愛なる毒
色とりどりの水上花が咲き乱れる池の真ん中に、ぽつねんと佇む
白亜の中から削り出された四本の柱と半球状の屋根が美しいその亭に向かって、今、岸から滑り出した小舟が
壮麗な装飾が施された天蓋と、船側を飾る金彩が目を引く舟である。
船上に
なぜなら今日の目的は皇宮の池の遊覧ではない。
花の道をゆっくりと進んでゆく舟の行き先には女がひとり。
亭の内で優雅に腰かけ、彫溝の美しい柱の
「ご機嫌麗しゅうございます、皇太后陛下」
そうして王女が口上を述べれば、女は静かな微笑みと共に頷いた。金獅子帝国第二十七代皇帝の
皇宮に伝わる古くからのならわしで、皇妃たちはふた月に一度、こうして皇太后の催す茶会に招かれるのだった。しかし茶会とは言うものの、招かれる者は一度にひとりだけ。すなわち皇妃と皇太后が一対一で内々の言葉を交わす場なのである。
特に当代の皇后が定まらぬうちは、皇太后が皇帝の
もっとも初めから皇后になるつもりなどあるはずもない王女にとっては、ただ己の近況を報告し、他愛もない世間話に
ゆえに他の皇妃たちのように、
もっともここで彼女の機嫌を損ねれば、皇帝の
「花の季節によく似合うドレスね。
と、向かいの席を示されて、王女は再び礼を取った。
されど真っ先に本日の
「お褒めに
「知っているわ。陛下は其方が暗い色の服ばかり好んで着ていることを好ましくお思いでなかったようね」
「は、はい……ですのでせめて皇太后陛下の御前では、失礼に当たらぬようもう少し華のある装いをせよ、と」
「ふふ……そう恥ずかしがることはありませんよ。似合っていると言ったのもお世辞ではないわ。陛下は普段、ご自分のお召し物にはほとんど頓着なさらないのに、女人の服を選ぶのはお上手なのね」
「……お言葉、有り難く頂戴致します」
ドレスの袖と揃いの
が、深海のごとく青い瞳の奥には、獅子の母を名乗るにふさわしい鋭利な洞察力と胆力が秘められているのを、王女は薄々感じていた。ゆえに彼女の前では滅多な言葉は口にできない。王女が茶会に招かれるたび、毒にも薬にもならない
「ですが陛下が女人に贈り物をするなんて前例のないこと。先に妃となった娘たちは、宝石のひとつも
「そう……なのですか? ですが他の皇妃様方の宮は、紫蘭宮よりも遥かに
「ほほ、まさか。皇妃たちはそれぞれの家門の財力を示すため、宮を飾るのに余念がないだけ。つまりいずれの
「確かに祖国の伝統工芸は各国で愛好されているようですが、陛下のお好みとは
「ほう。では陛下は逆にどのようなものならお好みになると?」
「蝶の国の工芸品はこちらのカップのように、淡い色彩と精緻な装飾を美として尊ぶ傾向がありますが、陛下のお好みはもっとはっきりとした色合いの……かつ機能美を優先した品かと存じます。ひと目見ただけで、溢れんばかりの生命力や力強さを感じさせるような」
と、王女が白亜の円卓に用意されていた花模様のカップを手に取れば、皇太后は再び微笑を浮かべた。
されど皇帝はこうした装飾美には目を留めない。贈られたドレスを見ても分かるとおり、動きやすさや使いやすさを何よりも重視している節がある。
でなければ、女人たちが己の腰をより細く見せるべく手を変え品を変えて膨らみを持たせた、ありきたりなドレスを贈って寄越したことだろう──それこそが今の帝国で最も美しいとされる衣裳であり、皇妃たちも競って身につけている品なのだから。
「なるほど。後宮に入ってまだ半年も経たないというのに、其方は陛下のことをよく理解しているようね。そういうところがあの方のお心を掴んだのかしら」
「い、いえ、陛下は王女らしからぬ私の振る舞いを面白がっていらっしゃるだけかと……私はあまりにも世間を知らずに育ったもので、ゆえに無知な言動のひとつひとつが、陛下のご竜眼には物珍しく映るのでしょう」
「確かに陛下は昔から好奇をそそるものには目がないお方だけれど、同時に宮廷での無益な
「……では私が紫蘭宮を賜る以前は、他の皇妃様方を平等に扱われていたと?」
「
「い、いえ、私は……」
「其方の目的は人質として自らの身を捧げ、祖国の安寧を守ること。初めからそれ以上のものなど望んではいない。そうでしょう?」
ひたりと据えられた皇太后の眼差しに、王女は背筋を凍らせた。
この女人にはやはりすべてを見透かされている。そう思うと
普通であれば王女が寵愛を受けるため、
ならばこれは忠告なのであろうか。皇后になるつもりがないのなら
「……いいえ、
「……」
「とは言え周囲が何と言おうと、最終的な決定権は陛下にあります。特に今、大陸統一を目前に控えられた陛下のご威光は天をも焦がす勢いで、
「私は──」
「其方にその気概があるのなら、わたくしも助力は
王女は返答に
そもそも皇帝は間もなく命を落とすさだめだ。近頃は
だのに皇后になる気があるか否かなど、なんと
もちろん皇帝が崩御の前に后を指名する可能性も皆無ではない。
されどそこに王女が選ばれる未来などありはしないのだ。なぜなら蟲の毒で満たされた王女の子宮は、子種を宿せぬようにできているのだから。
「……皇太后陛下は、私が后に選ばれる可能性がわずかでもあるとお考えなのですか?」
「少なくとも昨今の陛下のお振る舞いを見る限り、あると考える方が自然でしょう。あれほど注意深く後宮の均衡を保っておられた陛下が、
「しかし、陛下は……」
と、とっさに
何を抗うことがあろう。この皇宮で皇帝の次に力を持つ人物が、王女に皇后となる覚悟さえあらば助勢を惜しまないと言っている。これは今日まで何の後ろ盾も持たずに孤軍奮闘してきた王女にとって、またとない申し出ではないか。
実際、皇帝が紫蘭宮以外の宮に足を向けなくなってからというもの、後宮に流れ始めた不穏な空気を王女の肌も感じ取っていた。初めは何の力も持たぬ小国の
であるならば、偽りの返答ひとつで皇太后という味方を得られる好機を逃す手はない。ここは大人しく
ところが刹那、王女の脳裏をよぎったのは、
『ならば愛されるとはどういうことか、この俺がとくと教えてやる』
王女の心臓が一際大きな異音を立てた。
にわかにそんな記憶が呼び起こされた事実に驚き、思わず唇に手を当てる。
なぜ、今、皇帝の腕の中で迎えた初夜の記憶など。
よもや自分は
己が本当に、皇帝に愛されているなどと──
「しかし、何です?」
風が奏でる
「へ……陛下は近頃、ひどくお疲れのように感じます。ですので夜のお渡りは、しばらくお休みになるのではないかと……」
「まあ。疲れているとは、どのように?」
「こ……このところ妙に体が重いとおっしゃっておりましたし、お話し中もどこか上の空といったご様子で、日に日に生気を失われていらっしゃるように感じます。以前より眠りも深く、朝、お声をおかけしてもすぐには目を覚まされませんので……」
と言い終えてから、はっと我に返ったときにはもう遅かった。
なぜ、よりにもよってそんな話を。
皇帝の夜渡りが絶えれば、使命を果たせず困るのは己自身であるというのに。
焦燥から生まれた自問はさらに王女を追い詰めたが、前言の撤回など今更できようはずもなかった。現に菓子と紅茶が宝石のごとく散りばめられた円卓の向こうでは、金色の
かと思えば彼女はただちに扇を開き、傍らに佇む年配の侍女を呼び寄せた。
そうして眉根に深刻さを匂わせ、扇の陰で何事か
すると侍女も万事心得た様子で頷き、身を
向かう先は
恐らくは岸辺で待つ騎士に、
「こ……皇太后陛下、」
「ああ、ごめんなさい。其方の話が事実ならば、万一に備えて宮医を手配しなければと思ってね。実はここしばらく、わたくしも陛下に拝謁できていないのよ。来月に控えた
「さ……左様でございましたか。では陛下がお疲れのご様子なのも……」
「ええ、同じく政務が立て込んでいるためかもしれないわ。おかげで其方の話を聞かなければ、陛下のご不調を見逃すところでした。感謝します」
「い、いえ……身に余るお言葉です」
「けれどそんな状態でも、陛下は紫蘭宮に
「はい……残念ながら」
と、自身の犯した
何しろかの若獅子が
ところが王女の思考が失意の
「まったく、本当に面白い娘ね。けれど今のは懐妊の兆しについて尋ねたわけではないの。ただ其方の国に生まれる王族の娘は皆、病がちだと聞いたから、陛下の無理に付き合わされて難儀しているのではないかと案じたのよ」
「あ……」
言われてようやく皇太后の真意を悟った王女は、日の光とは縁遠く育った自身の肌がたちまち赤く染まるのを感じた。果たして今日の自分はどれほどの失態を重ねれば気が済むのかと、
「も、申し訳ございません……幸いにして私はこの歳まで大病もなく育ちましたので、ご心配には及ばないかと。幼少の頃はいくらか病弱ではありましたが、ご覧のとおり、今では差し障りなく生活できております」
「そう、それはよかった。蝶の国の王女はなぜか生まれてすぐに
まったく予期せぬ皇太后の言に、王女はますます面食らった。
不死蝶。それは帝国の建国神話に語られる金獅子と同じく、王女の故国たる蝶の国を築いたとされる神である。長きに渡る戦乱で荒れ果てた南方の地で、初代王の平和と豊穣の祈りに応えたとされる不死蝶は、見る者すべてを魅了する虹色の
だが王女は自身が不死蝶に選ばれた存在などと考えたことは一度もない。
なぜなら王女を選んだのは、神なる蝶とは程遠い、闇から生まれし
「……いいえ、とんでもございません。そのようなお言葉はあまりに
「あらあら。本当に謙虚な娘だこと」
目尻に刻まれた皺を
彼女は知らない。たった今、目の前にいる
だとしたらあの若き獅子は、まったく無垢なる母の愛に殺されるのだ。
王女がどれほど望んでも手に入れることの叶わなかった、母の愛に。
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