第四章 修羅さんこちら。鈴の鳴る方へ。
第18話
響が首を傾げる。
「天寿の妨害って、どうやるんですか?」
「あ? ンなの要領は魔法の妨害と同じだよ。もっと限定的に干渉するけどな。全部は遮断できねェぞ。遮断すると逆に勝てなくなるからな。スペックを普通の人間レベルまで落とすだけだ」
まあ見てろよ、と胡蝶は杖を突き立てた。
「“夢十夜――除夜・銀幕”」
影から飛び立つのは無数の水銀でできた蝶だ。その羽から銀でできた鱗粉がこぼれ落ちる。それは木に落ちるとゆっくり木を腐敗させ始めた。鈴音の表情が大きく歪む。
「っ、な、なにこ、れ、変よ、なんで、私の力が全部絶たれて……」
「こーちゃん?」
「魔法の効果を緩和される技だ。銀って言うのは伝承的にも聖なるものだ。だからもし魔除けの品を作りたいとなれば素材は銀に限る……ンだが、問題点として銀は魔力そのものを弾くんだ」
聖なる物質だからだろう。
祈りという魔法を込めるのは簡単だが、呪いという魔法を込めるのは無理なのだ。
そしてそれは、魔法で再現した銀とて例外ではない。空気中に視認できるレベルの銀を散布するこの魔法は、魔法をかけてる胡蝶自身の魔法をも妨害するのだ。
「つまりオレはこれを展開してる間は戦えない。ッつー訳でがんばれがんばれ」
「そう言うことか!?」
「一応、てめえらに被害が及ばねえようにした。好きに暴れろ」
「助かるよ、こーちゃん」
刀を手に握る。鈴音は今、天寿は使えないと見て良いのだろう。
そんな鈴音の脅威はスピードだ。
剣撃のスピードもそうだが、なにより吸収速度があまりにも早すぎる。先ほどの紅の視覚の殺害方法を、彼女はなんの苦もなく飲み込んだ。挙げ句それを再現して見せたのだ。
この地点で脅威は十分大きい。
だからこそ――連携が必要なのだ。
白夜は響に目配せをすると地面を蹴った。斬撃が雨のように降り注ぐ。白夜は勢い良くその間を駆け抜ける。降り注ぐ斬撃を潜り抜けて、必死に水面を滑る。水飛沫が跳ねた。
「白夜さん!!」
鈴音の刀が抜かれると同時に、響が手を引いた。足元に広がった蜘蛛の巣が起動し、その体が軽やかに宙に舞った。半ば吹き飛ばされたような心地だが構わない。
帰蝶の吐いた煙りに足をつけてそのまま飛ぶ。
「ッ! ちょこまかと……なんで、おとなしくしてられないのよ!!」
「鈴音ェ!!」
刀を抜こうとした鈴音に振り下ろされたのは大剣だ。千夏はその力で鈴音を地面に抑え込む。
「くっ……!!」
「正気に戻れ!! 飲まれるなァ!!」
「あ、なたに――!! アナタになにが分かるわけ! 千夏!! 修羅に落ちるなどとほざきながら! その実、全く落ちなかったアナタが!!」
「耳が痛いが落ちんなつったのはお前だろ!!」
千夏が弾き飛ばした。彼女の紅色の刃が吹き飛ぶ。
紅はメスを空に滑らせた。
「“殺害”する」
斬れる音がして鈴音はこける。なにを斬ったのかは分からない。分かっているのは今、天寿がない彼女に紅の技を防ぐのは不可能だということだ。
「“地を照らせし陽炎よ。天に召します神々よ。ここに私は魂の一太刀を奉る”」
唱えるのは
捨てようとした色を取り戻すように、鞘からこぼれ落ちるのは目を眩ませるような朝陽の輝き。白夜が納めているのはまっとうな剣術ではない。だからこそ可能な煌めきは、魂の虚ろを断ち、絶望をこそ斬る。
「天を照らせし巫女神よ、ご笑覧あれ! これこそが僕の、暁の剣なれば……!」
零れ落ちた光は落ちて世界を照らした。
全てを、隠し事、秘密、暴かれたくない全てが照らされていく。髪は黄金になびき、刀は今一度過去の幻影として煌めく。
「超絶技巧――
地面に衝突すると同時に黄金の花が綻んだ。余波が銀幕を完全に蹴散らし、天寿の木を薙ぎ倒す。山際から伸びる日光が華を描くように、白夜の一撃も美しい天の華を描く。
それは見るものの網膜に鮮烈に焼き付く。沈まぬ太陽があるとすれば、輝きはまさしくそれだった。影という影を焼き付くし、天より降り立ったその一撃が鈴音の角を折る。
「こ――んな、ところで…………!!」
「鈴音ッ! 戻ってこい!! 戻ってくるんだ!! いつだって君は優しかった、僕の秘密にも触れないでいてくれた。そんなに優しい君に僕が言うよ。紅が死んでなかっただけで君の価値が、人生が、損なわれることは断じてない!」
それはさながら、光の海のようだった。
光の泡のなかで手を伸ばす。決してその奥の、深淵に彼女が落ちないように。
「復讐だけが君のこれまでの人生だったのなら、ここから先は違う! 君はまだ若い! 君の手はまだ綺麗だ! やり直せる! だから――だから、手放しちゃダメだよ」
涙すらも、光に溶けて消えた。伸ばした手に彼女の手が重ねられる。その青い深海のような目が白夜を労るように見つめた。
「…………だからそう、それだけは、ダメだよ」
華奢な白い肩を抱き締めて、白夜は彼女を庇うように目を閉じた。彼女の落ちそうな青い青い瞳のような海など、欠片もない、光の海の中で。
激しい衝撃と共に視界が揺れた。口から胃液と唾液が混ざって飛び出す。肋骨が折れたかもしれない。少なくとも腕が今折れた。
「白夜!!」
鈴音は、無事だ。
規則正しい呼吸の音に安堵が胸を満たした。これでどこにも怪我がなければ白夜の一人勝ちと言っても過言ではないだろう。
「ち、ちーちゃん、鈴音のことをお願い……」
「誰がちーちゃんだ。分かったから動くなよ」
「あ、あと、腕が折れて……ッッ!!」
「あ、わり」
本当にいたかった。なんだかボロボロになってばかりだ。響に反対側から支えられて歩き始める。
――足元に、ごろん、と果実が落ちてきた。
「これ、は……!!」
薄紅色に色好き熟れた、甘い芳香を漂わせる果実を手に取る。響も千夏も、何も言わない。白夜はそれを持ったまま顔をあげた。
汝、望むならば食らえ。
森の声が白夜の脳裏に響き渡る。果実は甘く、それ以上に果実の持つ謂われに惹かれるものがある。そして彼らは何も言わない。言うことが無駄だと、分かっているからだ。
静寂が支配する。
「……使わないよ」
その声に込められているのは畏怖だった。恐れと恐怖。超自然的存在への、ごくごく自然な敵意。
「僕は、君にすがらない。答えはノーだ」
果実がまるで溶けた砂糖の塊のようになって落ちた。そのまま歩き出す。森はもうただ、黙って、白夜の姿を見届けるようだった。
「……行こう。湖を越えたらアタシの庵だ」
「うん」
「胡蝶? どうかしたのか?」
森を見上げる胡蝶が灰の言葉にえみをたたえる。
「先に行ってろ。天寿の処理をする」
その言葉に頷いた灰も共にボートに乗った。ゆるりと舟が湖を滑る。
代わりに現れたのは、老いた男だった。錦の着物は豪奢で、贅沢をしているのだと姿から分かる。
「…………愛野 ハルヒサか」
「いかにも、だ。獄幻家の……」
「その姓を名乗るのは嫌がらせだ。私のことは黒死の蝶とでも、ナナシとでも呼べ」
「ではナナシ。単刀直入に訊こう。そなたが、裁くものか?」
「ああ。オレこそがナナシ。名は無くとも悪を裁くもの。分かるだろ、本能的に。お前達は間違えた。だから天寿は死ぬ」
胡蝶は手袋を嵌めた。瞳はなにかの感情や光を浮かべたりはしていなかった。ただ無情に世界を眺めているだけ。
「てめえらの二千年の歴史は誤りだった。辿り着く場所を誤った。一心不乱に同じ場所を目指していればよかったものの。魔が差したな、ハルヒサ」
影から吹き出るのは水銀のような物質だ。実際には魔力で作り出した幻影で、全てが終われば魔力、自然のエネルギーへと帰っていくだけのつまらない代物。
二千年の盲従は終わる。
彼らは間違えた。少なくとも獄幻の家は戦乱によっての幸福を振り撒く神をご所望ではなかったらしい。
どのようにそれを届けたのかは知らないが、蓮角の里へ至るためのジェット機の中にそれについて書かれた便箋が置かれていた。
全くもって豪腹だが。
それでも背に腹は変えられない。
ここで天寿を、ひいてはうちに降ろされた阿修羅を放置すればどうなるか、分かったものではない。白夜の甘いとも言える判断で天寿の王は生きているのだから。
彼らは間違えた。
「わしらがそう大人しく死ぬとでも……!!」
「大人しくなくても構わねぇよ。ただてめえはそこで死ぬ」
影から溢れるのは水銀だ。その内容物は主に夢である。抵抗は許さない。ただ穏やかに衰弱死をするだけだ。
実際、水銀に触れたハルヒサの目が大きく見開かれる。焦点はどこか遠くに結ばれて、最早胡蝶を映してはいない。
「あ……ああ……あああ……鈴音! 鈴音! そんなところにいたのか! ずっとずっと会いたかった! こんなにワシは老けてしまったが、お前はまだ変わらずに美しいままだ……ああ、“リンネ”……私の愛しい妻よ……」
彼は虚空に誰かを見いだしながら沈んでいった。
愛野 “リンネ”。それは愛野 ハルヒサの妻だ。愛野家直系の娘であり数年前に愛野の研究が原因で死んだと書かれていた。
「孫にてめえの妻の影を見てやがったのか」
存外つまらない話だ。
広がり続ける水銀の夢の上を歩いていく。腐蝕に負けずに凛と立つ御神木の前で、胡蝶は足を止めた。指先が実体の無い神木をすり抜けて、中の鬼神を引きずり出す。
「…………つまらねえな」
ドプン、と水銀で形作られた蛹の中にそれを棄てた。そのうち消化されて栄養となるだろう。
「あとは好きに喰らえ」
水銀の形作った頭を優しく撫でて胡蝶は森を後にする。禁足地だった時の面影は最早無い。水銀がすべからく全てを飲み込み、あまねく全てを喰らい尽くす。
夢というのはそういう代物だ。
腐蝕をさせる甘い堕落の蜜の海を見下ろした。
「……あとはくそ白夜がどう出るか、だな」
胡蝶のぼやきは、空に消えた。
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