第2話
あれは梅雨に入ったばかりの頃だった。
あまり体調がすぐれないまま学校へ行き、授業中に具合が悪くなった。
私はすぐさま保健室へ連れて行かれて、ベッドに横になっていた。程なくして
「このまま病院へ行きましょう」
私は彼女に支えられ保健室を後にし、千夏さんが運転する車に乗った。
助手席でぐったりしていると、千夏さんが私のおでこと首元を触る。冷たい手の感触が心地よい。
「熱いですね。熱もあるようなので風邪かもしれませんね」
確認すると千夏さんの手はすぐに離れてしまった。それを名残惜しいと思う。
具合が悪いせいなのか、やけに人恋しくなっていた。今まで誰も甘えさせてくれなかったせいで、こんな風に気遣われただけで相手を切望してしまう。
(熱で頭がおかしいのかも)
そう思うことにして、千夏さんにもっと触れられたいという気持ちを振り払った。
病院に着くと受付での手続きも全部千夏さんがしてくれた。待合室で待っている間も側にいてくれる。
ここに越して来るまで、病院なんて一人で行くものだったのに。
診察を終えると私は車の中で待っているように言われて、薬も千夏さんが取りに行ってくれた。
何ですごいわけでもなんでもない、ただの高校生の私なんかにこんなにしてくれるのだろう。普段あまり考えないことまで熱のせいなのか考えてしまう。千夏さんはただ仕事をしている、それだけなのに特別な意味があったらいいなと期待している。
(私、やっぱどうかしてるな)
目をつむって何も考えないことにした。
そして私は家に着く前に眠ってしまった。
「
千夏さんの声で目が覚める。
「⋯⋯⋯ん」
「お体が辛いのに起こしてしまって申し訳ありません」
私は千夏さんが差し出してくれた手を取り、助手席から降りる。しかし体がふらついて倒れそうになってしまい、千夏さんの胸の中に飛び込む形になってしまった。けしてわざとではなかったけれど、私はどさくさに紛れて千夏さんに抱きついた。
誰かに甘えたいという気持ちが熱で増殖している。
「大丈夫ですよ、花奈さん。きっとすぐよくなりますから」
千夏さんは私が風邪で不安になっていると解釈したようだった。突き放されることもなく、ぎゅっと抱きしめてくれる。
それがとても気持ちよくて、できるならずっとこうしていたかった。
玄関先で抱き合い続けるわけにもいかず、私は千夏さんに支えられながら自室へと戻った。
「花奈さん、パジャマはこれでいいですか?」
千夏さんは洗いたてのパジャマを取り出す。私が頷くと千夏さんは部屋を出て行こうとした。
「あの千夏さん⋯⋯着替えさせて欲しいんですけど、いいですか?」
自分で着替えられないほど弱ってはないけれど、一度甘えたいと思った感情は簡単に引き下がってくれそうもない。
「お手伝いいたします」
千夏さんに着替えさせてもらうという、とても贅沢なことをしてしまった。
「花奈さん、ご飯の支度してきますね。食べられそうですか?」
「⋯⋯少しは」
「承知しました。後でお持ちします」
私は彼女の去ったドアをいつまでも見ていた。
風邪も治り、気づけば六月も半ばに差しかかった。
私は
「お姉さん、千夏さんにお願いしてはいけないことはあるのでしょうか?」
前から聞きたかったことを聞いてみた。
近くに千夏さんがいないことは確認済みだ。
「千夏さんができることでしたら大丈夫だと思いますよ。でもどうしてそんなことを?」
「⋯⋯一応聞いてみただけです。⋯⋯⋯た、例えば、一緒に遊園地に行って欲しいってお願いしてもいいんでしょうか?」
「花奈さんは千夏さんとお出かけしたかったんですね。千夏さんの了承が得られれば構いませんよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「いいえ。花奈さんは千夏さんのことが"好き"なんですね」
何となく含みがあるように感じたが、私は確かに千夏さんが"好き"なので、どう返答していいのか迷った。
「⋯⋯頼りにしてます」
と当たり障りのない言い方になった。
「千夏さんは優秀ですからね。頼りになりますもの。⋯⋯⋯ごめんなさい、ちょっとメールをしなくてはいけないので失礼しますね」
灯花お姉さんは着信音を鳴らすスマホを手にいそいそと居間を出て行った。
実際に千夏さんを遊園地に誘いたと思ったわけではない。そもそもそんな場所に遊びに行ったことがないので、どうしていいのか分からない。けれど、近くのショッピングモールくらいは出かけてみたいとささやかな望みはある。使用人と雇い主の娘ではなく、家族みたいな、友だちみたいな感じで。そんな雰囲気になる可能性は限りなく低いと分かってはいるけど。
玄関の方から誰かが戻って来た音がするので、私は急いで向かった。買い出しに行っていた千夏さんのはずだ。
「千夏さん、おかえりなさい」
予想通りの人がいた。
「ただいま戻りました。花奈さんがおっしゃっていたお菓子ありましたよ」
袋から私が食べたいとお願いした桃のグミとバタークッキーを渡してくれた。
「ありがとうございます!」
「お茶入れましょうか?」
「はい、お願いします。良かったら千夏さんも一緒に食べませんか? 甘いもの嫌いですか?」
「よろしいんですか? 私も甘いものは好きですよ」
千夏さんが普段あまり見せてくれない柔らかな笑顔を浮かべたので、私は嬉しくなった。私でも千夏さんを笑顔にできるのかと思うと、じわじわと喜びが溢れて来る。
私は居間のソファに千夏さんと並んで座り、彼女が淹れてくれた紅茶でお菓子をいただく。
「千夏さんの好きなお菓子って何ですか?」
「好きなお菓子ですか。割と何でも好きですよ。甘いのもしょっぱいのも。洋菓子でも和菓子でも好きですね」
「それじゃ、好きなケーキはありますか? ケーキもよく食べるんですか?」
「たまにいただきますね」
他愛もない話が進むのも楽しい。
「私、レアチーズケーキが好きなんです。千夏さんは?」
「奇遇ですね。私もレアチーズケーキが一番好きです」
「本当ですか!? あの⋯⋯私に気を遣ってますか?」
「いえ、花奈さんに合わせてるわけではありませんよ。私も好きなんです」
「今度、ケーキが美味しいお店に一緒に行きませんか? 私この辺りのこと詳しくないですけど⋯」
「花奈さんがお望みでしたら私はいつでも歓迎ですよ」
適当に振ったケーキの話から、一緒に食べに行く誘いまで出来てしまった。
後で灯花お姉さんにおすすめのお店を聞いてみよう。
「あの、私、新しい服欲しいなって思ってて。それで今度の日曜日に買いに行きたいんですけど、千夏さんに来てほしくて⋯⋯。お願いしてもいいですか?」
「はい。もちろん」
千夏さんと一緒に出かけられる。
心の中に一気に光が差した。
(嬉しい⋯! すっごく楽しみ!!)
私はすっかり舞い上がっていた。
日曜日になり、私は千夏さんが運転する車に乗って市外のショッピングモールへとやって来た。
私にとっては特別な日曜日なので、手持ちで一番可愛い服を選んだ。千夏さんは基本的にスーツが多いけど、今日はお願いして私服にしてもらった。黒いデニムのパンツに白いシャツという、普段と雰囲気は変わらなかったけど、千夏さんのすらりとした体型を引き立てていてかっこいい。
(こんな素敵な人の隣りにいられるんだ⋯⋯)
すれ違う人々に自慢したい気分だ。
私たちはまず洋服売り場へ向かった。今日の目的は表向きは服を買うことだから。
取り敢えず私は自分の好みの服をいくつか選ぶ。手に取るのが黒とか白とか灰色の無彩色になってしまう。無意識に千夏さんっぽい配色を選んでいる。
(憧れの人みたいになりたいって思ってるのかも)
「千夏さん、どれがいいと思いますか? 自分では決められなくて⋯⋯」
「花奈さんは落ち着いた色がお好きなんですね」
「⋯⋯そうですね」
(千夏さんの真似をしたいだけなんて知ったら引かれるかなぁ)
「こういうのも似合うと思いますけど、花奈さんの好みではないでしょうか」
売り場に置かれたピンクベージュのワンピースを着たマネキンを指す。腰の所にリボンがついている。
「⋯⋯可愛いですけど、私には似合わないと思います。灯花お姉さんなら似合いそうですけど」
ピンクや水色のようなパステルカラーの服は持っていない。
「花奈さんにも似合うと思いますよ」
千夏さんはマネキンが着ているものと同じワンピースを持って来て私に宛てがう。そして私の体を近くにある鏡へと向き直す。
「ほら、すごく可愛い」
自分らしくない服を宛てがわれて気恥ずかしい。だけど、千夏さんは可愛いと言ってくれる。
「⋯⋯に、似合ってますか?」
「とても」
千夏さんは満面の笑み。
(似合うって思ってくれてるなら、着てみようかな)
私は迷っていた。多分友人と来て似合うと言われても買わない。友人自体いないけども。でも大好きな人が言ってくれるなら、ありな気がしてしまうのだから私は単純だ。
「⋯⋯たまにはワンピースもいいかも」
結局私は千夏さんが似合うと言ってくれた服を買ってしまった。
次に私たちは本屋へ来た。
「千夏さんは本は好きですか?」
「はい。好きですよ」
「それなら千夏さんも好きな所見て来てください。ただ待ってても退屈だと思うので。私、参考書見てきますね」
私は広い本屋のフロアの奥へと進む。
(千夏さんはどんな本を読むんだろう)
そんなことを考えながら目的地へたどり着く。灯花お姉さんにおすすめされた参考書を探す。
(あった!)
しかし、私では微妙に届かなそうな位置に鎮座していた。辺りを見回して脚立や台座を探してみるが置いていない。
(店員さんに頼まないと無理かな)
私は背伸びをしてめいっぱい手を伸ばすが、あとちょっとで届かない。
(せめてもう一段下の棚にあったら届いたのに)
もう一度つま先立ちして手を伸ばすと、誰かが私の肩に手を置き、白く長い指が私が取りたかった本を棚から引き出した。
「花奈さんが取ろうとしていた本はこちらの本で合っていますか」
すぐ真後ろに千夏さんがいた。
背中に気配を感じるくらい近くにいる。
(何かドラマのシチュエーションみたい)
胸がどきどきとしてくる。
「花奈さん?」
「⋯あっ、はい。これです」
私は本を受け取り、振り返った。
そこには涼し気な顔をしたいつもの千夏さんが立っている。
もしかして千夏さんに一部始終見られていのだろうか。だとしたら間抜けな姿を晒してしまった。
「千夏さんは、欲しい本なかったですか?」
「仕事中ですから」
と言われて私は胸が苦しくなった。私は浮かれていたけど、千夏さんからしたら私と出かけるのは仕事だ。
(仕事じゃなかったら千夏さんみたいな大人が私なんかと出かけたりしないよね)
分かっていたはずなのに、一体何を私は期待していたんだろう。
「あの、千夏さんも欲しいものがあったら買い物して大丈夫です。そっちの方が私も気が楽というか⋯⋯。何だか千夏さんを振り回してるみたいで申し訳ないので⋯⋯」
「そんなこと気になさらないでください。私は花奈さんに振り回されてるなんて少しも思っていないですよ。こうして出かけるのも息抜きになって楽しいですから」
私の苦しい気持ちが顔に出ていたのか、千夏さんは穏やかな笑みを向けて、不安を取り除くみたいにそっと私の頭を撫でてくれる。
(千夏さん優しいな。でも優しいのも仕事、だからだよね)
優しくされればされるほど、私は悲しい気持ちになるのではないかと懸念を抱く。千夏さんに優しくされたいのに。
「花奈さん、そんなに悲しそうな顔なさらないでください。私は花奈さんといて楽しいですから」
「はい」
取り敢えず今は深く考えるのはやめよう。考えても泥沼にはまるだけだ。
「千夏さんが好きな本を知りたいです! 教えてくれませんか? あの、大人の女の人がどんな本を読むのか興味があって⋯⋯」
「小説しか読まないのですが、それでもいいですか?」
「私も小説好きなので、是非!」
私たちは小説コーナーへと場所を移した。
千夏さんはジャンル関係なく気が向けば何でも読むのだという。
「特に好きなのはこれですね」
一冊の文庫本を手に取った。
タイトルを見ただけでは何の話か分からない。表紙と合わせて見るに何となく恋愛ものっぽい気がする。
「恋愛もの、ですか?」
「ええ。そうです。恋愛と言っても女性同士のお話なんですけどね」
「女性同士⋯⋯」
「ごめんなさい。花奈さんには受け付けなかったかしら」
「全然そんなことないです! どんなお話なんですか?」
「主人公の女性が、高校時代にバイト先の先輩に片想いしていた人と大人になって再会して、また恋をして別れる話です。切ないんですけど、何回も読みたくなるんです」
私は千夏さんが好きだ。間違いなく恋愛の意味の好き。自分でもどうしたいのか、どうなりたいのかまでは考えていなかった。千夏さんが好きだけど恋人同士になれるかと言ったら無理だと思う。立場や性別や年の差がそれは叶わないと言っている。
(千夏さんは女性同士の恋愛ものが好きなら少しは望みがあるのかな)
それはこの恋が叶う可能性が零パーセントから三パーセントになったくらいの微々たるものではあるけれど、零よりはマシだ。
「私も読んでみたくなりました」
参考書とその恋愛小説を手に私はレジへ向かった。
家に戻った私は千夏さんが淹れてくれたミルクティーを片手に、今日買った小説を読んでいた。
恋愛小説は滅多に読まないけれど、私はストーリーに引き込まれてどんどん読み進めて行く。軽く少しずつ読むつもりだったのに、中編小説だったせいか一気に読み切ってしまった。
話の概要は千夏さんの説明してくれた通りだったけど、この話の肝は二人が生き別れの姉妹だったことだ。
初めは片想いだった主人公が大人なり、意中の相手と思わぬ形で再会する。
そして勢い余って告白してしまうが、二人は付き合うことになり幸せな時を過ごした。だけど、実はその二人が生き別れの姉妹だったことが判明し、恋が終る。
お互い好きでも立場のせいで恋はなくなってしまうのだと思うと、私の心もモヤモヤしてくる。
(姉妹に比べたら使用人と雇い主の娘の方がハードルは低いよね)
物語と現実なのだから比較しても意味はないけれど。
(私と灯花お姉さんが恋するみたいなものか)
灯花お姉さんは半分血が繋がってるとは思えないくらい綺麗な顔立ちで、振る舞いも優美だけど、恋愛感情は微塵も湧いて来ない。姉妹じゃなかったとしても好きにはなっていなかったと思う。同じ家で暮らしているけど、何となくお姉さんとは住む世界が違う感じがした。
(私はやっぱり千夏さんがいいな。千夏さんが好き)
彼女のことを考えるだけで胸の中が幸福と切なさで溢れ返る。こんな感情はお姉さんにも他の人にも持たない。千夏さんだけ。
(もっと、もっと千夏さんの側にいたい)
夜になり、私はいつもより早めに寝る支度をする。
控えめにドアがノックされ、千夏さんがアイロンをかけた制服を持って来てくれた。
何故かその時に私はお姉さんの言葉が脳裏を過ぎる。
『千夏さんができることでしたら大丈夫だと思いますよ』
私は千夏さんがハンガーに制服を吊るしている後ろ姿を見ながら、お願いしたいことを言うか言うまいか逡巡していた。
部屋を去ろうとする千夏さんの腕を掴む。
「花奈さん⋯?」
「あの、お願いしたいことがあるんですけど」
「何でしょうか?」
「抱きしめてくれませんか?」
案の定、千夏さんはぽかんとした顔をして私を見ている。きっと「お茶を持って来て欲しい」とかそんなのを想像していたはずだ。
「構いませんけど、どうしてそれを私に頼むのか教えていただけますか?」
「千夏さんが好きだからです」とは当然言えないので
「⋯⋯何か寂しくて、このままだと眠れそうにないので。⋯⋯千夏さんはその、いつも私を助けてくれるので、抱きしめてもらうなら千夏さんがいいなって⋯⋯」
嘘ではないけど本音でもない理由で誤魔化すことにした。これで納得してくれるかは分からない。
「私でいいんですか?」
「はい。⋯⋯千夏さんがいいんです」
千夏さんは丁寧に私を抱き寄せると、強く抱きしめる。大好きな人の腕の中。
(どうしよう、すごく居心地がいい)
永遠にこのままでいたいくらいに、私の心は幸せで満たされる。
(これは千夏さんにとっては仕事だけど、いつか私のことを抱きしめたいって思うくらいに愛しい存在になりたい)
我儘というのは一回でも通ってしまったらダメなのだろう。私は何度でもこのお願いを千夏さんに頼んでしまいたくなっている。
この夜から私は毎晩、寝る前に千夏さんに抱きしめてもらうのが日課になってしまった。
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