7:OUT OF THE PAST
次の日、僕はいつものように、誰とも喋らずに一日を過ごしていた。
時折、合人と林田さんの方を見たが、二人は互いに恥ずかしがっているのか、やけに浮かない顔で、じっと俯いていた。
やがて昼休みになり、僕はいつものようにトイレで合人が来るのを待った。
ところが、いつもは必ず来る合人が、なぜか来なかった。
どうしたんだろうと、さりげなく教室や廊下で姿を探したが、合人の姿はどこにもなかった。林田さんの姿もなかった。いつもよりも、妙に教室にいる人間が少ないのが気になった。
結局、合人とは話せないままチャイムが鳴った。いつもは、まばらに集まって来て席に着くクラスの面々が、なぜか一団で教室に入って来たのが不思議だった。その中に、林田さんと合人も混じっていた。
やがて放課後になり、僕は下駄箱で合人を待っていた。
でも、いつもはすぐにやってくる合人が、いつまで経っても現れなかった。僕はしびれを切らして、人気の無くなった廊下を戻って教室に向かった。もしかしたら、林田さんと話をしているんだろうかと、ほくそ笑みながら。
教室の手前まで来ると、賑やかな笑い声が聴こえてきた。部活動をしていない上流階級の人間たちの声だった。
一瞬躊躇ったが、僕は忘れ物を取りに来たふりをして中の様子を窺おうと、扉を開けた。
そこには、上流階級の人間たちに囲まれる合人の姿があった。
僕が扉を開けた瞬間、一瞬だけ場が沈黙したが、何事も無かったかのように、またみんながお喋りを再開した。
僕は戸惑ったが、とりあえず自分の机に向かって引き出しを漁るふりをした。
「なあ、迎。お前、カラオケって何歌うの?」
「カラオケ?俺、行ったことなくて……」
「マジかよ?そんな奴いんの?すぐそこにあるじゃんかよ」
「ハハハ!じゃあ、今度行ってみるか?お前、好きな歌手とかいるのかよ」
「え?えっと……よく分かんない」
「ハッ!なんだよ、それ!じゃあ、ずっとタンバリン叩いてろよ」
「ハハハ!いいな、それ。お前のヘボヘボラップとセッションしたら?」
「んだよ!バカにすんなよ!ちゃんと歌えてただろっ!」
「ハハハハッ!あれはラップって言わねえだろ!」
僕はなんとなく空気を察して、すぐに教室を出た。賑やかな笑い声が、やけに背中に響いた。
逃げるように階段を下り、下駄箱まで戻ると、林田さんが靴を履いていた。
「あっ……」
思わず声を上げると、林田さんが振り返った。
一瞬だけ目が合ったが――すぐに視線を伏せられてしまった。
その顔は、いつもの林田さんのように無表情だったが、どこか悲しそうに見えた。
「…………」
林田さんは無言で向き直ると、そそくさと外へ出ていった。
ポツンと取り残された僕は、独りで学校を出て、帰路についた。
次の日も、僕はトイレで合人を待っていた。
教室から、上流階級の人間たちの笑い声が漏れて、トイレにまで聴こえてきた。それを聴きながらずっと待っていたが、合人は来なかった。
休み時間が終わり、すごすごと教室に戻ると、合人が上流階級の人間たちに混じってぎこちなく笑っていた。
授業中、合人の様子を窺ったが、じっと俯いているだけで、林田さんと会話を交わすような素振りは見られなかった。
やがて放課後になり、僕はまた下駄箱で合人を待つことにした。
でも、いつまで経っても合人は現れなかった。
やがて、日が暮れそうになると、上流階級の人間たちが階段を下りてくる気配がした。僕は慌ててしゃがみ込み、靴ひもを結び直すふりをして、やり過ごそうとした。
「なあ、帰りにコンビニ寄っていこうぜ。喉渇いた」
「いいぜ、お前の奢りな」
「はあ!?なんでそうなるんだよ」
みんなが僕の横でバタバタと乱暴に靴を履き、通り過ぎていった。
その中に、合人が混じっていた。
「こういうのは言い出しっぺが奢るもんだろ」
「勘弁しろよ、金欠なんだよ。あっ、なあ、迎がコンビニ行きたいってよ」
「……えっ?」
「何、迎が言い出しっぺなの?」
「ああ、さっき寄りたいって言ってたよな?」
「え、えっと……」
「なんだよ、じゃあ迎の奢りな」
「で、でも」
「迎、俺たち親友だよな?」
ずっと俯いていた顔を上げると、合人はぎこちなく笑っていた。
「……うん」
「ハハ!じゃあ迎の奢りな。行こうぜ」
みんなが、賑やかに外へ出ていった。
僕は手が震えるせいで、中々靴紐が結べなかった。
「あ、合人っ」
次の日の放課後、僕は独りで帰っていた合人に声を掛けた。
「……合人」
二度呼びかけて、ようやく合人は立ち止まったが、振り向いてはくれなかった。
僕は震える声で、その背中に問いかけた。
「ねえ、僕の勧めた映画、どうだった?」
何があったの?
本当はそう訊きたかった。でも、訊けなかった。
なんだか、核心を突いてしまうような気がして、怖かったからだ。
「…………」
合人は黙ったままだった。振り返ることもなかった。
「おっ、迎じゃん。何やってんだ?」
いつの間にか後ろに、自転車を漕ぐ上流階級の一団がいた。
「え?えっと、帰ってたんだけど……」
「へー。俺ら、今からYOUトピアのゲーセン行くんだけど、迎も来ねえ?」
「……うん、行くよ」
「ああ、じゃあ、先に行ってっからな」
一団は賑やかに自転車を漕いで、YOUトピアの方へ去って行った。
取り残された僕たちの間には、しばらく沈黙が流れたが、合人が歩き出そうとした瞬間、僕はまた、
「あ、合人っ」
と、呼びかけた。いつの間にか、涙声になっていた。
「……どうしたの?」
合人はずっと俯いていたが、やがて、ゆっくりと振り向いた。
その顔は、何の感情も宿っていないかのように無表情だった。そして、伏し目がちに、
「———お前なんか、もう見えないよ」
と、吐き捨て、僕の前から去っていった。
僕は目の前が真っ白になり、しばらくその場から動けなかった。
その日の夜、狭いクローゼットの中で食べた食パンは、まったく味がしなかった。何も付けていないから当然のことだったが、それでも、いつもとは違っていた。まるで、砂を噛んでいるようだった。
暗闇の中で床に横たわり、目を閉じたが、合人に言われた言葉がズキズキと頭の中で響いていて、一向に寝付くことができなかった。
狭いクローゼットの中に、僕から溢れた喪失感と絶望と孤独がズブズブと満ちていく気がした。
不思議と、涙は出なかった。
人間、本当に心の底から悲しい時は、涙は出ないものなのだろうかと思った。
次の日から、僕はまた孤独と向き合うことになった。
慣れたものだろ、と自分に言い聞かせた。前の生活が戻ってくるだけだろ、と。
実際に、その通りになった。
また、前と同じ孤独な日々が戻って来ただけだった。
唯一違ったのは、僕が休み時間の度にトイレに行かなくなったことだった。
代わりに、図書室で適当に本を借りて読むようになった。
大して興味も無かったが、本に向き合っていれば、教室の中に澄まして居ることができたからだ。多少は孤独を埋められている気分になれたからだ。本当は、微塵も埋められていないのに。
周囲の様子をひっそりと窺いつつ、大して興味もない本を読むことに没頭する。
ただひたすら、そんな風に過ごした。
時折、合人や林田さんの方に注意を向けたが、二人ともまるで何も無かったかのように、無関係の間柄になっていた。
だが―――。
林田さんは、なぜかクラスのみんなから無下に扱われるようになっていた。男子も女子も全員、さん付けで呼ぶのをやめ、まともに話しかけず、後ろ指を差してはクスクスと笑い、消しカスや紙くずなどを背中に投げつけていた。林田さん本人は大して動じている様子は無かったが、以前のような、人を惹きつける凛とした雰囲気が失われて、萎れているように見えた。
反対に、合人は上流階級の人間たちの輪の中で過ごしていた。
二人とも、お互いに距離を置いているようにも見えた。
「なあ、迎。俺たちさ、親友だよな?」
合人は時折、そんなことを複数人から言われていた。その度に、ぎこちなく笑いながら頷いていた。
本当の友達ならば、そんなことは口にしない。本当の友達ならば、そんなことを口にする必要はない。
そう、本当の、親友ならば。
そんな言葉が、頭の中で冷たく渦巻いていた。
やがて、合人は上流階級の人間たちの輪から、少しずつ弾き出されていった。
輪の中から端っこへと追いやられ、何か言おうものなら舌打ちをされるようになり、笑おうものなら睨まれるようになった。次第に一団から置いてけぼりにされていき、金魚の糞のように後ろをついて回るだけの存在になった。
ざまあみろ、とは思わなかった。
戻ってきてほしい。僕が合人に対して思っていたのは、それだけだった。
でも、合人は一度入った上流階級の輪の中から、頑なに抜けようとしなかった。どれだけぞんざいな扱いを受けようが、ここが自分の居場所なのだと、意地を張っているように見えた。
何日経っても、何カ月経っても、合人は僕を見てくれなかった。
いつかまた、話しかけてくれるのではないかと、僕のことが見えるようになるのではないかと期待したが、そんなことは起こらなかった。
春が終わって、夏が来ても、制服が夏服に変わっても、僕は透明人間のままだった。
良いことなんか、何も無かった。
唯一、あったとすれば、失せてしまった食欲のせいで生活費が溜まったことくらいだった。
そのお金で、僕は林田さんが買っていた〝Hump Back〟のアルバムを買い集め、ウォークマンに入れた。
夏休みの間は、ほとんどどこにも出掛けず、狭いクローゼットの中で延々と音楽を聴いていた。喪失感に、絶望に、孤独に、押し潰されてしまわないように、ウォークマンを握りしめていた。〝Hump Back〟だけが、心の支えだった。
やがて、夏休みが終わり、また学校に通う日々が戻ってきた。
もしかしたら、何かが変わるのではないか。
そんな淡い希望を抱いていたが、二学期になっても、僕はやっぱり透明人間のままだった。
学校中の誰も、僕のことが見えていないようだった。
林田さんも。
そして、合人も。
その時、僕はようやく理解した。
親友を、失ったのだと。
その日の夜、狭いクローゼットの中で、僕は初めて孤独に負けて泣いた―――。
―――世界の速度が元に戻り、誘われた過去から現実へと逃れた瞬間、僕は背中から勢いよく壁に叩きつけられた。
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