最終章 空は青く

第26話

 めかけの子には居場所はない。


 母はいわゆる、めかけだった。

 父は名家の出のエリートで、母はそんな父を一晩射落としただけの女だった。


 母は父に一目惚れをした、とよく話してくれた。

 これは母の気分がいいときだけだった。

 一目惚れをしたから、騙してホテルに連れ込んで、一晩を明かし、そして子供ができたと、籍は入れなくてもいいから一緒にいたいと言ったそうだ。


 こういう話をしてくれたのは小学生に上がる前までだった。


 小学校に上がってから母は気がついてしまった。

 不幸なことに、父が母を愛していないこと。それから、実子であっても一夜明かしただけの女の子供なんてどうでもよくて、子供がいれば自分を見てくれると言う幻想が壊れたと言うことに。


 母は興味をなくした。

 ご飯はくれなくなったし、洗濯も風呂もなくなった。毎晩知らない人と過ごし、昼間は父の元に押し掛けて暴れて返される。

 父が自分に興味を持ったのはその時だった。

 薄汚い子供は本家に呼ばれるようになった。

 父は決して名前では呼ばなかったけれども、愛されているのだと、愛してくれているのだと疑ったことはなかった。


 ……疑わなかった。

 他の子供は撫でるのに自分には触れないことを。

 一度も名前を呼ばないことを。

 薄汚い泥棒猫の子供の、血が通ってるからという理由だけで、最低限の生活を送れるようにされていたというだけだと、愛だなんておこがましい言葉で飾ったそれが虚飾だなんて疑わなかった。


 五年生の時に、熱を出した。

 流行り病にかかった自分を、父は見なかった。扉を隔てて向こう側で父と本妻と子供が笑っている声が聞こえた。子供心に寂しかった。

 熱で動かない体で助けを求めることすらできなかった。父は食事に出てこない自分を……同じ家にいたのに……なんの疑問にも、感じなかったらしい。


 ある日母が母屋を訪れた。

 そして言った。

「ろくでなし!! 育ててやった恩を忘れたの!? なんであんたばっかりあの人に愛されるのよ!! あんたなんて、あの人に見られるためだけの道具なのに!! なんであんたが愛されるのよ!! あんたのその場所は私の場所よ!! 返しなさい!! 返しなさいよ!!」

 母が繰り返し、何度も叩く。痛かったかもしれない。痛くなかったかもしれない。分かっているのは、母が何を言ってるのか分からなかったということだけだ。分からなかった。


 母屋から人が出てきて母を抑える。本妻が飛び出してきて引き離してハンカチで傷を拭ってくれる。母の目は、憎んでいた。自分を憎んでいた。

 飾られ、磨かれた指が白夜を示す。

「あんたなんて、生まなきゃよかった!!! 生んでよかったなんて、一度も思えなかったもの!!」

 泣き笑いのようなそんな顔で、ずぶりとナイフが突き立てられたような気がした。母の言葉が心の、もうどうしようもない致命的なところに刺さって抜けなかった。出てきた父が言う。


「出ていけ」

「なっ、なんでよ……たっくん、なんで」

「出ていけ」

「なんで! どうしてよ!! じゃあその子も連れてくわ!! その子は私の子よ!!」

「こいつは私の子だ。まともに世話をしないお前にはやらん。そして、お前の子を育てるというのが私からお前にやれる最後の『■』だ」


 本妻が僕の耳を塞ぐ。母が何かを言っていたけど、もうどうでもよかった。

 母は、僕を愛していなかった。

 僕は母に愛されてなかった。

 もしかしたらほんの少し、小学校に上がるまで、愛されてるんじゃないかなって、思ってたのに。


 父に引き取られてからは必死に勉強した。出の側面が真っ黒になるくらい、必死に。必死に勉強すれば父が僕を見てくれるんじゃないかと思った。

 中学時代も、高校も、トップの成績をキープし続けた。父が僕を見て頑張ったね、と誉めることなんて一度もなかったけれど、それでも走り続けた。

 運動も県大会に出場するくらい努力した。


 大学受験の日、本妻が僕の部屋に来た。

 そこそこ優しくしてくれた人だったから応援しに来てくれたのかと、思った。

 そんなことはない、あり得ない、あるはずがなかったのに。

「ごめんなさいね、貴方。でもほら、貴方、私の子供じゃないでしょ?」

 何を言ってるのか分からなかった。狭い部屋に閉じ込められて、錠前をかけられた。出してくださいって、試験に、いかせてくださいって何度も叫んだ。

 錠前が、扉が、開くことはなかった。


 夕方。試験の終わる頃、出してもらえた僕に父は言った。熱を出したそうじゃないか、と。僕は母みたいになるつもりはなかった。笑ってすみませんと言った。でもよく考えたら、父は僕が部屋から出されたところを見たはずだ。


 来年も受験すればいいと父は言ったけど、来年はなかった。

 翌年、国内で食料戦争が勃発したからだ。


 父が告げた。息子を行かせるわけには行かない。うちからは長子である白夜を行かせようと。

 ああ、それが嬉しかったんだ。

 はじめて頼られたと。

 父が僕を見たと。


 ……見当違いも甚だしい。

 しょせん僕は彼の息子の代わり。代わりの聞く代用品なのだ。だってそうでしょう。誰が、どこの親が喜んで死地に息子を追いやる?

 でも父はそうした。そこには憎しみも、嫌悪も、勿論、愛情ではなかった。頼っていたわけではない。ただ不知火の家系を円満にするための生け贄だ。


 多分、死んでくれればいいとさえ、思ってたんじゃないかな。

 でも僕は覚えがよかった。

 僕は賢かった。

 僕は、強かった。


 泥水を啜ったこともあった。

 血と砂利とが混ざった何かを纏いながら必死に足元の悪い道を歩いたこともあった。

 千五百人を殺した。百人を生かした。

 二千人を生かした。八百人を殺した。


 足を失うと思った日があった。

 体が思うように動かなくなった日があった。


 子供がいたかもしれない兵士を殺した。

 結婚をするのかもしれない兵士を殺した。


 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して、殺した。


 この世に鬼がいるなら。

 それはまごうことなく僕だ。


 食料戦争はそのまま、西と東を分断する地獄に変わり果てた。僕はそのまま軍に吸収された。そしてまた人を殺す。

 褒章がほしかった。

 故郷に錦を飾る。その通りだ。僕はそうして父や母に一言誉めてほしかった。ただ一言、嘘偽りでもいいから、言ってほしかったのだ。


 銀色の毛並みの狼が言う。

 酷く酩酊の中にいるような心地の僕に、酩酊から覚めてしまったような声で言う。

「ああ、君が不知火の家の子か。噂には聞いてるよ。ボクのかわいい灰が君に目をかけてるんだって?」

 何かを嘲るようなその声で、本家の主は告げる。酷くバカにしたように言う。

「うんうん、オマエの境遇は知ってるよ。でも、それがどうかしたの?」

 一言。一言でいい。

 たった、一言。誰も惜しまないで、一言。


「君みたいな凡庸な人間を、誰が愛するわけ?」


 ――呪いだった。

 望んだ言葉の代わりに返ってきたのは呪いだった。


 戦争が終わって、家に帰ってきた僕を、私を迎えたのは申し訳なさそうな父と大きくなって家を継いだ本妻の子供だった。

「すまない。もう家に上がらないでくれ」

 音をたてて、蜃気楼で作り上げていた砂の城が崩れていく。すっかり老いて疲弊したような声音で話す父はもう小さかった。

「私が悪かった。私が、悪かったんだ。成人になるまでは外聞もあるからと家においた、私が悪かった。もう無理だ。もう無理なんだ。うんざりなんだ」


 父の言葉は的を得ず、要領を得ず、酷く曖昧で虚ろだった。だけど、結論だけは嫌になるほどはっきりと、分かりきっていた。

「お前のことを、養子に出すべきだった。例えそれが醜聞になってもだ。あの女に渡せばよかった。愛せない子供を引き取るべきじゃなかった。すまない、すまない……こんな、私を許してくれ。私はただ、大人としての義務を果たしたかっただけなんだ」

「……僕は、頑張りました、父上。いつか父上が、僕を誉めてくれると。見てくれると。必死に、必死に戦ってきたんです」

「……………………――すまない。私にはお前が、化け物に見える」

 父、と呼び掛けようとした声が枯れていた。どんな顔をしていたのか分からない。父とは、もう呼べない、男がそこにいた。

「……名字をください」

「ああ、ああ、なんでも持っていってくれ。お前がもう二度と現れないなら私はそれでいいのだ」

「でしたらひとつ、願いを叶えてください。化け物の、醜い最後の願いを」

「なんでも言いなさい」

 今さら父親面した男がそう言った。

 一度、満たしてみたいと思った。満たされたいと思った。

「……名前を、呼んでよ、■■……」

 こぼれたエゴに男の顔を確認するような余裕はなかった。その老いてしまった、唇が動く。びゃくや、と。その姿を想像し、呼ばれた声――もう掠れて思い出せないそれを、聞いて。

 目を閉じた。


 別れの言葉は告げたのか。

 告げなかったはずだ。


 あそこにはいなかった。

 私の知る父は、弟は、母の代わりになってくれると思っていた人は。


 足が自然と早く動く。

 寂しいだけの、凍った指先を動かすつもりもなかった。雨がまた降ってくる。通り雨だ。

 願いは無為だった。

 期待を積み上げて、希望を積み上げてきたと思ったそれは屍の山だった。


 思えば自分には、父の叱責の記憶も、母の指の温度すらもない。自分を形作るなにかが決定的に欠けている。努力の方向すら間違っていた。


 人がそれを■と呼ぶなら。

 僕はそれを望まない。望みたくない。

 願いの全てが過ちならば、僕は、僕自身を否定したい。そう、だから願った。


 存在を跡形もなく、意味もなく価値もなく、消し去りたいと。

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