それは呪い


「へ、陛下」


 信じられない光景を目の当たりにした王女はとっさに立ち上がり、動転しながらも獅子を迎えた。すると侍女も慌てて涙を拭い、王女の傍らに控え立つ。

 が、泣き腫らした顔を晒すことをためらったのか、顔は伏せたままだった。

 体の前で組まれた手はやはり震えている。一体何が彼女をそうさせるのか問い質したい状況だったが、皇帝が現れた以上、すべては後回しにすべき私事だった。とは言え皇帝も異様な状況を察したのか、卓の上の料理や酒に一瞥いちべつをくれて言う。


「……たまには変わった趣向を凝らそうと、予告せずに来たのが間違いだったようだな。取り込み中か」

「い、いえ……滅相もございません。ただ、侍女が……祖国の思い出について語り合っていたところ、郷愁のあまり取り乱してしまいまして」

「ほう。おまえの侍女が主人の酒に付き合いながら、思い出語りに興じるなど意外だな。てっきりその女には口がないのかと思っていたぞ」

「お、おたわむれを……ですがお見苦しいところをお見せ致しました。そちらの料理もただちに片づけさせますので」

「食事中ではないのか? まだほとんど手をつけていないように見えるが」

「いえ、今宵はあまり食欲がなく……ちょうど侍女に下げるよう命じたところでした。陛下がお越しになると分かっていれば、もっと早くに済ませたのですが」

「構わん。非があるのは何も告げずに来た俺だ。しかし見たことのない酒を飲んでいるな。どこの酒だ?」

「私の祖国で古くから飲まれている薬酒だそうです。私が疲れているのではと案じて、侍女が手配を……よろしければ陛下も召し上がりますか?」

「薬酒と聞くといかにもまずそうだが」

「左様なことは。芳香が強いわりに口当たりがよく、意外にも飲みやすい品です」

「ふん。そういうことなら一献馳走ちそうになるか」

「ではねやへ運ばせましょう。すぐに陛下の分の杯をお持ちして」


 そう言って場を取りなしながら、ちらと盗み見た侍女の顔はやはり蒼白だった。

 全身を包む震えも激しさを増し、今にも卒倒してしまいそうな顔色に見える。

 明らかに様子がおかしかった。

 が、そのような侍女の醜態をいつまでも晒しておくわけにもいかない。

 とにかく彼女を追い出すように片づけを急かし、隣の閨へ移動した。

 しかしこうして寝衣に身を包んだ皇帝を迎えるのは、およそ半年ぶりのことだ。


「……何の前触れもなくいらっしゃるので驚きました。しばらくこちらへはお見えにならないというお話では?」

「おまえも既に聞いているだろう。第一妃と第三妃が懐妊した。これで当面はの注意もあちらへ向く。となると久方ぶりにおまえの顔が見たくなってな」

「お気持ちは嬉しゅうございますが、おかげさまで身支度も整わず、お恥ずかしい限りです。湯浴みもまだ済ませておりませんのに……」

「ほう。ならば共に風呂に入るか?」

「既にお酒を召していらしたのですか?」

「無礼な言動は変わらんようで安心した。また俺を恋しがって泣いているのではないかと、ひそかに案じていたのだがな」

「……陛下もお変わりないようで、安堵致しました」


 複雑な胸中を押し隠したまま、王女は呆れの嘆息をついた。どうもこの男といると調子が狂う。先刻まで悲愴ひそうに溺れていたのが馬鹿馬鹿しく思えるほどだ。

 されど眼前の若獅子が王女の仕留めねばならぬ獲物であることに変わりはない。


 ──叶うことなら、会いたくなかった。


 そんな胸の内を知ってか知らずか、皇帝は黄金に縁取られた長椅子に腰かけ、さも隣に座れと言わんばかりに手招きした。


「で、何があった」

「何のお話でございましょう?」

「侍女の件だ。何やら只事ならぬ様子だったが」

「……分かりません。祖国について言葉を交わしていたら、本当に突然泣き出したのです。ですが理由をただす前に陛下が訪ねてこられたので」

「まさかとは思うが、侍女も酔っていたのか?」

「いえ……彼女とは、共に酒を酌み交わすような仲では」

「だろうな。入宮当初からあの女はずっとおまえに怯えている様子だった。とは言え俺が姿を見せぬ間に、何らかの形で和睦したのかとも思ったが」


 獅子の面前に佇んだまま、王女は黙然と首を振った。

 侍女の様子が変わったのは兄王子と接触したあとのことで、それまではひどく王女に怯え、避けていたという皇帝の見立ては正しい。

 しかしだからこそ先刻の豹変の理由が分からないのだ。

 王女は己の侍女の素性をまったく知らず、彼女がなぜにわかに取り乱したのか推測する道具さえ持ち合わせていなかった。彼女の職務に関すること以外で、あんな風に言葉を交わしたことすら初めてだったと言っても過言ではないだろう。


「ではなぜおまえはあの女を侍女に選んだ? 侍女の方は初めから祖国を離れるのは本意ではなかったと言っていたが」


 が、王女が立ち尽くしたまま侍女の異変について思いを巡らせていると、痺れを切らした皇帝が椅子から身を起こした。かと思えば彼は問いを投げかけながらにわかに王女の腕を掴む。そのまま強引に引き寄せられ、再び腰を下ろした皇帝の腕の中に閉じ込められた。いつ侍女が酒を運んでくるとも知れず、王女は当然身じろいだものの、腰に回された獅子のかいなはびくともしない。


「へ、陛下」

「質問に答えろ。さすれば放してやらんこともない」

「か、彼女を選んだのは私ではありません。父の話では、下の兄の推薦だったと」

「またあのいけ好かないガキの仕業か。しかし、ならばなぜあれほどおまえに怯える? 蝶の国では王族の側近く仕えることは名誉ではないのか?」

「そ、それは……んっ……へ……陛下、お止め下さい……!」

「質問に答えれば放す、と言った」


 よほど飢えているのだろうか。皇帝は抱き竦めた王女の首筋に顔をうずめ、今にも肉を喰らい始めそうなありさまだった。王女はあらがおうとしたが、逃れようとすればするほど拘束する力は強まり、愛撫も激しさを増す。衣裳いしょうは乱れ、零れた乳房に舌をわされた王女はびくりと震えながらも、さらにか細い抵抗を続けた。


「へ、陛下、お許し下さい……」

「そうか。答えたくないなら構わん。だがそうなると、酒は待てんぞ」

「……っ」

「なるほど。よほど答えられん事情があると見た」

「あっ……!」


 直後、王女の天地はさかしまとなった。

 飢えた獣が王女を長椅子の上に押し倒し、覆い被さってきたためだ。

 と同時に衣裳のすそを割り、熱い指が内腿うちももをなぞるのを感じた王女は、布地の上から皇帝の暴挙を止めようとした。

 が、抗う手は当然のように押さえられ、頭上にしっかりと縫い留められる。


「へ、陛下……! ですから今宵は湯浴みもまだだと……!」

「今更何を言っている。俺がそんな瑣事さじにこだわる男だと思うのか?」

「い……いえ……まったく……」

「では選べ。このまま侍女の前で俺に犯されるか、質問に答えるか」


 動揺のあまり、つい正直に答えてしまったことが仇となった。いよいよ逃げ場を失った王女はきゅっと眉を寄せ、重なり合った黒い睫毛まつげを震わせる。

 できることなら、皇帝にだけは知られたくなかった。されどここで沈黙を守ったところで、それをいぶかしんだ皇帝はなおも答えを求め続けるだろう。

 あるいは侍女を脅しつけ、本人から直接聞き出そうとするかもしれない。


 ならばいっそのこと、己の口から。


「……呪いのためです」

「何?」

「蝶の国の一族は不死蝶ふしちょうに呪われている。いつからか一部の人々の間で、そのような噂が立つようになりました。もう何十年……いえ……あるいは百年以上前から続く迷信ですが……祖国の民の中にはかつて、王のひとりが不死蝶との誓約に背き、呪いを受けたという伝承を信じている者がいます。王族のもとに生まれる女児が次々と命を落とすのは、古き王が神なる蝶の怒りを買ったためだと……」


 震える喉からどうにか声を絞り出し、王女は告げた。

 金色の光の中から見下ろす獅子の面差しを見ぬように、顔を背けながら。


「具体的に何代目の王が、どのような誓約に背いたのかは誰も知りません。されど偶然とは思えぬほどに続く不幸が、人々に疑惑を抱かせたのでしょう……ゆえに私にもまた死の呪いがかけられていると、侍女は信じているのです。とすれば彼女が側仕えを名誉と思えぬのも当然のことでしょう」

「だが仮に噂が事実だとしても、呪いの害を被るのはおまえであって侍女ではなかろう。だというのになぜあの女はああも過剰に怯えるのだ?」

「王女にかけられた死の呪いは、病のように広がると信じられているためです。事実王女が夭逝ようせいを免れると、代わりに周囲の者たちが死に魅入られる歴史が続き……たとえこじつけであったとしても、人々が長く語り継がれてきたものを信じ恐れるのは無理からぬこと。それを思えば……彼女を責める気にはなれません。祖国に身を置いていた頃から、ずっとそうだったのですから──」


 父も、母も、兄も侍女も騎士たちも。

 皆が王女を恐れ、避けていた。神の怒りに巻き込まれぬために。

 もっともの正体を知る王室一同が王女を遠巻きにしていた理由は違う。

 彼らが恐れたのは呪いなどという狂信めいたものではなく王女が身に宿す毒だった。されど真実を知らぬ者たちが広めた噂は〝毒〟が〝呪い〟に置き換わっただけで実のところ的を射ている。試練を生き延び、むしと共に育った王女が、毒をもって死をわざわいとなることはまごうことなき事実なのだから。ところが、


「馬鹿馬鹿しい」


 と、降り注いだ吼声が、今にも王女を呑み込もうとしていた暗雲を打ち払った。


「伝染する死の呪い? そんなものが本当にあるのなら、俺もとっくに死んでいるはずではないか。おまえの父も、兄も、あの侍女も、生きている方がおかしい。だというのに根拠もない噂を信じて死に怯えるなど、くだらなすぎて片腹痛いわ」


 王女は褄紫つまむらさきの瞳をいっぱいに開いて、皇帝を仰ぎ見た。

 長椅子の上に王女を組み敷いた男は、笑っている。

 いつもと何ら変わらぬ猛々しい光を赤眼ひとみに宿して。

 かと思えば獅子は押さえつけていた王女の腕から手を放し、助け起こした。

 言葉を失っている王女の黒髪をくように、熱を帯びた指先が滑る。


「どうやらおまえの国の民はずいぶんと信心深いようだな。常に神をおそうやまう心は見上げたものだが、信仰心も過ぎれば毒だ。呪いなどという不名誉な迷信を押しつけられた不死蝶も、さぞや嘆いていることだろう」

「……どうして」

「ん?」

「お……お怒りには、ならないのですか。父も兄もそれを知っていて私を帝国へ嫁がせたのですよ。たとえ迷信であっても、神に呪われているなどという噂を持つ女を、陛下の伴侶として……」

「ああ、そう言われれば確かに腹立たしいな。だが思惑はどうあれ、俺は蝶の王に感謝せねばならぬ。こうして話を聞けば聞くほど、おまえは俺の妻となるために生まれてきたとしか思えんからな。その娘と俺を引き合わせた功績は特赦に値する」

「なぜ──」

「言ったであろう。俺は金獅子に選ばれし王だ。たとえ不死蝶の呪いが実在したとしても、獅子の加護のある限り俺は死なぬ。つまり死に呪われたおまえがこの世で唯一伴侶にできる男というわけだ。これを天の導きと言わずして何と言う? だからもう何も案じなくともよい」

「陛下、」

「たとえおまえが何者であろうとも、俺は生涯をかけておまえを守り、愛すると誓う。ゆえに今、改めて求婚しよう──どうか俺のただひとりの妻となってくれ」


 握られた手が、するりと獅子の口もとへ寄せられた。

 白い甲に熱い口づけが落ち、王女の心を溶かす。溶かす。

 そうして液体となったあらゆる感情が、溢れて王女の頬を濡らした。

 もう何も偽れない。皇帝も、祖国も、自らの心さえも。


「できません、陛下」


 泣き叫びながら、王女は皇帝の手を振り払い、顔を覆った。

 とめどなく滴り落ちる涙の止め方が分からない。

 いっそこのまま、自らの流す涙の海で溺れてしまいたいと思うほど。


「できない、とはどういうことだ?」

「言葉どおりの意味です。私はあなたの妻にはなれません」

「なぜだ? 口さがない貴族どもの下馬評を案じているのなら──」

「そうではありません。私は……私が帝国に嫁いだ、本当の理由は……!」


 もうすべてを打ち明け、楽になってしまいたかった。

 その結果、たとえ本物の呪いが我が身に降りかかろうとも構わない。

 世界で唯一愛したひとを、自らの過ちのために死なせたくなかった。

 いずれ彼を殺めるさだめならば、いっそ、


「っ……!?」


 ところが王女の唇からついに真実が零れ落ちようとした、刹那。

 突如はらわたを引き裂かれるような激痛が走り、悲鳴を上げた。

 あまりの痛みに耐えかね、王女は椅子から転がり落ちる。

 まるで何かが内側から肉を喰い破らんとしているかのようだった──否。

 そうではない。暴れ狂っている。今も王女の腹の中で飼われるまがつ蟲が。


「おい、どうした!? しっかりしろ……!」


 抱き起こす皇帝の声が、あっという間に遠くなった。

 息も吸えぬほどの痛みに視界が歪み、意識の輪郭がなくなっていく。


「陛、下……」


 そう呼びかけたつもりの声は、声になることなく闇に呑まれた。


 ああ、これは罰なのだろうか。


 蟲によって与えられた生の意味を裏切った王女への。

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