8:THE REAL UNDEADMAN

「———がはっ!」

 派手に背中と頭を打ち、床に倒れ込んだ。

 息が、できない、意識が、遠のきそうに———、

「う、うぇっ、おろ……げええっ……」

 さっき、せっかく呑み込んだ胃の中の酸っぱいものが、勢いよく口から溢れ出た。ビチャビチャと床に広がっていき、突いていた手にかかる。

「うええっ、げほっ、はあっ、はあっ……」

 ゲロを吐いたせいで無理矢理意識は保たれたが、頭は混乱したままだった。

 いつしか、YOUトピアでも同じように壁に叩きつけられたことがあったが、その時の比ではないほど、重苦しい痛みが身体に圧し掛かっている。あの時と違い、気絶はしなかったが、気絶した方がマシだ。身体が、動かせない、痛みが、全身に、でも、立ち上がらないと、サキナさんが———、

「ぐうっ……!」

 痛みを堪えて、よろよろと立ち上がった。口元を拭い、目をしばたたかせて、ぼやけたピントを合わせる。

「へえ、まだ立てるんだ」

 軽口をたたくアンデッドマンを見据える。首から上の包帯がすっかり取り去られて、顔が露わになっていた。

「……っ!」

 やはり、見間違いではなかった。

 髪の毛、眉、肌、眼が、アルビノのように白かったが、アンデッドマンの正体は、間違いなく合人だった。

「まあ、殺す気で蹴ってないんだけど」

 合人は無表情で言い放った。全身にミイラのように包帯を巻いていたが、腰にだけ黒い布をタオルのように巻いていた。

「……合人っ」

 絞り出すように名前を呼ぶと、

「何?」

 と、合人は答えた。

 それが何を意味しているのか、理解できないでいると、

「……久しぶりに話したね、あかる」

 と、合人は笑った。それは幾度なく見た、合人の笑顔だった。

 最早、疑いようが無かった。目の前の光景を受け入れるしかなかった。

 アンデッドマンが、合人だということを。

 でも、どうして、なぜ———。

「……何があったの?」

 混乱の末、ようやく口をついて出たのは、そんな間の抜けた――でも、ずっと言いたかった言葉だった。

「話すと長いんだけどさあ……」

 合人は僕の情緒に構うことも無く、ゆらゆらとこっちに近付いてきた。

「別に話す理由も無いし」

 丸腰のまま、咄嗟に身構える。

「話す意味も無いでしょ」

 金属バットはどこだ、どこに———、

「これから死ぬんだから……さあっ!」

 襲われるっ!

「ぐっ!」

 咄嗟に防御で構えた腕に、合人の拳がめり込んでいた。

 人間の早さじゃない———、

「何、ぼーっとしてるの?」

 拳を防いでいた腕を引っ掴まれ、ボロ布のように投げ飛ばされた。

「うっ、ぐ、あああっ!」

 腕と肩に、引き裂かれるような痛みが電流のように走った。床に突っ伏し、悶えていると、視界の隅に、転がる金属バットを見つけた。

「くっ!」

 咄嗟に立ち上がって走り出すと、金属バットを拾い上げる。

 これで、とにかく、武器を——どこだ?どこに———、

「ここだよ」

 耳元で声がした。咄嗟に振り返ると、ズドンと腹に拳がめり込んだ。

「がぁっ……!」

 床に崩れ落ち、四つん這いになった。胃袋が震えたが、喉には何も込み上げてこなかった。

 まるで許しを請うように項垂れていると、

「なんだ、もうゲロ出ないの?」

 合人が残念そうに言った。

「ううっ……なんでっ、どうしてっ……」

 必死に顔を上げ、疑問を絞り出すと、

「色々と訊きたいのはこっちの方なんだけどさあ」

 と、合人が首を傾げた。

「お前、なんで戻って来たんだよ?もう随分前に学校から出ていったはずだろ?どうして今更戻ってきた?それも、あんな女引き連れて」

 合人は忌々し気に、後ろの方で倒れているサキナさんを見遣った。

「アホの井之内を殺した後、お前はフラフラ出て行っただろ。林田に無視されたせいで。そのまま戻って来なかったから、とっくにどっかで死んだんだろうと思ってたけど、驚いたぜ。お前とそこの女を見つけた時にはな。玄関で殺されてた奴がいたから、誰が入って来たのかと探し回ってたら、まさかお前だったなんて思わなかったよ」

「……え?」

 どういうことだ?

「な、なんで、僕が井之内くんを……」

「殺したのを知ってるのかって?」

 合人は無表情のまま、口の端だけを歪めた。

「知ってるも何も、俺はあの時ここにいて見てたんだよ。お前がアホの井之内を殺すところも、その後、林田に無視されたところも、ゾンビの群衆の中に混じって、ほとんど目の前で見てたんだ。ククッ、お前、林田さん、僕のことが分かるの?僕のことが見えるんだよね?とか言ってたっけ」

「なっ……」

「クククッ!林田に見えるわけないだろっ!お前のことなんかさあっ!スケッチブックに似顔絵描かれたくらいで何勘違いしてんだよっ!ハハハハハハッ!」

 合人はゲラゲラと笑い出した。さっきまでの無機質な口調が嘘のように、感情を剝き出しにして。

 対して、僕は忘れかけていたあの時のことを思い出していた。

 井之内くんを追い詰める為に、理科室に閉じ込めていた大量のゾンビたちを解放して、体育館に誘導して、井之内くんにとどめを刺して……それから、その中に林田さんがいて、林田さんが描いてくれた僕の似顔絵があって、でも、林田さんは僕のことが見えなくて……。

「な、なんで……」

「何が?ああ、何でゾンビの中にいたのかって?そりゃあ、あの時、俺はもうゾンビになってたからだ」

 合人は突然、右腕の包帯を引き千切ると、スルスルと解き始めた。

「まあ、正確に言うと、俺はゾンビなんかじゃねえ」

 包帯が取り去られ、露わになった右腕を、合人は僕の前に掲げた。

「俺は……アンデッドマンだ」

 不気味なほど真っ白な肌をした右腕。その手の甲に、歯形が付いていた。赤黒い肉が盛り上がって、蚯蚓腫れのようになっている、生々しい傷痕が―――、

「俺は噛まれたのさ。ゾンビにな。でも、俺はゾンビにならなかった。なんでかは分かんねえけど……こう考えてる。俺は、ゾンビウイルスに耐性があった。しかも、スーパーパワーに目覚めた」

「そ、そんな、まさか……」

「信じられねえだろ?でも、お前も見ただろうが。俺の力を。俺は、生まれ変わったのさ。アンデッドマンとして」

 合人はニヤリと笑った後、また右腕に包帯を巻き始めた。

「ゾンビ騒ぎがあったあの日、俺は教室にいたんだ。給食の時間が終わって、昼休みになって、みんなでワイワイ駄弁ってたら、廊下が急に騒がしくなった。どうせアホの井之内たちが騒いでるんだろうと思ってたら、教室に血まみれの川尻くんが入って来た。閉めろ、閉めろってうるさいから、教室の扉を閉めて、何があったんだよってみんなで訊いてたら……ククッ」

 包帯によって、生々しい傷痕が覆われていく。

「最初に噛まれたのははらだったよ。ギャーギャー泣き叫んでたけど、嬉しかったんじゃねえかな。憧れの川尻くんに、抱き着かれて噛まれたんだから、ククッ。それからは大パニックさ。どいつもこいつもギャーギャー泣き喚きながら、噛まれてゾンビになっていった。外に逃げようとした奴も、廊下に出た途端に噛まれてたよ。見せたかったなあ、あの光景。あの瞬間、何にも意味が無くなったんだ。クラスでの立場も、階級も、性別も、権力も、全部無意味なものになった。何もかも」

 合人は包帯を巻き終えると、口を使って器用に端を結んだ。歯が、赤黄色く濁っていた。

「それで、俺はパニック状態の教室の中を必死に逃げ惑った。滅茶苦茶に転びながら、机を押しのけて、血だらけの奴を押しのけて、ゾンビ共を押しのけて、目の前で襲われてる奴を押しのけて……命からがら掃除用具入れの中に逃げ込んだんだ。扉を閉めて、どうにか開かないように内側から押さえつけて、通気口の隙間から外の様子を窺ってた。ガタガタ震えながらな。ククッ、でも、今思い出すと面白かったな。どいつもこいつも齧られてゾンビになっていくのを、目の前で見るのはさ」


 ◇ ◇ ◇


 ―――嫌だ。

 嫌だ、嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 なんで、こんな、ことに。

 みんなが、ゾンビが、なんで、そんな、どうして―――。


 ◇ ◇ ◇


 包帯で覆い直された右腕を、合人は整えるようにさすった。

「その内、教室にいた奴らは一人残らずゾンビになっちまった。生き残ったのは、掃除用具入れの中に隠れてる俺一人だけ。見つからないように、必死に息を殺してた。物音を立てないようにして、ずっと隠れてたよ。長かったなあ、あの時間は。古藤の長ったらしい挨拶どころじゃないぜ。一体何時間隠れてたんだろうな。頭がおかしくなりそうだったよ」


 ◇ ◇ ◇


 ううっ……。

 大丈夫、ここにいれば大丈夫だ。

 でも、でも、このままじゃ。

 助かったと思ったのに。

 せっかく生き延びられたのに。

 結局、このままじゃ、自分も―――。


 ◇ ◇ ◇


「ククッ、正直言うと、小便チビった。そしたら、震えてたせいか、中の金属バットが急にガタッて倒れやがったんだ。アホの井之内たちが隠してたやつだよ。その音で、教室にいた全員に気付かれた。みんな一斉にこっちを向いて、迫ってきやがった」


 ◇ ◇ ◇


 ああ。

 どうすればいい?

 どうしようもない。

 もう、一人だけだ。

 自分だけが、

 え?

 ……気付かれた?

 嘘、嘘だ。

 ああ、そんな、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ―――。


 ◇ ◇ ◇


「開けられないように必死に押さえつけてたが、無駄だった。ガタガタ揺すられて、あっけなく開けられて、俺は奴らの目の前に放り出された。ああ、もう終わりだと思って、俺は叫んだ。喉が枯れるくらい叫んだよ」


 ◇ ◇ ◇


 うわああああああああっ!

 嫌だああああああああああああああっ!

 来るなああああああああああっ!

 近寄るなあああああああああああああっ!

 うああああああああああああああああああああああああっ!


 ◇ ◇ ◇


「周りの奴らは全員ゾンビだ。囲まれてるんだから、逃げられもしない。絶体絶命だ。死んだと思った。心臓が口から出そうなくらいバクバクいってた。へたり込んで、噛まれるのを待つしかなかった。でも———」

 合人はまた、ニヤリと笑った。

「俺は、ゾンビ共に襲われなかった」

「な……」

「なぜか、ゾンビ共は俺を噛まなかった。目の前にいるのにな。一体どういうことなんだって思ってたら……この右手の傷があった。とっくに噛まれてたのさ。多分、逃げてる途中にな。ククッ、そりゃあ噛まねえよなあ。同じゾンビなんだから。見た瞬間に、絶望したよ。ああ、俺はもうとっくに死んでたのか。生き延びたと思ってたのに、もうとっくにゾンビになってたのか、ってな」


 ◇ ◇ ◇


 え?

 なんで?

 どうして? 

 ……あ。

 ああ、そうか。

 そうだったのか。

 もう、とっくに、自分は。

 ふふ、くくっ、あはははははははははははっ……。

 なんだ、そうだったのか、だからか。

 くくっ、くくくっ……。

 ……あれ?

 でも、なんで―――。


 ◇ ◇ ◇


「でも……妙な事に気が付いた。他の奴らはゾンビになったら、ヴうヴう呻くだけのバカになってたのに、俺はそうじゃなかったんだ。頭ははっきりしてたし、ものを考えられたし、ちゃんと喋れたし、立ち上がっても、普通に歩けたんだ。一体どういうことなんだ?もしかして俺はゾンビになってねえんじゃねえのか?って思ってたら、腕がやけに生白くなってるのに気が付いた。それで、トイレに行って鏡を見たら、こうなってた」


 ◇ ◇ ◇


 ……なんだよ、これ。

 なんで、どうして、そんな、自分は。

 やっぱり……ゾンビに……。

 でも、だったら、なんで、今も、意識が、自我が……。

 分からない、でも、でも、こんな、こんなの、

 嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!

 うああああああああああああああああああああああああああああああああっ!


 ◇ ◇ ◇


 合人は真っ白い髪をくるくると指先で弄んだ。

「ビビったよ。何もかも真っ白だったもんな。ゾンビの奴らみたいにさ。いざ目の前にしたら、滅茶苦茶ショックだった。で……俺は頭の中まで真っ白になった。自分がゾンビになったってことが受け入れられなかったんだ。滅茶苦茶に叫びながら、ゾンビだらけの学校中を逃げ回って、逃げ回って……気が付いたら、なんでか分かんねえけど、体育倉庫にいた。隅っこで、掃除用具入れの中にいた時みたいに、ずっとガタガタ震えてたよ」


 ◇ ◇ ◇


 ……ここ、どこだ?

 あれから、どれくらいの時間が経った?

 分からない、何も分からない。

 ただ、怖い。

 自分が、怖い。

 生きてるのか死んでるのか分からない、自分が怖い―――——。


 ◇ ◇ ◇


「ククッ、バカだよなあ。その時は、自分が選ばれた者になったって、分かっちゃいなかったんだ。……あ」

 合人が指先で弄んでいた髪が、か弱い雑草のように根元からブチリと抜けた。

「チッ。まあ、いいや。それで、どれくらいそこで震えてたんだろうな。覚えてねえけど、ある時、急に外が騒がしくなったんだ。窓の外を見たら、ゾンビの大群が体育館にぞろぞろ入ってく。何だと思って、そいつらに混じってフラフラ中に入ったら、ステージの上に、お前がいた」

「……え?」

 閉じ込めてた?

「ああ、そうそう。あの日、お前を美術準備室に閉じ込めたのは、俺だよ。梶原に適当言って、鍵を借りて、お前が美術準備室に入ったのを見計らって、椅子をつっかえさせたんだ」

「ど、どうして、そんなこと……」

「……ムカついたからだよ。お前みたいな奴が、林田から似顔絵描かれてるのが」

 合人は苦虫を噛み潰したような顔で僕を睨むと、指先に纏わりつく白い髪の毛の束をピンと弾き飛ばした。

「なあ、やっぱり、みんなお前のことを無視してたから、襲われねえのか?ゾンビって、生きてた頃と同じことやるから、みんなお前を無視すんのか?だとしたら、お前も俺と同じ、選ばれた者ってことか。能力者みたいなもんだろ?ククッ、でも、ただ無視されるだけって、随分とショボい能力だなあ」

 合人は嘲笑うように、僕を見下げた。

「俺はお前みたいなのとは違う。感染して、スーパーパワーを手に入れた。正に、アンデッドマンだろ?身体の表面が腐りかけなことまで同じなのは嫌だけどな。防腐措置として包帯巻いておいたら、今のところ白くなったままで済んでるけど、いつ腐り出すかも分からねえ。毎日ヒヤヒヤしてるよ」

 理解が追い付かなかったが、受け入れるしかなかった。現に、合人は凄まじい力でステージ下収納をこじ開け、僕やサキナさんを軽々と投げ飛ばしたのだ。とても、普通の人間に為せることではない。ましてや、あんな華奢な身体で。

「ふう……久しぶりにこんなに話したな。で、お前はなんで戻って来たんだよ。俺がせっかく学校で王様してるってのによ。わざわざ俺に殺されに来たのか?」

「こ、殺すなんて、どうして……」

「どうして?」

 合人は、ぐにゃりと顔を歪めた。

「俺は毎日、お前を殺したくてたまらなかったぜ」

「……え?」

 息を呑んだ。

「お前のことが憎くてしょうがなかった。お前のせいで、俺はっ……林田は!」

 合人が急に語気を強める。

「お前さえいなけりゃ、林田はあんなことにならなかったんだっ!お前なんかをかばうから、林田は、あの日からっ……!俺みたいに、受け入れれば良かったんだ。俺みたいに、口答えなんかしないで素直に言う事を聞きゃあ良かったんだ。お前のことを無視してれば、みんなと同じになれたのにっ……!お前なんか、いなけりゃ良かったんだっ!」

 合人の怒鳴り声が脳に直撃した瞬間、僕は頭の中が真っ白になっていった。

 ……僕のせいで、あの日から、林田さんが。

 僕のせいで、

 僕がいたせいで、

 僕なんかがいたせいで―――、

「……ククッ、まあ、いいけどさあ。あの日から、俺はみんなの輪に入れたんだからなあ。お前を見限って正解だったよ。なんてことなかった。みんなの輪の中に入るには、みんなと同じことやればよかったんだ。みんなと違うことしてたって、何の意味も無かったんだ。みんなから無視されてる奴を無視してれば、みんな輪の中に入れてくれるんだ。……まあ、もうそんなもんは無くなっちまったけどな」

 合人が自嘲気味に口の端を歪めた。

「あれだけ苦労して手に入れたものが、呆気なく崩れるなんてなあ。分かんねえだろ?あかる。何も持ってないド底辺のお前なんかには。せっかく勝ち取った立場が、築き上げた人間関係が、ある日突然、無かったことになる虚しさなんてさあ」

 合人の声は聴こえていたが、僕は何も考えられなくなっていた。

「でも、今の学校も悪くはないぜ。なんたって、俺が頂点なんだから。クククッ、笑えるよな。俺のことをバカにしてた奴も、見下してた奴も、年上も、年下も、男子も、女子も、教師も、関係無しに、ゾンビになったらヴうヴう呻くだけのバカだ。学校の中、ほとんど誰もいなかっただろ?お前と一緒に外に出て行かなかった奴らは、みんな俺が食い殺してやったからな。この身体になっても、たまに腹は減るんだ。さすがに全部は食えねえから、腕とか足を捥いで美味いとこを齧るだけだけどな。放っといたら、ひっでえ臭いしやがるから、食いカスの死体はみんな窓から中庭に放り捨ててやった。見なかったか?全員、植え込みの上で腐っちまってよ。酷いもんだぜ。途中からは、食糧保存の為に何匹かひっ捕まえて、放送室の中と、そこのパイプ椅子入れに押し込めてやったけどな。あれは、俺の第二食糧庫だ」

 合人がステージ下収納の方を顎でしゃくった。

「ああ、そうそう。学校のあちこちでゾンビぶっ殺してたの、お前か?死体片付けて掃除してやったの、俺なんだぜ。感謝しろよ、まったく。二階の廊下なんか、暑さで腐ってひっでえ臭いの死体がゴロゴロ転がってて、まともに歩けやしなかったからよ。みんな窓から放り捨てて、床のモップ掛けまでしてやったんだぞ。いくらゾンビでも、死んで腐り切った奴なんて食う気も起きねえからな。ククッ、知ってるか?人間の肉って、女の方が美味いんだぜ。それも、若い方がな。試しに神坂を食ってみたけど、年増の肉なんて食えたもんじゃなかった。女だからって、美味いとは限らないんだ。鶏と同じだよ。若くて身が締まってる方がいいんだ。デブなんて論外だったな。脂肪の塊なんて食った気がしねえ。一番いいのは、毛も生えてない女の腕で―――」

 悍ましいことを嬉々として語り続ける合人の声が、遠くなっていく。

 身も心も変わり果てたかつての親友に、知らされた過去。

 林田さんは———、

 僕のせいで。

 合人は———、

 僕を、殺そうとしている。

 ……僕は、何なんだ?

 僕さえいなければ、みんなは喜ぶのか?


 ———お前なんか、いなけりゃ良かったんだっ!


 僕は、誰からも見られなかった方が良かったのか?

 僕は、この世界から消えてしまった方が良かったのか?

 僕は、透明な存在として生きていくしかなかったのか?

 誰からも見られずに。

 誰からも話しかけられずに。

 誰からも認識されずに。

 誰からも、名前を呼ばれずに———、


 ———バギョッ!


 と、生々しい音がした。

 我に返ると、合人のこめかみに釘バットがめり込んでいた。

「……は?」

 さっきまで饒舌に喋っていた合人が、間の抜けた声を上げる。

 合人の後ろにはサキナさんがいた。血走った目で、釘バットを握り込んでいる。

 いつの間にか起き上がり、合人の背後に近付いていたようだった。

 合人は釘バットがこめかみにめり込んだまま、硬直していた。こと切れたのかと思ったが、傷口からツーッと血が垂れた瞬間、

「……このクソ女ぁっ!」

 と絶叫し、身を翻した。

「くっ!」

 サキナさんが釘バットを構え直した瞬間、合人が凄まじいスピードでサキナさんの胸ぐらを掴み、ダンッ!と床に叩きつけた。

「ぐぁあっ!」

「この、このクソ女があっ!よりによって顔をやりやがってっ!いてえっ!いてえぞ!いてえじゃねえか、クソがあああっ!」

 合人が、床に倒れ込んだサキナさんを何度も蹴りつけた。

「やめろっ!」

 咄嗟に、叫んでいた。置き去りにされて真っ白になっていた意識が、真っ赤な怒りによって覚醒し、戻ってくる。

「……あぁ?」

 合人が目を剥いて睨んできた。釘でズタズタに裂けたこめかみから、赤黒い血がドロドロと真っ白い肌に伝っている。

 痛みに震えながら、金属バットを握り込んで立ち上がった。

「よせよ、あかる。お前なんかが俺に敵うはずないだろ?ましてや、スーパーパワーを手に入れた能力者の俺にさあ」

「……うああっ!」

 駆け寄り、金属バットを振りかぶった瞬間、顔面を蹴り上げられ、後ろに倒れ込んだ。

「あっ、ぐ、ううっ……!」

 激痛が走る顔を押さえていると、鼻からブジュブジュと血が噴き出た。あまりの痛みに、顔の感覚が薄れていく。

「だから言っただろ?凡人が超人に敵うはずねえだろうが。ああ、お前は凡人ですらねえか。誰にも見えない、ド底辺のゴミクズ野郎だったな」

 合人は忌々し気に僕を見下げると、床に倒れていたサキナさんの首を引っ掴んだ。

「がっ……!」

 自分よりも背の高いサキナさんを、合人は片手で軽々と持ち上げた。サキナさんが床から浮いた足をバタつかせながら、苦しそうに合人の腕を掴んでもがく。

「や、やめろ……!」

「なあ、あかる。こいつ何なんだよ?なんで、お前なんかと一緒にいるんだ。なんで、お前なんかと話してるんだ。なんで、お前のこと無視してねえんだよ?」

 合人は悪意に歪んだ顔で、サキナさんを睨んだ。

「おい。なんで、あかるなんかと口利いてるんだ、ああ?こいつは、無視しなきゃならねえ存在なのにさあ。……おい、何とか言えよ、クソ女っ!」

「ごちゃごちゃ……うるせえよ……!」

 サキナさんが歯を食いしばりながら、絞り出すように声を上げた。

「あぁ?」

「お前にっ……あかるの何が分かんだよっ……!」

 サキナさんの精一杯の声が響いた瞬間、合人がわなわなと震え始めた。

「……知った風な口、利くんじゃねえよっ!」

 合人の怒鳴り声が響いた瞬間、僕は自分の中で揺らいでいた意志が確立されていくのを感じた。

 立ち上がり、痛みに震える腕を黙らせて、力強く金属バットを構える。

「サキナさんを離せっ!」

 啖呵を切った瞬間、合人の目の色が変わるのを感じた。

「……へえ、こいつ、お前の。ああ、そういうこと。ククッ、あかる、お前もやるじゃんか。どこで手に入れてきたんだよ、こんな女」

「うるさいっ!早く離せっ!」

「ククッ、大切なんだな?この女。お前にとって、大切な女なんだな?」

「離せっ!合人っ!」

「……じゃあ、こうしたら——」

 合人は突然サキナさんを降ろすと、首を抱きすくめた。そして、乱暴に髪を掴むと、首元を露わにし、獣のように、赤黄色く濁った歯を剥いた。

「やっ、やめろっ!」

 僕が金属バットを振りかぶって踏み出すのと同時に―――、

「どうする?」

 合人が悪意に歪んだどす黒い笑みを浮かべながら、サキナさんの首に噛みついた。

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