第3話

私に友人と呼べるような人はいない。転校前だっていなかった。だから一人は全然苦ではない。むしろ放っておいて欲しい。

 お姉さんは校内では有名人で、皆がうやうやしく彼女に対する。その巻き添えで、私まで同じ扱いだった。

 私は学校では腹違いの妹ではなく、病気で離れた土地で療養していた実の妹ということになっている。実際に半分は同じ血なのだから実の妹ではあるが。

 授業中も休み時間も退屈で仕方なかった。当然だけど、学校に千夏さんはいない。迎えに来てくれるので会えるけど、それまでの時間が異様に長く感じる。

 学校なんてどうでもよかった。ここに私を満たすものは何一つとしてないのだから。

 ようやく訪れた帰りのホームルームを終えて、私は急いで駐車場へ向かった。

 ちなみにお姉さんは行きも帰りも友人と一緒ということで、車では帰らない。

 だから車では千夏さんと二人きり。

私は見慣れた車を見つけて近寄ると、運転席の窓をコツコツと叩いた。

 ドアを開けると私は千夏ちなつさんに飛び付いてハグをする。

花奈かなさん⋯。それは夜、寝る前だけじゃなかったのですか」

 声が呆れていたけど、優しく受け止めてくれる。

「千夏さんにしてもらうのは寝る前で、私からするのは⋯⋯私の気分でいつでもって言ったら怒りますか?」

「怒ったりはしませんよ。花奈さんがお好きなようにしてくださって構いません。今日は真っ直ぐ帰りますか? 寄りたい所がありましたら寄りますが」

「ん〜⋯家に帰ります!」

「承知しました。⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

「花奈さん、離れてくださらないとお家に帰れませんよ」

「⋯⋯はい」

 私は仕方なく千夏さんから離れて、助手席に収まった。

 夜のハグが日課になると、私も慣れてしまったのか平気で千夏さんに抱きつけるようになってしまった。千夏さんも嫌な顔一つせずに受け入れてくれる。それで益々私は調子に乗る。

 好きな人に甘えられるチャンスがあるなら無駄になんかできない。

 

 

 

 夜が訪れ、部屋に千夏さんがやって来る。お願いしている通り、私を抱きしめてくれる。最初の頃はどきどきしたけれど、今ではそれと同じくらい安らぎも得ている。千夏さんの香りは私を安堵させた。

「あの、千夏さん⋯⋯」

「何でしょう」

「こんなこと毎晩させられて、嫌になったりしてないですか。仕事辞めたくなったりしてないですよね⋯?」

 それだけは不安だった。仕事としてだとしても、雇い主の娘とこんなことをして嫌気が差してないかは心配だった。

「花奈さんは心配症ですね。私も少し楽しみにしてるんですよ」

「⋯⋯千夏さんも?」

「人のぬくもりに触れられるっていいなって思ってます。上手く言えませんけど、優しい気持ちになれると言うか。そんな感じなんです」

 千夏さんは包み込むような温かな微笑みを私に見せてくれる。この人が私のことだけを見ていてくれたら、どんなに幸せだろう。千夏さんを自分のものにしたいという欲望が日に日に育っている。

「千夏さん、私が眠るまで隣りにいて欲しいんですけど⋯⋯」

 無茶なこと言っているのは自覚している。でも千夏さんなら聞いてくれる、そんな期待感があった。

「⋯⋯寂しいんですか?」

 千夏さんは悲しげに眉をよせる。

私は寂しい子だと思われている。今はそれでいい。

「はい」

(貴女が側にいないと⋯⋯)

「花奈さんが眠るまで一緒にいましょう」

「ありがとうございます!」

 私を抱きしめる腕が強くなる。

(これが仕事でなければいいのに)

願いが次々に叶ってしまって、このままでは私は我儘を尽くす人間になってしまうかもしれない。

 私はその日の夜、幸福感でふわふわしたまま、千夏さんとベッドに入った。

 目が覚めたのは時計が深夜三時を指す頃だった。部屋の中は静まり返って、秒針の音がいやに大きく聞こえる。

 それ以上に私の耳元には穏やかな吐息が届いていた。

 千夏さんが私を抱きしめたまま眠っている。

(私が眠るまでじゃ⋯⋯)

 トイレに行きたいけれど、千夏さんの腕を振り解いて抜け出すなんて、もったいないが過ぎる。

 どうして千夏さんがまだいるのかは分からないけれど、寝落ちしてしまったのかもしれない。私にとってはラッキーな展開だ。

(どうしよう)

 起こさないようにベッドから出るしかないけど、千夏さんが余程深い眠りに就いているか、鈍感でもなければ無理な話だ。

「千夏さん⋯」 

 私は彼女の頬に静かに手を伸ばした。指先に柔らかな頬の感触。

 触れてしまったせいか、目の前にある千夏さんの目が開く。まだはっきり覚醒はしていなさそうな、眠たそうな目が私を見つめている。

里穂子りほこさん⋯⋯」 

「⋯⋯⋯⋯!?」

 千夏さんは何故か私の母の名前を口にした。   

 

                

「花奈さんが眠った後、自分の部屋に戻ろうと思っていたのですが、私も眠ってしまったみたいで⋯」

 翌朝、隣りで目を覚ました千夏さんは起き上がって頭をかかえている。

 とんでもない失態をしたと思っているようだった。

「私は朝も千夏さんがいてくれてほっとしましたよ」 

 しかし私は深夜に千夏さんが母の名前を出したことが気になって仕方がない。

 たまたま母と同じ名前が出たということはないだろう。千夏さんは父から母のことを聞いたのだろうか。私が寂しがり屋だと思っているようだし、その辺りのことを父に相談した可能性もなくはない。

 だが使用人である千夏さんがそこまでするだろうか。

 新たなモヤモヤが私の中で膨らんでいく。

「千夏さんは私の母についてどこまで知ってるんですか?」

 私は思い切って聞くことにした。

 寝起きにいきなり聞いたせいで、千夏さんはきょとんとしている。いつも凛とした佇まいの千夏さんが見せるそんな表情もたまらなく愛おしい。が今はそれどころではない。

「花奈さんのお母様について、ですか? 申し訳ありませんが私は全く存じ上げません」

「本当にですか?」

「はい」

「それでは山崎里穂子は知ってますか? 今は再婚して違う名字になってますけど」

「⋯⋯⋯! 花奈さんのお母様が里穂子さん⋯?」

「そうです。昨日の夜、口にしてましたよね。母の名前。千夏さんは覚えてないかもしれないですけど」

 千夏さんは落ち着いた表情を崩さないけど、どことなく狼狽しているのが伝わってきた。

「母のことを何故知っているんですか?」

「⋯⋯里穂子さんは前の職場の先輩でした。高校を卒業してすぐ就職した会社で、事務の仕事をしていて、新人の時に里穂子さんに色々とお世話になりました」

 確かに母は私が小学生の頃は事務の仕事をしていた覚えがある。

「こんな偶然あるんですね。母と千夏さんが顔見知りだとは驚きました」

「ええ⋯⋯」

 私よりも千夏さんの方が驚いているようだけど。

「あの人、適当だし無駄に明るいし、でも男のことしか頭にないしでろくな先輩じゃなかったですよね? 千夏さんが迷惑かけられてないといいんですけど⋯⋯」

 母が傍若無人な振る舞いをしてないことを祈るしかない。

「⋯⋯里穂子さんは優しい方でしたよ。気さくで分からないことは何でも教えてくれて。私がミスしても大丈夫って笑顔で対処してくださいました」

 千夏さんが遠い目で過去を振り返る。とても懐かしそうに。

「お局様に目をつけられて意地悪された時も助けてくれて、庇ってくれたんです」

「あの人、気が強いですから。敵だと思ったら誰彼構わず突っ込むんですよね」

「私にはすごく頼もしい方でした。⋯⋯ずっと憧れでした、里穂子さん」

「⋯⋯⋯⋯」

 初めて見る千夏さんの顔だった。とても大切な人を想うような、切なそうで愛おしそうな顔。

(私には見せてくれなかった顔だ) 

 悔しい。悔しかった。千夏さんに特別な顔をさせたのは私ではなく母だったから。

私は父に似ているせいか面立ちは母とは似てない。ただ後ろ姿や声はよく似ていると言われる。

(千夏さんが私に優しいのは仕事じゃなくて、私に憧れていた母の面影を見たから?)

「あの、千夏さん。母は千夏さんのこと何て呼んでましたか?」

「呼び方ですか? 千夏ちゃんと呼んでくれていましたけど」

 何でそんなことを聞くのかと言いたそうだった。

 私は千夏さんを抱き寄せるよといつもより高めで明るい声で口を開いた。

「千夏ちゃん!」

 明らかに千夏さんが動揺したのが気配で伝わる。

 母の声真似など私には簡単にできる。

「こんな感じでした?」

「⋯⋯⋯⋯」

 私は追い打ちをかけた。

「愛してるよ、千夏ちゃん」

(何でそんな泣きそうな顔するの)

 自分でやっておいて私は後悔していた。

 きっと千夏さんは母のことが好きだったんじゃないかと思ったけれど、間違ってなかったらしい。朝から嫌なことを知ってしまった。

「私、顔洗って来ますね」

 千夏さんを置いて私は部屋を出た。

 

 

 朝起きた時は曇り空だったのに、登校時間になる頃には土砂降りの雨へと変わっていた。

 七月に入っても梅雨はまだ続いている。

 私が千夏さんと玄関まで向かうと、灯花とうかお姉さんが使用人の近藤こんどうさんに怒っている所に遭遇した。近藤さんは千夏さんよりベテランで、灯花お姉さんのお世話をしている。ベテランだけあって何も言わなくても灯花お姉さんが何をして欲しいのか分かる人だった。しかし今日は意志の疎通が上手くいっていないらしい。

「灯花さん、今日はお送りしますからお車で行きましょう」

「何度言ったら分かるんですか!? 私はお友だちと一緒に学校へ行きたいのです。もう車では行かないと以前もお伝えしましたよね!?」

「雨風も強いですし、今日だけでも⋯。灯花さんがお風邪を引かれたら⋯」

「こんなことで風邪なんて引きません! 雨であろうが雪であろうが、私は歩いて学校へ行きますのでお構いなく!」 

「ですが⋯」

「近藤さん、私の命令が聞けないのですか?」

 そう言った途端に近藤さんはたじろいでしまった。  

 その隙に灯花お姉さんは引き戸を叩きつけるように締めると傘を差して家を出てしまった。

「どうしましょう⋯」

 近藤さんは困り果てている。

 私はいつも徒歩十五分の距離にある高校へ千夏さんに送迎してもらっているけど、お姉さんは徒歩で通っている。私と違って一緒に登校する友人がいるからだ。

「花奈さん、何とかならないでしょうか」

 私に助けを求められてしまった。

 無下に断るわけにもいかないので、私はお姉さんを説得するために傘を差して後を追う。まだ門の所にいたので私は呼び止めた。

「お姉さん、こんな雨の中を本当に歩いて行くんですか?」

「待っている方がいるので」

「今日だけは車にしたらどうですか? 学校に着く前に濡れ鼠になってしまいますよ」

 既に靴が雨水に侵食されつつある。

「花奈さんはいいですよね。大好きな千夏さんと学校へ行けるのですから。私がいたら邪魔でしょう?」

「そんなことないです」

 言ったことはないのに、お姉さんには私の気持ちがバレているような気がする。

「小学生じゃないのですから、これくらい何でもありません。放っておいてください」

 お姉さんは土砂降りの中に走り出してしまった。誰が説得しても無駄だろう。私は諦めて玄関へと戻った。

 

 雨の街中を車窓から眺める。

 私はいつもと同じく千夏さんの車で登校する。怠け者な私は天気が良くても歩きたくないし、何より隣りに大好きな人がいるのだから、やめる理由がない。

 学校のすぐ側にある寮の前に差し掛かる。寮の入口近くに壊れた傘を持って立っているお姉さんを見つけた。

「千夏さん、あれ⋯」

「灯花さんですね」

「乗せた方がいいんじゃないでしょうか」

 話していると寮から黒い傘を差した人がやって来てお姉さんの腕を掴むと、寮の方へと戻って行った。

 傘の人はお姉さんとよくいる先輩の方だろう。ちょっと不良っぽくて私には近寄りがたい感じの人だった。

「大丈夫そうですね。ご友人の方にお任せしましょう」

 千夏さんが言うので私もそうすることにした。  

 学校に到着する頃に雨足は急速に弱くなっていた。だが今日は一日中雨らしい。

「千夏さん、帰りは歩いて帰るので迎えは要りません」

 一体どんな反応をするのだろうかと、私はいたずら心で言ってみた。 

「花奈さん、灯花さんの真似ですか」

「さぁ、どうでしょう。歩くのも悪くないかなって」

「駄目です。迎えに来ます。午後はまた雨足が強くなるそうですから。一人で帰らないでくださいね」

 釘を刺されてしまった。

「分かりました。千夏さんと帰ります。送ってくれてありがとうございました」

 私は礼を伝えて車を降りた。

 

 

 放課後は昇降口を出ると真っ直ぐ駐車場に向かい、千夏さんの車に乗る。

 彼女が言った通り、また雨は強くなっていた。

「花奈さん今日は飛び付いて来ないんですね」

 からかうように言われる。

「この雨の中でやったら私も千夏さんも、びしゃびしゃになっちゃいますよ」

 運転席にいる千夏さんに抱きつくのはやめて、おとなしく助手席に乗ったのに煽るようなことは言わないでほしい。それでなくても、母の件で私はまだモヤモヤしているのだ。

「この状態なら大丈夫じゃないですか?」

 どうしたものか千夏さんから誘ってきた。確かに二人が車内にいれば雨に濡れることはないけど。  

(仕事として言ってるのかな。それとも私が山崎里穂子の娘だから?)

 けしかけて来るならやらない理由はない。

 私は助手席から乗り出して千夏さんに触れようとした。左手首を掴まれる。

「花奈さん、ここにほくろあるんですね」

 私の左手首の内側にあるを親指で押さえられる。

「私も同じところにあるんですよ」

「えっ⋯⋯?」

 千夏さんは私の腕を離すと、自身の左手首にしていた腕時計を外した。

 そこには私と同じようにほくろがあった。

「お揃いですね」と千夏さんは言う。

(何でそんなことを⋯⋯?)

 母のことがなければ素直に喜べたのかもしれないけど、私は複雑な気分のままだった。    

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