桜の木の下で

白井香

桜の木の下で

―暖かな日差しだった。心の中までもを柔らかくしてくれるような暖かさに、誰もが優しくならずにはいられない、そんな穏やかな午後だった。いつもよりひと月ほど早く咲き始めた桜の花びらが、野点の茶席あちらこちらに舞っていた。

「お菓子をどうぞ。」

主菓子を運んできた家来が、菓子器を目の前に静かに置くとゆっくりと一礼した。裕信もゆっくりと礼を返した。手漉きの和紙で作られた菓子器の上には、白い粉が薄くまぶされた黒い菓子があった。

「悠介殿、お先に頂戴致す。」

裕信はそう言って、菓子器を静かに押し頂き、懐から懐紙を取り出して、その菓子を取った。黒い菓子の上には金粉が乗っている。おそらく牛肥であろう柔らかな質感を感じさせる菓子を、黒文字で二つに切り、ゆっくりと口に入れた。柔らかな皮の食感の後からずんだ豆の風味と甘さが口の中に広がった。

「裕信殿、お味はどうじゃ。」

目の前に座っている磯部悠介が、裕信の表情を眺めながらゆったりとした口調で聞いた。

「いや、これは大変美味。どちらでこれを。」

「これは法華経寺近くの戸村という菓子屋のもの。昔光が貰ってきたので食べてみたところ、なんとも美味だったゆえ今日のために作らせたのじゃ。のう、光。」

満足気にそう言う悠介の言葉に、点前をしていた光姫がゆっくりと頷いた。丁度茶杓を右手に握りこみ、抹茶の入った茶器を左手で取ろうとしているところだった。そのゆったりとした所作はなんとも優雅で美しい。裕信も悠介も無言で光姫の所作を見つめた。茶器の蓋を開け、茶碗に茶杓で二杓半、茶をすくって入れる。茶杓を一つ、茶碗の見込み部分で打つと、懐中している袱紗で茶器の口をマの字に清め、蓋を閉めて元の場所へ静かに置いた。湯返しをする湯の音もなんとも心地良かった。光姫が茶を点て始めた。シャカシャカと茶筅で茶をたてる心地よい音がする。茶が点ったところで、近くに控えていたお供の香代が、紅色の出し袱紗に茶碗を乗せて裕信の前に運んできた。茶碗を二度回して正面を裕信の方へ振り向けると、目の前に静かに茶碗を置き、一膝ずつさがって一礼した。裕信も一礼すると、茶碗を悠介の方へ少し寄せて

「悠介殿、お先に頂戴致す」

と一礼した。改めて茶碗を自分の居前に置き、右手で取り、左手を添えてゆっくりと押し頂いた。正面を一度左に回し、ひとくち口に含んだ。

―ふわり。柔らかくまろやかなお茶が口の中に広がった。

「大変、結構。」

裕信の言葉に光姫が静かに一礼した。二口目を飲むとお茶のほろ苦い甘みがさらに口の中に広がった。わずかに舌に残ったお菓子の甘さとお茶のほろ苦さが調和し、更にうまみが口一杯に広がる。裕信は最後のお茶を飲み干すと、飲み口を清めて茶碗の正面を元に戻した。蒔絵の細やかな筆使いが目に入った。美しい立雛が見事な蒔絵で茶碗の正面に描かれていた。

「悠介殿、この蒔絵もまた見事。目にも御馳走を頂戴致した」

「それは大変嬉しい言葉じゃ。この茶碗は金沢のもので、さすがに金の輝きが他の土地のものとは別格。この雛祭茶会の為に職人に作らせた金銀一双のうち、金のものじゃ。」

悠介は嬉しそうにそう言うと、少し目を細めて何かを思い出すように遠くを見つめた。

「友信殿がこの茶会をご覧になったら、なんと言われるかのう。」

茶席が一層静かになった。静まりかえった中、光姫が柄杓で水を汲む中水の音がゆっくりと響いた。その音を聞きながら、裕信はゆっくりと目を閉じた。

-あの日。ここにいる全ての者の運命が変わった。この暖かく穏やかな春の日をまた迎えられようとは誰が想像できたであろうか。



―ゴオォっというすさまじい音がして真っ赤な炎が噴き上がった。瞬く間に目の前の障子が焼け落ち、耐えがたい程の熱風が全身を包んだ。産毛までが逆立ち、ちりちりと皮膚が焼ける痛みが襲ってきた。蛇のようにのたうちまわる火が容赦なく周りの柱を巻き込んでいく。轟音の向こうで聞こえていた刀を交える音や家来達の雄けびは次第に聞こえなくなっていた。たった今部屋に駆け込んできた家来は、頭から血を流しながら友信に必死で告げた。

「友信様、黒川真兵衛がおよそ二千の兵を連れて、この屋敷を囲んでおります。早くお逃げ下されっ。」

そのままばったりと倒れて息絶えた。友信は悔しさのあまり、歯ぎしりをして、見えぬ敵を睨みつけた。

 黒川真兵衛。隣国、上畝国の黒川正長の長男。友信と己の父である正長が、互いの領土を攻める事はないと和平を結んだその場にも控えておったはず。先月その父が亡くなった途端、和平を破ってこの領地に攻め込んできおったか。その目つきから何とも油断ならん男とは感じたが、まさか寝込みを襲うような行動に出てくるとは、予想をはるかに超えた卑怯な男であった。このような男に大切な家来達が虫けらのように殺されていくとは。忍びをやって様子を見張らせておくべきであった。くそぅ、なんと甘かった事か。屋敷を囲まれたと分かった時、すぐ悠介に援軍の使いを出したものの、はたして援軍が来るまで持ちこたえられようか。友信は憤怒の形相で燃え盛る火を再び睨みつけた。その時、

「兄上、ご無事かっ。」

叫び声と共に、髪を振り乱した弟の裕信が飛び込んできた。寝起きで慌てたとみえて帷子のみを付けている。その無防備な肩には矢が二本深々と刺さり、白い寝衣は真っ赤な血で染まっていた。左の袖は焦げ付いてほとんど残っていなかった。

「裕信っ、お前肩の傷は大事ないのか。」

「たいした傷ではございませぬ。それより兄上、ご無事でしたか。」

「うむ。心配致すな。今、外はどうなっておるのじゃ。」

「火のついた矢が屋敷のあちこちに刺さり、焼け落ちるのはもはや時間の問題でございます。家来達もほとんどが討ち死に致しました。」

「くそぅ、真兵衛め。なんという卑怯な奴だ。」

「兄上、早くせねば、悠介殿が来られる前に皆死にますぞ。」

友信の両肩を力一杯ゆさぶりながら裕信が叫んだ。

「敵は大勢ゆえ、切っても切ってもきりがありませぬ。ここは姫を一番大事として、兄上は早く姫を連れてお逃げ下され。」

姫と聞いて友信ははっとして裕信と目を合わせた。突如、背後のふすまがものすごい音をたてて倒れてきた。続けてウワーという声と共に敵が刀を振りかざして飛びかかってきた。

「裕信っ。」

瞬時に友信は裕信を押しのけ、振りむきざまに腰の刀を抜いて、迫ってくる敵の腹めがけて突き出した。―ずぶり。重い手ごたえがあった。敵は刀を振りかざしたまま、目を大きく見開いて友信の目を睨みつけていた。その血走った鬼のような目を睨み返しながら、友信はさらに刀を深く突き刺した。うおお、唸るような声を発して、敵は目を見開いたままごろりと床に転げ、そのまま動かなくなった。友信はすぐに敵の体から刀を抜いた。友信に押されて畳に倒れこんだ裕信も、すぐに飛び起き友信に駆け寄った。一息吐いた途端、その後ろから再び敵の兵士が飛び込んできた。友信と裕信は敵を睨みつけながら、残された時間がもはや少ない事を悟った。この寝所にまで敵が入ってきたという事は更に奥の寝所が襲われるのも時間の問題だった。裕信が刀を構えて敵の正面に立ちはだかった。早く姫の所へ行けと体を張った合図だった。友信は反対側のふすまを蹴破り廊下へ飛び出すと、奥の寝所へ走った。

―何があっても、姫だけは助けねば。


まだ火が回っていない奥の寝所はしんと静まりかえりっていた。友信は一番奥のふすまを力任せに蹴破った。ばりばりという大きな音と共にふすまが破れ、部屋の中に散乱した。薄暗い部屋の隅には、怯えた表情の光姫と、短剣を握りしめて、姫を守るようにその前に立ちはだかる香代の姿があった。二人とも寝起きの白い衣の上に薄い上着を羽織り、細い紐で腰の辺りで縛っている。

「友信様っ。」

光姫と香代が同時に叫んだ。香代の後ろから光姫が転がるように友信に駆け寄ってきた。

「光姫、大事ないか」

「はいっ。ですが、あぁ、友信様、血が、血がっ。」

友信の衣を見て光姫が悲鳴を上げた。先程倒した敵の血がいつの間にか白い衣を真っ赤に染めていた。

「大事ない。心配するな」

「でも、こんなに血が出ております。」

「敵の血ゆえ心配するな。良いか、よく聞くのだ。今そなたの兄上に援軍を頼んでおる。間もなく到着するであろうから、心配いたすな。」

「はい。光は大丈夫でございます。」

光姫が友信の目を必死で見上げながら何度も頷いた。その目にはとめどなく涙があふれている。戦の多い世の中とはいえ、屋敷の中で慈しみながら育てられた光姫には、血を流す武将の姿など生まれて初めて目にするものであろう。

「本当にすまぬ。こんな恐ろしい事に姫を巻き込んでしまうとは。明日は和やかな茶会のはずであった。」

「いいえ。友信様のせいではございませぬ。」

光姫は首を横に振ったが、こんな戦の真っただ中にか弱いその身をおいてしまったことが悔やまれ、友信は胸が締め付けられそうだった。

「友信様、何があったのですか。」

冷静な口調で香代が聞いた。元は甲賀の出というだけあって、こんな時でも落ちついている。悠介が光姫の護衛にと信頼を置いている理由がよく分かった。

「香代、黒川真兵衛が攻めてきおったのじゃ。」

「なんと、黒川真兵衛が。信じられませぬ。先月磯部家とも新たな和平を結んだばかり。この高橋家を攻めるのは磯部家を攻めるのと同じ事、それが分からぬはずはございませぬ。」

「うむ。もはや和平など望んでおらぬのであろう。戦を始めるつもりに相違ない。」

「そんな馬鹿な。」

さすがの香代も驚いたように目を見開いた。


 この数年、近隣の国々は和平を結び、互いの国を攻め合う事はなくなっていた。戦が長く続き過ぎたせいでどの国でも民は疲れ果て、田や畑は荒れ、穀物は満足に取れなくなっていた。それはどの国にとっても死活問題となっており、それを回避すべく国々は暗黙の了解でしばらく和平を保っていた。それは黒川真兵衛の上畝国も同じはずであった。そんな時に和平を破ってこの国に攻め入ってくるなど血迷ったとしか考えられなかった。


その時、遠くから周りの全てをのみ込みながら近づいてくる大きな炎の音が聞こえてきた。かすかに帷子のガチャガチャこすれあう音も混じっている。友信は一瞬目を閉じて、そのかすかな音がこの寝所へ確実に近づいてくるのを感じた。おそらく敵は一人。この部屋に入って来た瞬間に切るしかあるまい。光姫の前で残酷な光景を見せたくはないが、それ以外に皆が生き延びる方法はない。

「光姫様、お下がり下さい」

香代が友信の様子に気付いて、光姫を友信から離し、自分の後ろに隠して短剣を構えた。友信も刀を持つ手に力を込めた。帷子の音が次第に大きくなってくる。友信はふすまの陰に身を隠して刀を上段に構えた。だが、

「兄上、光姫っ。」

という声と共に部屋に飛び込んできたのは、全身に傷を負った裕信だった。矢がささった肩の傷に加えて顔や足からも血が流れ出ていた。その刀はもう人を切る事が出来ないほどボロボロになっていて、刃先からは切り捨てた敵の血がしたたり落ちていた。

「裕信様、その傷は・・・。」

光姫がその姿を見て絶句した。裕信は光姫と香代の姿を見て、無事を確認したのか一瞬安堵の表情を浮かべた。だがすぐに友信の方に向き直ると肩をわし掴みにして叫んだ。

「兄上っ、どうしてまだこんな所にいるのです。早くせねば姫も死にますぞ。私がなんとか敵を食い止めます故、奥の隠し扉から早よう姫と共にお逃げくだされ。」

自分の身を犠牲にして必死に自分達を守ろうとする裕信の言葉とその形相が友信の心に深く突き刺さった。


―幼い頃は兄の友信の後を必死でついて回り、一緒に太刀や乗馬の稽古をしたものだった。竹刀で殴られては泣き、落馬しては泣き、その度にいつも友信が背におぶって慰めてやったものだった。泣きながら友信の背で寝入っていたこともあった。そんな裕信がいつの間にか頼もしい武将に成長していた。いつも懸命に兄を支え、祭りごとの細かな事にも目を配ってくれていた。兄としてお前をここで死なせる訳にはいかぬ。友信は裕信の腕をグッと握り、その目をしっかり見据えた。

「裕信、良いか。お前が今から光姫を連れて隠し扉から逃げるのじゃ。」

「何を言われますか、兄上。光姫をお連れするのは兄上の役目でございます。」

予想外の言葉に、裕信が目を見開いて叫んだ。

「いや、当主であるわしが見当たらなければ、敵はいつまでもこの屋敷内を探し回るであろう。わしが出ていけば、目を反らせるかも知れん。お前達はその間に逃げるのじゃ。」

裕信は言葉が出ないまま首を横に振った。

「間もなく悠介殿の援軍が来るであろう。確かに光姫をお渡しするのじゃ。良いな。」

「友信様、嫌でございます。」

光姫がそう叫んで、突然友信の足にすがりついてきた。

「光を置いて行かないで下さいませ。友信様と一緒に、光も参ります。」

友信は光姫を押し戻そうとしたが、光姫は離れようとしない。引き離そうとしながら友信の脳裏に光姫と初めて出会った日の事がよみがえってきた。

 

―あれは四年前であったか。茶の湯仲間に誘われて悠介の自宅屋敷で開かれた茶会に行った事があった。そこで点前をしていたのが光姫であった。柄杓を左手に構え、静かに袱紗で釜の蓋を開け、ゆったりと湯を汲む所作の美しさに友信は目を奪われた。いや点前の美しさはもちろん、光姫自身のたたずまいの美しさが既に友信の心を奪っていた。

「高橋殿、どうじゃ。光姫の点前は美しかろう。兄のわしからみてもため息が出る様じゃ。」

「確かに素晴らしいお点前でござる。」

誇らしげな悠介の言葉に、友信は心の内を悟られぬよう努めて冷静に答えた。

「毎日熱心に稽古をしておる。光は体があまり強くないゆえ心配ごとも多いが、なんとか良い縁談をまとめてやりたいものじゃ。」

最強の武将として列国に恐れられている悠介であったが、たった一人の妹は心底可愛くてたまらない様子だった。年の近い友信と悠介はそれからもよく互いの屋敷を行き来しては戦い方や当主としての在り方について語り合い、その席には必ず光姫も同席していた。裕信を交えて三人で散々飲んで騒いだ時も、光姫はいつも穏やかに頬笑みながら杯に酒を注いでくれた。そして明日は、友信の屋敷で茶会を催す事になっていた。悠介からは光姫との縁談を考えてくれと言われており、友信は茶会の後で返事をするつもりだった。光姫は護衛の香代と共に、茶会の準備の為に一日早く友信の屋敷に来ていた。その夜、まさかこのような事態になるとは誰が想像できたであろうか。


 かろうじて残っていた廊下の柱がばちばちという轟音を立て崩れ始めた。狂ったように燃え唸る火が目前に迫っている。続けて遠くの方から甲冑と大勢の男の声が聞こえてきた。敵がこの奥の寝所に攻め入ってくる。もはや時間はない。友信は自分にしがみ付く光姫の両肩を掴むと、その大きな目をじっと見つめた。なんと美しい目であろうか。もはやこの美しい目を見る事はかなわぬ。そう思った瞬間、友信は思わずぐっと光姫の体を引き寄せ、しっかりと腕の中に抱いた。柔らかなその体が抗う事はなかった。―ほんのひと時、友信には時間が止まったように感じられた。もうそれで十分であった。おもむろに光姫のみぞおちに強い拳を打った。裕信と香代があっと声を挙げた。声もなく光姫は崩れ落ちた。友信はその体をゆっくりと抱き上げると裕信の両腕に預けた。

「いいな。お前に光姫を託したぞ。お前が光姫を好いておる事は知っておる。わしの代わりに守るのじゃ。頼んだぞ。」

「兄上っ。」

裕信が驚いて何か言いかけたが、友信はそれをさえぎって、香代に言った。

「香代、悠介殿に伝えてくれ。これからはこの裕信が高橋家の当主じゃ。光姫との縁談は裕信と進めてくれと。」

「友信様。」

香代は驚いた表情で友信を見つめた。だが揺るがない強い言葉と感じたのだろう。

「かしこまりました。確かに、悠介様に申し伝えまする。」

と大きく頷いた。

突如、バリバリとものすごい音がしてふすまが柱と共に突如炎に包まれた。強烈な熱風と共にあっという間に天井が炎に包まれた。

「早く行けっ。」

友信はそう叫ぶと、身を翻して廊下へ飛び出した。裕信が後ろで「兄上」と叫ぶ声がしたが轟音にかき消されてすぐに聞こえなくなった。目の前には鎧を身に付けた大勢の敵が刀を構えて立ちはだかっていた。


「ここにいたぞぉ。急げっ、首を取るのだ。」

先頭にいた兵士が、部屋から飛び出してきた友信の姿を見つけて大声で叫んだ。やはり当主である友信を血眼になって探していたに違いない。兵士達から大きな雄たけびが上がった。その数は軽く五十名以上、皆完全に武装している。寝起きの寝衣に刀を一本しか持たない友信に勝ち目はなかった。だが友信は一歩も引く気はなかった。一番大切なものを守れるのは、今ここにいる自分だけだという思いが体中の血をたぎらせていた。大声をあげて切りかかってきた兵の腹を一撃で切り裂いた。そのすぐ後ろから別の兵士達がじりじりと友信に迫ってくる。やあっと大きな声がして、また一人斬りかかってきた。その喉をすばやく横に切り裂いて、友信は敵が落とした刀を拾い、自分のボロボロの刀を放り捨てた。一瞬で味方がやられたのを間の辺りにした敵はひるみ、先頭の兵が後ずさりした。その時

「どけ。私がやる。」

後ろから大きな声がして、兵士達が割れ、一人の武将がその間から前へ進み出てきた。他の兵士よりも立派な装飾を施した甲冑を着たその武将に、友信は見覚えがあった。

「高橋殿、私がお相手致す。」

「有馬殿、何ゆえお主がここに。」

それは茶の湯仲間であったはずの有馬幸秀だった。最近はめったに会う機会もなかったのだが、まさか自分を襲うなどとは予想もしていない相手だった。

「高橋殿、何ゆえと言われたか。それは高橋殿には分かるまい。わが国はもはや穀物も取れず、滅びるしか道はないのじゃ。弱小のわが国などすぐに占領され無くなるのも時間の問題じゃ。今は黒川殿と手を組むしかないのじゃ。どうかお許しくだされ。」

幸秀を睨みつけながら友信が一歩踏み出したとき、後ろから大きな声がして、左肩に熱い火箸が刺さったような痛みが走った。不覚を取った。炎が回っている部屋に兵士が回り込んでいたか。くそぅ、このわしが油断するとは。友信はぐっと体を交わし、前のめりになった兵士の首を一撃で跳ねた。血しぶきを上げて兵士がどっと倒れた。首をはねられた仲間の姿に幸秀と兵士たちが一瞬ひるんだ。だが、数は力。友信はじりじりと前後を完全に囲まれた。くぅ、ここでやられる訳にはいかぬ。裕信と光姫、香代が逃げ切るまではわしが持ちこたえねば。友信が刀を握りなおしたその瞬間、強烈な痛みが体中を駆け巡った。背後から腰にかけて熱く重い何かがいくつも突き刺さった。うぅ、くそっ。友信がそう小さく唸ったと同時に、更に数本の刀が前から友信を貫いた。視界の端に見えた刀の切っ先に、赤黒い血がべっとりとついていた。気力とは裏腹に意識が遠のいていく。

「やったぞっ。」

敵が口々にそう叫びながら一斉に刀を抜いた。どっと友信の全身から血が噴き出した。よろめきながら、友信はかろうじて刀をぐっと床に突き刺した。ならぬ。まだだ。まだ倒れてはならぬ。わしが守らねば。ただその気力だけで刀を持つ手に最後の力を込めて友信は必死に体を支えた。敵を睨みつけて戦おうとしたが、意に反してがっくりと右ひざが折れた。それを見た敵がまた雄たけびをあげた。朦朧とする意識の中で、さらに大勢の敵が自分めがけて切りかかってくるのが見えた。次の瞬間、無数の刀が皮膚を切り裂き、突き刺し、貫通していくのを、鈍い痛みと熱さで感じながら、目の前の光景がかすれていくのを感じた。まだだ。まだだめだ。そう呟きながら体がどっと倒れた。

次第に暗くなっていく友信の瞼に浮かんだのは、初めて会った日の光姫の美しい横顔だった。


―「この日の為にこの茶碗をご用意くださったとは。それは誠にありがたい」

裕信は悠介の心遣いに心から感謝の礼を述べた。香代が空になった茶碗を下げに来た。茶碗を正面にして香代に返すと、裕信はしばらく光姫の点前を見つめた。

「今一服いかがでございましょうか。」

「大変おいしく頂戴した。今一服所望したい。」

裕信がそう言った時、不意におぎゃぁと泣き声がした。香代が赤い着物を着た赤子をあやしながら裕信のもとに連れてきた。

「裕信様、唯姫様が目を覚まされました。」

「おお、今母上は点前中ゆえ、父の所へ来るのじゃ」

裕信はそう言うと唯姫をしっかり腕に抱いた。絹の柔らかな産着の中で唯姫は寝起きの目をこする仕草をしている。

「唯、そなたの母上の点てた茶は誠に素晴らしい。お前も大きくなったらよく稽古するのじゃぞ」

「なんと気の早い父親じゃ。唯はまだ生まれたばかりというのに。先が思いやられるのう」

悠介が裕信の言葉に腹を抱えて大笑いした。光姫も点前の手を止めるとふわりと笑って言った。

「裕信様、唯にはまだまだお稽古は早すぎまする。」

「おおそうか、それもそうじゃな。」

思わず頭をかく裕信に、香代も周りの他の供達もつられて笑い、辺りは楽しげな笑い声に包まれた。その雰囲気を感じたのか、唯姫が裕信の腕の中できゃっっきゃっと声をあげて笑った。

「おお唯、嬉しいのか。父も嬉しいぞ。」

唯姫の無垢な笑顔に、裕信の顔にも思わず笑みがこぼれた。

「今日はお前の為の雛祭りの茶会じゃ。母上が特別に点前をしてくれた。お前は幸せ者じゃ。」

裕信は腕に抱いた小さな愛おしい命をぎゅっと抱きしめた。甘酸っぱいような甘いような赤子の臭いが胸一杯に広がった。桜の花びらがはらはらと舞い、幾枚かが裕信の肩や背にふわりと落ちてきた。暖かい日差しが、この場にいる全ての者を優しく包みこんでいた。


―雛祭りの茶会が終わり、裕信は光姫と唯姫が籠に乗ったのを見届けて、自分も籠に乗り込んだ。どれくらいたっただろうか。ふと気付くと、裕信の籠の中に桜の花びらが数枚落ちていた。

「兄上。」

裕信ははっとした。思わず、籠を止めて外に出た。そこは満開の桜の木が咲く河沿いの土手だった。はらはらと無数の花びらが舞い落ちる桜吹雪のその中で、裕信はそ目をそらすことができず、しばらく立ちつくした。後ろの籠に乗っていた光姫が、唯姫を抱いて、自分も籠からゆっくり降りてきた。そして静かに裕信の傍らに寄り添った。目の前には、淡い桃色の花びらが幾重にも折り重なり、長い長い敷物のようにずっと先まで続いている。裕信は光姫の腕から、眠っている唯姫をそっと抱きあげた。


―あの日、火に巻かれた寝所から敵前へ飛び出そうとする友信が、背を向けたまま、裕信にこう叫んだ。

「裕信、今度茶会をするときは野点にするぞ。光姫の好きな桜の木の下じゃ。良いな。」


「兄上、約束を果たしましたぞ。」

裕信は小さくつぶやくと、唯姫を優しく抱きなおし、桜の花びらの上をまたゆっくりと歩きだした。

                                    完

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