第13話
――雨が。
雨が、降っている。
ざあざあと雨が降っている。
銀色の刀から滴る雨垂れだけがやけに鮮明に耳に響いている。紅は緑の瞳を細めた。それは嫌味な仕草だった。
「……殺すのか、アタシを」
「殺す」
「非道いね」
「二言はない。そなたを、殺す。私は殺すと決めた」
「アタシを殺してまで、養う子供のいる親を殺してまで名誉がほしいのか」
「ああ、ほしいとも」
男は、沈まぬ太陽と喚ばれながら、その実既に黒く濁りきったその心で、男は、嗤った。
「ほしいとも! それで家族が私を愛してくれるのなら! 幾千の命を踏み台にしようとも構うものか!」
「……それが、アンタの戦う理由か。なるほど、それは通りで手強いわけだ」
頚をはねた。
忘れるはずがない。
忘れられる、訳がない。
太陽は沈まない。沈んではならない。諦めて沈めば全てが闇に落ちる。けれども、ああ、けれども。
とっくに心は、沈んでいたのだ。
***
「…………白夜さん?」
「……………………ひび、き」
そっと頬を撫でられた。焚き火の灯りが響の表情を照らし出す。
「良かった、死んでなかったのですね」
「…………ありがとう」
「視えたので」
それだけで駆け付けてくれたのか。
周囲は森、または林のような場所のようだ。苔の渋い匂いと、霧のせいでどこか肌寒い。
「響、目ぇ覚ましたか?」
「はい」
「ほうほう、それは良い報じゃ」
「…………良いってことは、悪い知らせもあるのか」
焚き火に当たる帰蝶の顔が険しくなった。そしてほいっ、と千夏の方からなにかを投げられる。
「他のは全員読んだ。あとはてめえだけだ」
その書類の一行目には赤月病について、と記されていた。
「最近、蓮角の里全体に流行ってる病です。目が深紅に染まり、人格が豹変する病ですね」
表面化する症状としては目が赤く染まり、乱暴な人間は大人しく、大人しい人間は乱暴になる。つまり。
「人格の反転か」
「はい。そして感染した人々は感染後二週間から一ヶ月の間に全身が蛾に変換され、肉体を消耗しながら死んでいきます」
「感染方法は?」
「接触感染です」
白夜の指が震えた。咄嗟に、先ほどから熱を持っている右目を抑える。ダメだ。空を視てはダメだ。本能がそれを理解する。
目線はそのまま落ちた書類の上を滑る。
『目の赤目化は色素の関係ではない。魔力による微細な変化により赤く見える』『感染した人々は身体が蛾に変換され始める前に他者への感染をさせようと積極的になる』『このウィルスは月の光に反応して強く変貌する』『満ち欠けに応じた繁殖力を持ち』『ウイルスの本体は術式を保有した魔力である』『瞳に魔力が含まれた結果、ウイルスの強く反応する月の光――この場合は見えている月が』
「……紅く、見える」
うっすらと紅く見える月を見上げる。それはほんの僅か、普段であれば見間違えと切り捨てるような色素の変化。
「接触感染は、脈の集中してる場所を指先で抑えることでより効率的にできる。てめえはそれをしなかったから『もしかしたら』と思ったが」
「そうだね。これはすごく微弱なものだ。僕自身の人格に害を及ばさないような量だ」
だが側にいればどうなるかは分からない。
「…………響ちゃん、ちなっちゃん、帰蝶。丁度いい。分かれて動こう」
「なっ……正気ですか!!?」
「正気も正気。スッゴク本気だ。皆は帰蝶についていってこーちゃんからなにか聞き出して。これは多分、こーちゃんの管轄だ」
愛野家が神に成り代わるための手段が、恐らくこれなのだろう。だとすれば内情の分かってる胡蝶のほうがより柔軟に対応できる。
「では白夜さんは!」
「僕は鈴音と紅を止める」
千夏が息を飲んだ気配がした。彼女はそのまま憤るように叫ぶ。
「り、鈴音にはこのウィルスが大量に投与されてる! 何よりこれは紅様が開発したウイルスだ!」
「だからだよ。紅は例えば家を破壊してでも、鈴音を止めなきゃならない。何故ならば紅にとって鈴音は万有の例外だ」
「だがだとしてどうするんだよ! 赤月病が蔓延したこの町の中をしらみ潰しに探すのか!!?」
「……探すよ。だって感染してるのはこの中で僕だけだ」
病魔の巣窟となっている天空の島を散策し、人を二人探し、更には殺し合いを止める。とてもじゃないが正気ではできないだろう。
普段の白夜ならば、多分止めていた。
けれど今は違う。赤い月が白夜を狂わしている。ならば踊ってやるのも一興だ。
「僕には愛が分からない。羨ましいんだ、紅と鈴音が。二人は二人にとっての例外だ。二人には例外がいる。でも、僕の世界には例外はない」
殺すと決めたら殺す。
それだけが定めだ。何人殺そうとも焼き尽くされた手が汚れない理由だ。何度も罪を焼いているから。彼は決して淀まない。
「……でも、復讐に狂う鈴音の姿には共感が持てる」
愛されたいと惨めに願う白夜が、あの復讐が過ちだと知った子供に重なるのだ。
だから止めないといけない。
その先に何があるのかを白夜は知っている。叶わないと知りながらすがることほど空しいことはない。滑稽で、空しくて、馬鹿馬鹿しい。
そこまで彼女が堕ちるのを見ていろと言うのか。
そんなのは耐えられない。
「だから僕は鈴音と紅を止める。誰がなんと言おうと、これだけは譲らないと決めたから」
固い覚悟を口にすれば全員が息を吐いた。それは諦めたような口調だった。その中で、笑みを張り付けた響がおずおずと前に出る。
「白夜さん」
「ん?」
「私、あの時視えたから来たんです」
あの瞬間、白夜の死を視た忍びは言う。
「本当は見捨てようと思いました。見捨ててやろうと思いました。でもできなかった。私、運命を諦めたくなかった」
どたばたで曖昧になってしまったけれど。響の胸にあの白夜の叫びは確かに届いていた。
「だからですね、初めてだったんです。私、私――初めて、この力で誰かを救いました」
「う、うん?」
「貴方のお陰です、白夜。本当にありがとう。私の心を開いてくれてありがとう」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「だからどうか、きちんと生きて戻ってきてくださいね」
「…………うん」
うまく、笑えていただろうか。
うまく笑えていたことを祈りながら白夜は、感じたことの無い感情になにかが揺れ動くのを感じた。
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