第19話

***


 あおい、あおい、せかい。


 ずっとずっと幼い頃、鈴音の世界は狭くて小さな部屋と、その天窓から見える切り取られた空だけだった。

 それより前のことは良く覚えていない。

 母と父が何故いないのか。自分はどうしてここから出てはいけないのか。なにも思い出せない。たぶん、思い出さなくて良いことなんだ。


 だって思い出すと泣きながらナイフを突き立てる女のひとを思い出す。唐紅の髪を持つ、森の緑色の瞳のひとが、泣きながらナイフを突き立ててる。

『……りんをころすの?』

『っ…………』

『ころしても、いいんだよ』

 そう言った気がする。

 今なら分かる。紅様は、私の記憶を殺したんだ。でもそれは万全じゃなかった。記憶を殺したところで死んだ、壊れた心は戻らない。

 両親が惨殺された、っていう記憶は――自分のせいで死んだっていう記憶は拭えない、しみだ。じっくりと心を壊して、鈴音は閉じ込められたときにはもう、笑えない子供になっていた。


 でもそれが分からなかった。

 分からなかったから青い空の広さを知りたかった。狭い狭い庵の中で独りなのは寂しかったから。


 それに庵では痛いことばかりをされた。

 たぶん、今思うと愛野の家の目的に適したことだったんだと思う。まあ、どうでも良いけど。


 だから――だから。

 紅様が迎えに来てくれたとき、心のそこから嬉しかった。ここを出ようと。こんなところにいるべきじゃないと。言ってくれたから。


 心は無かったけど、暖かかった。

 今思い返すと、ほら、胸のうちが熱くて熱くて泣いてしまいそうになる。貴女の優しさが私の世界を開いてくれた。私に外を見せてくれた。


 青くて広くてどこまでも広がる空。


 ある日、家を覗いたら愛野の家の手下が、誰かを殺していた。もう既に汚れた手を見てから思う。彼らを殺そうと。

 その結果、千夏に憎まれた。

 でもそれでよかった。誰かが憎んでいてくれないと正気を保てそうになかった。あの頃はずっと、狂うような自責の念に苛まれていた。


『曇天広がる初夏の空。ちーちゃんはなんて付け加えるの?』

『あー……飛ぶ燕の愚かなる様は白い煙のように、とかか?』

『いや、あんたら、なんか、頭良いっぽいことを言ってるけど全く短歌になってないけど』

『飛燕の愚かさは白煙の如く!!』

『格好つけてもダメだダメ! 没!!』

『紅様のけちーー!』


 はじめてできた友達。大事な仲間。大切な友達。

 千夏が引く手はいつだって鈴音を正しい方へと引っ張っていく。正しい方へ、正しい方へと。

 彼女がなにを願ったって望んだって構わなかった。


 空は果てしなく、限りなく流れる。


 響は人見知りだった。泣きそうなときも恐ろしいときも、必死に笑っていた。一生懸命笑っていた。それがあまりにも痛々しくて、鈴音ははじめてできた妹弟子を守りたかった。

 篠森の家から出てきた彼女を道場に案内したのは、必死に笑う彼女が痛々しかったから。守りたいも救いたいも必要じゃない。


『はい、まぁた上がりですよぅ! りんさん!』

『い、いかさまだ……!』

『純粋にお前が弱いのでは?』

『あっはっは。私、カードゲームは得意ですよぅ』


 貴方がなにも憂いを覚えずに笑えるようになることを祈ってた。響は鈴音に優しさを教えてくれた。誰かを重んじて、誰かを思いやることを教えてくれた。

 未来を恐れる響に言いたかった。

 未来は怖くない。怖くないと。

 だって私たちがいるから。


 紅に引き取られたからの十年は本当に楽しかった。

 毎日たくさん笑って、毎日たくさん叱られて、毎日たくさんのことを教わった。ずっとこのままでいたかった。このままがよかった。続くと信じていた。


 ある日、千夏に突き飛ばされた。

 その瞬間己の罪を思い知らされたような心地になった。後悔しているような千夏の表情も、響の悲鳴もどうでもよかった。


 私は、許されないことをした。


 誰かの命を奪い、生きている。


 許されないのだ。


 全身が痛かった。木の枝かなにかが腹と胸と手と足に刺さって痛かった。でも一番痛かったのは心だ。痛かった。のうのうと生き延びてるのだと知った。

 知らされた。

「…………ごめんなさい」

 のうのうと生きていてごめんなさい。

 ただ生きていてごめんなさい。

 罪を抱きながら、生きていて死んでいてごめんなさい。殺していて、命を啄んでいて。


「……鈴音、気にすることはない。千夏も、悪くないんだ。ごめんな」

「ううん! 気にしてないわ! ほんと……ほんとよ、紅様」

 だから笑ってください。

 泣かないでください。


 夜が来ると後悔で泣くのはよしてください。

 貴女のせいではないのです。私のせいなのです。


 夜になると両親が恋しくて泣かないでください。

 貴女のせいではないのです。私のせいなのです。


 夜が明けるとき、未来を恐れ、頬を濡らさないで。

 貴女のせいではないのです。私のせいなのです。


 泣かないでください。笑っていてください。自分が悪いなんて、言わないで。貴方をせめて、私を責めないで、泣かないでください。

 お前のせいだって泣いてよかったのに。


 与えられる優しさが傷口に染みて化膿する。

 与えられる慈悲が心を責めて眠れない。

 与えられる温もりが夢の中すらも焼いている。


「結局分からなかったわ。お祖父様は、私を嫌いだったのかしら。私を苦しめたあの人は、本当は苦しんでいたのではないかしら」

 金色の光の中で考える。考えても考えても分からないけれど。結局、答えは光が飲んでしまったから。永遠に分からずじまい、海底で煌めくだけの憶測になってしまった。


「お母様は紅様のことを憎んでなかったとは思うわ。それにあれは私のせいだもの。だから後悔しないでほしかったの」

 誰が答えるわけでもないけれども鈴音は話しかけた。手を合わせて、瞳を伏せて。


「千夏の両親は、私が行った時にはもう死んでいたわ。でもそれを明かしてもきっと信用してもらえなかったと思う。だから言わないわ。お墓、まで……きちんと持ってくの」

 そう覚悟したのよ、と彼女は付け加えた。事実、その声は金色の海の底に落ちていく。そこまではきっと、太陽の光も届かないだろう。


「本当は未来は変わってるのよ。でも教えないわ。だって響はちゃんとその事に気がつける子だもの。いつかきちんと、張り付けたものじゃなくて笑ってくれるまで、私たちは待つだけだから」

 その時に隣にいなくても構わない。ただ世界のどこか、いつかで、どうかきちんと笑えるようになってほしい。


「お父様のことは……ごめんなさい。良く分からないわ。記憶にもきちんと残ってないの。でも平気よ。信じてるから。お父様は、お母様を愛していたのね」

 砂塵にそう告げる。残るものはもう無くても構わないと思うように。


「紅様…………ああ、そうね。ダメ、よね。こんなのはダメだわ。だって私、殺したくない…………生きていてくれて、本当に嬉しかったのよ」

 そう言って抱き締めたかったのだと。

「貴女も分かってくれるかしら」

 目の前にいる鬼に問いかけた。彼女は目を伏せる。

「……分からないわ。私には分からない。生きていてくれて嬉しかった、も。泣かないでほしい、も。私は殺戮のためだけの存在。暴走した正義の有り様。それこそが、私だ」

「分かってるわ」

 修羅に落ちるというのはそう言うことだ。

 鬼になり、心を失うということだ。


「…………でも、いつか、そんなことがあったのかもしれない」

 ゆっくりと修羅の体が光に溶け落ちていく。悲しいけれども別れる時がきたのだ。

「リンネ。ありがとう。お前の見る世界は美しかった。お前の記憶は、こんなにも苦いのに、どれも煌めいていた。ありがとう……ありがとう。修羅になりたいと望んでくれた、麗しき乙女よ」

「お別れね」

「でも寂しくない。オレはもう、寂しくはない」


 昇っていく光の泡を見届けた。

 修羅は、いつからか鈴音の中に共生してきた神性だ。それが本物の神なのか、或いは天寿の見せた陽炎なのかは分からない。分からなくて良いのだ。分からないままで。


 不意に、暗くなった地面の上を鈴が転がった。

「……? 鈴? どうしてこんなところに?」

 目覚めなければと思う心に待ったをかけて鈴音は、鈴に誘われるように奥底――意識の底、天寿とあの日の待つ魂の螺旋を下ることにした。

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