俺を信じろ。必ずやおまえを救う方法を見つけ出し、迎えに来る。それまで決して死ぬな。生きよ。そしてもう一度、あの花園で──おまえの笑った顔を見せてくれ」


 王女はもう何も言葉を発せなかった。伝えるべき言葉は那由多なゆたにあるはずなのに、視界を彩る黄金の輝きが眩しすぎて声が出ない。

 その輝きに照らされたほんの数瞬、王女の体は痛みを忘れていた。

 とめどなく流れる涙で濡れた唇が、獅子の熱と重なり合う。


「行って参ります、母上」

「ええ。ご武運を、陛下」


 すべてを見届けた獅子の母は、一歩も動ずることなく微笑んだ。


 赤い外套ペリースに描かれた金の獅子がひるがえり、天に向かって吼えている。

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