第5話

 千夏の不幸は別に紅が殺された時に始まったわけではない。鈴音はきっと不幸でないと言い聞かせながらそれでもターニングポイントにそこを選ぶだろう。

 千夏は違う。

 千手 千夏はそんな無様な真似はさらさない。

 彼女が自分のターニングポイントを選ぶなら、それはそれよりもっと前、八歳の夏の日を選ぶ。


 その日はとても暑かった。茹だるような熱は、二人の故郷である天空の島であれど変わらない。そんな暑い日。家に帰ったら刀に血を滴らせる少女と冷たくなった両親が立っていた。

 少女は暗く落ち窪んだ青い瞳でこちらを見た。

「……な、なんで、とうさん、かあさん」

「わるいひとはころしなさいって」

「な、なんなんだよ! おまえ!」

 山菜が地面に散らばる。喜んでほしくて取ってきて、無為になった山菜。少女はそのままこちらに歩いてくる。

「わるいひとはころしなさいって」

「わるいひとって!!」

「……わるいひと、は、ころしなさいって、いわれたからころしたの」

 自分より幼いその子供はそれだけ告げた。

 そして自分は生かされた。わるいひとではなかったから。その事実が許せなくて赦せなくて、ゆるせなくて。

 千夏は包丁をもって、数日かけてその少女の家を突き止めた。


 そんな千夏に師匠は葉巻を揺らしながら言った。

「この子を憎むな、千夏。難しいのは分かる。でも憎んでやるな」

「っ!! なんでですか!!」

「この子はアタシのせいで不幸になった。憎むならアタシを憎め。この子は今、呪縛から始めて逃れたばかりだ」

 その意味が最初は分からなかった。良くも悪くも千夏は愛されていた。愛し、愛されていた。だからまた彼女に、鈴音にであった時、憎悪よりも先に嫌悪が走った。


 彼女は、人を殺せるような少女ではなかった。

 彼女は、愛されたことなど知らなかった。

 彼女は。


 あの子は。


 妹のような、自分のかわいい、鈴音は。


 その思考をノイズだと今の千夏は切り捨てて剣を振るう。どちらかが冷たい肉の塊になるまでもうこれは止まらない。

 最初からそういう運命だったんだ、と千夏はあっさりと割りきる。


 あの夏の日、鈴音に殺されなくて、鈴音を殺せなかった千夏は、今になってそれをやり直そうとしている。馬鹿馬鹿しい。実に不出来な話だ。


 紅蓮の引っ掻き傷が空間に生まれる。大きな振りしかできない両手剣では咄嗟の防御は叶わない。特に鈴音の一撃はまるで羽のように軽やかで、素早い。

 鮮血を撒き散らして千夏の腕が吹き飛んだ。

 これは一度や二度のことではなかった。辺りの石畳を満遍なく濡らす血液は全部、軽やかに避けて掠り傷しかない鈴音のものではない。

「……あなた、それ、正気?」

「――はっ! お前は確かに修羅だろうさ。私のことをなんの躊躇いもなく切りつける。情や未練なんて一切ない!! だがどうだ! 私は、お前の望む修羅になれたか!?」

 振り下ろされる刀。研がれていない刃は肉を圧力だけで削ぐ。鈴音は咄嗟に刀で受け止めようと前に手を出して。


「うーん、そうだなぁ。僕としては」

 間抜けた声が、響く。鈴音は振り向いた。

「切りってもいいってのは、助かるかも」


 牙突が放たれた。その勢いと共に放たれた空気の圧が周囲の地面を陥没させていく。その先が大剣にふれると大剣が内側から弾けた。

「なっ!」

「びゃ、白夜!!? ど、どーして……」

 その鈴音の言葉に困ったように笑う。

「イヤー、アハハ、本当は手を出すつもりじゃなかったんだけどねえ……」

「じゃあ、なんで」

「でもほら、手伝うって言っちゃったからさあ……責任もてってきーちゃんに言われた」

 宵闇を改めて握り直す。

 本当なら手を出すべきではない。千夏には千夏の結末があり、鈴音には鈴音の結末がある。二人のどちらかの片方が果てるのがきっと自然だろう。

 うん。そうやって同意する。

 でも、でもだ。


 それって、あまりにも寂しくないか?

 鈴音はそう思わないみたいだし、千夏もそうみたいだ。でも寂しいと思った。思っていた。

「でも、せっかく手を出すんだ。二人じゃいけない場所に君たちを連れていくべきだ。そうだろ?」

「……白夜」

「だから聞きたいんだ」

 鈴音から天寿の願いとその結末を聞いて分かったことがある。願いと結末には当然の因果がある。そう言うと鈴音が破壊ではないというのは不自然だが、それでも結果的に、鈴音は多くを破壊している。

「……でもだとしたら不自然だ。君は修羅に落ちても殺すって決めたんだろ。それなら、その体たらくはなんだ」

 刀の先が千夏を示した。


「なあ、千手 千夏。本当は君、何を願ったの?」


 千夏の、鳶色の瞳が見開かれた。彼女の腕が怒りに震える。

 やっぱり彼女は願ってなかった。千手 千夏は復讐なんて願わなかった。修羅に落ちても、なんて言うのは後付けの感情だ。

「……君はきっと、死んでも生き返るんだろう」

「なんでそう思う。私の能力が! 鈴音と同じ蘇生だと、そう私に――」

「仮説は証明できる。試してみればいい。簡単でしょう?」

 振るわれた大剣を鈴音が切り開いた。その断片を踏みつけながら、一歩、二歩――踏み込む。千夏の目に浮かぶ感情は慣れたものだった。でも煩わしかった。

「そんな目をするな。お前はもうじきに死ぬ」


 喉笛を軽く撫でた。吹き出した鮮血が自分の黒髪を濡らす。千夏の身体が地面に落ちた。その脈拍がゆっくりと失われ、体温が静まり、死人はただ沈黙のみを――。

「……っ、てえ、な」

 千夏は傷口を塞ぎながら立ち上がった。決して浅い傷ではなかったはずだ。何より白夜の剣は剣なのに内側からの破壊に特化している。同時についた胸も全くの無傷だ。

「あははは。こうみるとなんか、うん」

「びゃくや……?」

「………………血の匂いで気持ち悪くなってきた」

「なんでよ!?」

 口を押さえて戦場とは思えない足取りでよたよたと引き下がる。マジで気持ちが悪い。頭が揺さぶられているみたいだ。こればっかりは胡蝶にも散々嘲笑われた。


「そんで、探偵……望んだもんは引き出せたのかよ」

 探偵! そう僕探偵なんだ。うん、改めて呼ばれると嬉しいな。白夜は血液に酔った頭をブンブンと振ってまた気持ち悪くなった。

 違う。そうじゃなかった。口元を抑えながら白夜は静かに微笑む。

「……望んだものね。うん、それも引き出せたよ。千夏。君は師匠の死を前にして、『無様に死にたくない』って、望んだんだね」

 今度こそ、千夏は何も言えなかった。


「……マジか。当てられるなんて思ってなかったぜ。正直、期待すらしてなかった。鈴音に暴かれる覚悟はしてた。響にそうされるのも我慢できた。だが、天寿についてほんの少し齧っただけの人間が、これを当てるか?」

「でも誰もが日の下で隠し事はできない。こと、真実を白日に晒すことなら、僕は得意なんだ」

 白夜の言葉に千夏は、いっそ笑いたかった。鈴音の侮蔑の目すらも気にならなかった。ただ、笑いたかった。


 だからこれは不出来な話なんだ。結末はとうに決まってる。鈴音は千手 千夏を殺せない。彼女には負い目がある。

 それは千夏にもあるのに。


 あの夏の日。忌まわしい龍が牙を立てて、平穏がまた、音を立てて崩れたときに思ったのは『御免だ』と言う感情だった。

 復讐や、自分勝手な死にたくないや、怒りや、奪われたことに対する嘆きならどんなに良かったのだろうか。千夏の胸を焼いたのは至って簡単で。


 両親のように無様に死にたくない。

 紅のように無様に死にたくない。

 あんな、不様な死にかただけは勘弁だ。死ぬ場所、死にかた、死ぬときくらい自分で選べる。だからあんなふうに無様に死にたくない。


 例えそれが、無様に生きると言うことでも。


 今、あの龍に食らわれることだけは。


「……」

 死にたくないと言う感情ですらなかった。

「なるほど。探偵、あんたの言葉は正しい。帝都で沈まぬ太陽と言われるあの男は、黒い龍でありながら確かに太陽を引き連れて現れた。私たちはあの日、胸の奥に隠してた醜さを無理やり白日のもとに引きずり出されたのさ!」

 そうだろう、鈴音。お前だってあんなにいやがってた天寿に醜くもすがったんだろ。そうじゃなきゃ全てを蘇生させるなんて、そんな傲慢な願い。

「……白夜。ありがとう」

「うん? なんで僕? 僕はただ傷口を抉っただけだよ。幼稚園生でもできる」

「それでも、私と千夏には必要だったの。だから、ありがとう」

 鈴音は刀を握る。白夜は何も返そうとは思えなかった。


 剣戟が響き渡る。一歩一歩の足捌きが僅かな死を招き寄せるとわかりながら剣を振るうのだ。千夏の表情はずっと苦悶の表情を浮かべている。そうだろうな。鈴音の剣には一切の戸惑いがない。切るべき場所を彼女は切るから。逆に千夏の太刀筋は徐々にぶれていく。その手に迷いが生まれていく。

「な、んで」

「千夏。私、千夏と、紅様と、響と一緒にいた毎日楽しかったの。だから――きちんと今度は話さないとって思ってたの」

「何を」

「……ごめんね、私やっぱり、自分勝手みたい」


 千夏が驚いてと同時に鈴音は勢いよく踏み込んだ。振り下ろそうとした千夏の大剣を鈴音は刀で吹き飛ばした。地面に落ちた刀。鈴音の白い腕が千夏を抱擁する。

「死なないで、よかった」

 息を吸うように彼女がささやいた言葉はもう誰のものでもない。憎しみも、恨みもない。きちんと姉弟子を見て、姉弟子のために紡がれた言葉だ。

「寂しかったよ……」

 涙がこぼれ落ちる。鈴音の鼻声に何をされるかと身を固くしていた千夏も思わず吹き出した。

「なんだそれ」

「だってぇ、みんな、どこかいくから、ひとりで私、ずっと待ってたんだよお……」

 泣きながらそう言う鈴音に千夏は今度こそ、笑った。

「お前、ほんとばかだな。お前だって、どっか行けば良かったのに」

「だってぇ……」

 鼻をすすりながら鈴音は、恥も外聞もなくメソメソとまだ泣いている。それだけで、千夏は全部どうでも良くなった。

「――ただいま戻った」

「うん、お帰り。千夏」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る