6:OUT OF MEMORY
足が地面から離れ、身体が宙に浮くのが分かった。
首元に風を感じる。蹴られたのは腹だ。重い痛みが、身体の内側からせり上がってくる。
死ぬのだろうか?
受け身を取らなければ。
でも、後ろは確か壁で。
いや、そんなことはどうでもいい。
どうして、合人が———。
世界の速度が遅くなっていき、衝撃的な事象の連続で情報過多を起こしたメモリ不足の脳味噌が、走馬灯を見せるように僕を現実から過去へと誘った。
「どうしたの?泣いてんの?」
「……えっ?」
それが、合人との最初の会話だった
場所も覚えている。二階の一年生の教室のすぐ傍にある男子トイレだ。
一年生の、まだ一学期が始まったばかりの頃、僕たちは初めて会話した。
最初は、他の人に話しかけたのかと思い、辺りをきょろきょろと見渡した。でも、トイレには他に誰もいなかった。
「ね、ねえ、君は、僕のこと見えるよね?」
今にして思えば、初めての会話だったというのに、僕は凄く変な質問をしたと思う。
でも、それは仕方のないことだった。
その頃の僕は、ありとあらゆる人間に入学式の時から無視されていたせいで、頭がおかしくなっていたのだ。
何をやっても、誰に話しかけても、周囲の反応が皆無だった為に、僕は自分の存在さえ疑い始めていた。もしかしたら、僕は死んでいて、実体の無い幽霊になっているのではないか。だから、みんな僕のことが見えないし、僕の声が聴こえないのではないかと。
そんな風に思い詰めていた僕は、休み時間の度に独りトイレに駆け込み、洗面台の鏡の前でグスグスと涙目になっていた。意味が分からないが、なぜか鏡に映り込む自分の姿を見ると、自分は確実に存在していると実感することができたからだ。
「はあ?」
合人は怪訝な顔こそしたものの、しっかりと僕の目を見ていた。
「ほら、触ってるし。僕って、幽霊なんかじゃないよね?」
僕は合人の制服の袖を掴みながら言った。今では、随分と気持ちの悪いことをしたものだと反省している。
「当たり前だろ、何だよ急に。変な奴だな」
そんな気持ちの悪い僕を、合人は笑いながら受け入れてくれた。ごく普通に、何の気なしといった風に。
僕は久しぶりに他人と会話できたことに感動して、潤んでいた目から涙が溢れた。中学生になって初めてクラスメートと話せたことが、自分の存在が他の誰かから認識されたことが、嬉しくてたまらなかった。
「えへへ……。やっぱり、そうだよね。僕のこと、見えるよね……」
僕が制服の袖で涙を拭っていると、
「お前、ハンカチ持ってないのかよ。ほら」
と、合人はハンカチを差し出してきた。
それから、僕たちの交流は始まった。
「僕、
「俺?俺は、
その日、僕たちは一緒に学校から帰っていた。一緒に帰ろうと、合人が下駄箱で誘ってくれたのだ。
「……へえ、変わった名前だね。君も」
「なんだよ、悪いかよ。どうせお前もバカにしてるんだろ、キラキラネームだなって」
「あっ、いやっ、別に悪口じゃないよ。だって、かっこいいじゃん。ダークヒーローみたいでさ」
「ダークヒーロー?アウトローみたいって?孤高のはみ出し者、アウトってか?」
「はは、その言い方は厨二病過ぎるけど……」
「なんだよっ、お前が乗せてきたんだろっ」
「いたっ、ちょ、ちょっと、やめてよ。ごめんごめん。やめてったら、ふふっ」
「ちぇっ、お前もあかるっていうんだろ。人のこと言えないじゃんか。キラキラネームでさ。どっかのヒーロー漫画の主人公の名前みたい」
「……君も、ヒーローが好きなの?」
「ああ、漫画より、映画のヒーローの方が好きだけどな」
「ね、ねえ、君はどんなヒーローが好き?僕はね———」
そんな風に会話は弾んだ。合人も、僕と同じように小学生の頃からアメリカンコミックのヒーロー映画に親しんでいたようで、その方面の話題に明るかった。もっとも、僕が好きなアンデッドマンのような昔のヒーロー映画ではなく、最近の真っ当なヒーロー映画群が好きなようだった。
それでも、どちらもヒーロー映画として変わりはなかった。僕たちは、こんなヒーローが好き、こんな風にかっこいいからと、くだらない会話をしながら帰った。
初対面だったのに、そんなに会話に花が咲いたのは初めてのことだった。まだ無視されていなかった小学生の頃の友達とも、そんなに熱量のある会話をしたことがなかった。
気が合うっていうのは、こういうことなのだろうか。
僕はそんな風に思った。
その日の夜、狭いクローゼットの中で何も付けずに食べた六枚入り百円の食パンは、いつもと違う味がした。
初対面といっても、厳密に言えば合人とは同じクラスだった為、既に面識はあった。
でも、その日まで、僕たちは一度も会話をしたことがなかった。
合人は当然のように、僕がみんなから無視されていたことに気付いていたと思う。直接訊いたことはないが、勘付いていただろう。教室中にひしひしと漂う、こいつには話しかけるんじゃないという同調圧力に。
だからこそ、合人はトイレで二人きりの時に、僕に話しかけたのだ。他の人間の目に付かないように。
恐らく、合人は不思議に思っていたのだと思う。
なぜ、みんなしてこいつを無視しているのだろうと。
合人だけでなく、同じように考えていた者はいただろう。なぜ何の面識もない人間を無視しなければならないのだろうと。
だが、学校中の人間は、既に一人残らず感染していた。兄が振りまいたであろう、〝弟を徹底的に無視しろ〟という同調圧力に。
無理もない。上に下に人望が厚く、周囲の注目と尊敬を集める兄の命令だ。僕が知らない所——恐らくは僕以外の全員が持っていたスマホを介して、同調圧力という名のウイルスは広まっていき、全員が感染したのだろう。
だからこそ、なぜこいつを無視しなければならないのか、と疑問に思う者も、僕に話しかけることはなかったのだ。
みんなと同じことをしなければ、自分が標的になってしまうだろうから。過去、実際にそういう者が――同調しなかった結果、粛清を受けた者がいたのだから。
でも、そんな同調圧力をものともせずに、合人は僕に話しかけてきてくれた。
やがて、僕たちは友達になった。
僕から合人に話しかけることはしなかった。人目に付く教室で僕が話しかけたら、合人は迷惑に思うだろうと考えたからだ。
当の合人も、他の誰かがいる場所では、僕に話しかけてこなかった。帰り道や昼休みのトイレ、移動教室中など、人目に付かない場面でしか、僕に話しかけてくることはなかった。
僕はそれで満足していた。密かな交流だったが、合人が僕を認識して、話をしてくれる。それだけで十分だった。くだらない話でふざけ合える。それだけで、僕は生きている心地がした。
僕たち、友達だよね?
そんな言葉を、合人に投げかけるようなことはしなかった。
本当の友達ならば、そんなことは口にしない。本当の友達ならば、そんなことを口にする必要はない。そんな風に思っていたからだ。
いや、僕は否定されることが怖かったのだ。
お前なんか、友達じゃないよと。
もし、合人の口からそんな言葉が出たら。そう考えると、怖くてたまらなかった。また、死んだように生きる日々が戻ってくるのではないか。そう考えると、生きた心地がしなかった。
「……なあ、クラスにさ。林田さんっているだろ?」
合人はある日の学校からの帰り道、コンビニに寄った後に突然切り出してきた。
「林田さんって、合人の前の席の?」
僕は買ったばかりのバディチョコを真っ二つにしながら訊いた。
「うん。って、またそれかよ。飽きないな」
合人とコンビニやスーパーに立ち寄って買い食いする時は、僕は決まってバディチョコを買っていた。
「いいじゃん。好きなんだから」
バディチョコのことは別に好きでもなんでもない。限られた生活費を無駄にしないように、お菓子の中で一番安くて大きいバディチョコを選んでいただけだ。
家族からどんな扱いを受けているかは、合人に打ち明けていなかった。なので、いつも、お小遣いが少ないからだとか、好きだからとか言って、言い訳をしていた。
「で、林田さんが、どうしたの?」
「その……どう思う?林田さんのこと」
「えっ?えっと……」
思い返すと、林田さんは不思議な雰囲気を纏っている人だった。
明るい人ではなかったが、かといって暗い人でもなかった。いつも無表情で、物静かで、休み時間はずっと机に座って文庫本を読んでいて、誰かから話しかけられればテキパキと答えるが、積極的に自分から会話をしようとはしない。かといって、話しかけるなというオーラを発しているわけでもなく、むしろ人を惹きつけるような、凛とした雰囲気を漂わせている人だった。
クラスのみんなも、そんな林田さんに一目置いていたのか、男子も女子も関係なく、誰も無下に扱うようなことをしなかった。その証拠に、誰もが林田さんのことを、〝林田さん〟とさん付けで読んでいた。別に、本人からそう呼んでくれと言われたわけでもないだろうに。
どのグループにも属していなかったというのに、その凛とした佇まいだけでクラス全員から認められている。林田さんは、そんな不思議な人だった。
「うーん、なんていうか、真面目な人だなあって思うけど」
「そんなんじゃないよ。その……林田さんって、可愛いよな?」
合人の顔は、耳まで真っ赤だった。
「合人、林田さんのこと、好きなの?」
「ば、バッカ!そんなんじゃ……」
「じゃあ、なんでいきなりそんなこと訊くのさ」
「う……」
「林田さんは、可愛いと思うよ」
「そっ、そうだよな?可愛いよな?」
「うん。エリザに似てると思う」
「エリザ?」
「ほら、僕が好きな、アンデッドマンのヒロインの名前」
「知らないよ、まだ観てないんだから。……あかる、まさかお前も」
「え?」
「お前も……林田さんのこと好きなのか?」
「ちっ、違うよ。ちょっと似てるなって思ってただけで」
「似てるって思うくらいには、林田さんのこと観察してるんだな」
「か、観察なんて、そんな……。っていうか、お前も、って。合人、好きなの認めてるじゃん」
「あっ……」
「やっぱり好きなんだ、林田さんのこと」
「……うん」
「いつから?」
「……この間、美術の授業でさ、ほら、人間の模型スケッチしただろ?」
「胸像の彫刻の模写?」
「そう。その時にさ、林田さん、隣にいたんだ。それで、俺の書いたスケッチ見てさ……上手いねって褒めてくれたんだよ」
「へえ。合人、絵描くの上手いもんね」
「それで、その時から……」
「ふふ、好きになったの?」
「……うん」
「それで……告白するつもりなの?」
「そっ、そんなのできるわけないだろっ!俺みたいなのが、林田さんに……」
合人が〝俺みたいなの〟と言った時、僕は、ああ、自覚はあったんだ、と思ったことを覚えている。
合人はクラスの中で、いわゆる上流階級に属している人間ではなかったからだ。
僕に話しかけてくれる前に合人に抱いていた印象は、人気者になりたくて空回りしている人、というものだった。
クラスの人気者に積極的に話しかけては、怪訝な顔をされる。人気者たちの輪の中に入ろうとしては、やんわりと弾き出される。合人は教室の中で、そんなことを延々と繰り返していた。
僕は教室の隅で、それをぼんやり眺めていた。
別に馬鹿にはしていなかった。
仲間に入れてくれ。それは、僕も心の底から思っていたことだったからだ。むしろ、そういった行動を大っぴらにできる合人のことは、羨ましく思っていた。
やがて、合人は上流階級に入れてもらえないと悟ったのか、その他大勢のグループに混ざろうと試みだした。でも、必死に上流階級に加わろうとしては弾き出されていた姿を目撃されていたせいか、合人を受け入れようとするグループは現れなかった。
彼らにとって、上流階級の人間からあまりいい顔をされなかった合人を受け入れるということは、同類とみなされるということを意味していたからだろう。
結局、合人はどのグループにも入れず、爪弾きにされた者として過ごしていた。
クラスには他にもそういう者はちらほらいたが、かといって今更彼らとつるむのも嫌だったのか、合人は独りで行動するようになった。
恐らくプライドが邪魔したのだろう。自分はお前らのような、ぼっちの陰キャとは違う。お前らと同類など、認めてなるものかと。
もちろん、そんな彼らよりも、僕は下も下、最低以下の存在だったわけだが。
トイレで僕に話しかけてきてくれたのは、丁度その頃のことだった。
合人からしたら、僕は丁度いい人間だったのだろう。
僕はクラスの人間に何の影響力もないし、干渉することもない。自分よりも立場がずっと弱いし、すべてにおいて自分の方が上回る、見下し甲斐のある存在だ。
それに、合人はしきりに、自分は他の人間とは違うんだとアピールしたがっていた。自分は凡庸な人間ではないと。いわゆる、〝普通〟の枠に収まるようなダサい人間ではないのだと。
僕に話しかけてきたのは、そんな理由もあったのだろう。
みんなが無視している者に、自分は話しかけている。俺は、みんなとは違う。俺は、同調圧力なんかに屈しないと、自分に酔っていたのかもしれない。
もちろん、これは僕の憶測でしかないが。
「でも、合人、かっこいいじゃんか」
僕は真っ二つに割ったバディチョコの片方を、合人に差し出した。
「お、俺って、かっこいいのか?」
「うん、少なくともブサイクではないよ」
「そ、そうかな?」
「うん、だから自信持ちなよ」
「……俺、イケるかな?」
「分かんないけど、応援してるよ」
いつものように、二人でバディチョコを齧りながら帰った。
その次の日から、僕はなぜか林田さんのことが気になるようになった。
授業中や休み時間など、気が付くと林田さんに視線を向けていたり、廊下や下駄箱で、無意識に林田さんの姿を探すようになった。
なぜかは、分からなかった。合人から言われたせいかもしれないと思った。でも、なぜか家の狭いクローゼットの中で過ごしていても、気が付いたら林田さんのことを思い浮かべていた。
僕は、自分が何を考えているのか分からず、胸が苦しくなった。結論らしきものを導き出してみたが、まさか、そんなはずはないと思った。
でも、そうとしか考えられなかった。合人の言っていたことは、正しかった。
僕は、林田さんのことが好きになっていた。
だからといって、僕はどうすることもできなかった。
僕にそんな権利はないし、親友である合人の恋路を邪魔することなんて、できなかった。
合人から毎日のように林田さんへの想いを聞かされていれば、尚更のことだった。
僕は密かに、林田さんに対する想いを胸に秘め続けることしかできなかった。
そんな、ある日のことだった。
林田さんが偶然にも僕たちと一緒に帰ることになったのは。
その日、僕たちは学校の帰りにレンタルビデオ店に寄っていた。
僕があまりにも口うるさくアンデッドマンの映画を勧め続けた結果、根負けした合人が、じゃあ借りて観てみると言い、行くことになったのだ。サブスクでは配信していなかったこともあって。
「ハハハ、僕も好きだよ。その映画」
「だ、だよな!?かっこいいよな、このヒーロー。みんな、あんまり好きじゃないって言うけどさ。俺は好きなんだ」
「でも、一番好きなヒーロー映画はやっぱりこれかなあ」
「これが、あのアンデッドマン?2も3も出てるのか。めっちゃ古い映画なんだな。俺らが産まれるよりずっと前じゃん。古いヒーロー映画なら……あかる、これ見たことある?これも古いけど、凄くかっこいいヒーロー映画なんだぜ」
「これも?分かった。今度見てみるよ。見られればの話だけど」
「見られれば?」
「……映画は家に誰もいない時にしか見れないから」
「はあ?」
「いや、別に、なんでもないよ。それより、これ凄く面白いんだよ。人知れず世界を守る、ダークヒーローの話なんだけどね」
「エロいシーンある?」
「エロいシーン?そ、そんなのないよ。あっ、でも、ヒロインが凄く可愛いよ」
「……へえ、借りてみよ」
「そんな理由で借りるの?ふふっ」
「なっ、なんだよ!気になるだろ、そういうの!」
「ちょっ、いたっ、やめてっ、やめてったらっ」
「カマトトぶりやがって!このっ!」
「わあっ!ごめんごめん、ふふっ、あははっ!」
「ちぇっ、どんな理由だろうと、見るんだからいいだろっ。お前がずっと勧めてたやつっ」
「じゃあ、観たら感想聞かせてね。きっと気に入ると思うから」
「ああ。……お、おい、あかる」
「どうしたの?」
「あれ……林田さん?」
「えっ?……あっ、林田さんだ」
「や、やっぱそうだよな?」
「う、うん」
「……俺、声かけてみようかな」
「ええっ」
「ど、どうしよう。やめた方がいいかな?」
「で、でも、チャンスだよ、合人」
「チャンスって言ったって……」
「もしかしたら、一緒に帰れるんじゃ……あれ?林田さん、どこに——」
「迎くん?」
「へっ?」
「あっ、やっぱり迎くんだ」
突然後ろから現れた林田さんを前に、僕たちはカチンコチンに硬直した。
ようやく我に返った瞬間、僕は、逃げなきゃ、と焦った。
合人が僕と一緒にいるところを見られたら、まずい。合人が規律を乱した者として、みんなから糾弾されるのではないか。そう思ったからだ。
でも、逃げようとする僕の制服の袖を、合人は掴んで離そうとしなかった。
「何してるの?それ、映画?」
「あ、ああ、うん。借りに来てて……」
僕は咄嗟に陳列棚の方を向いて、無関係の他人を装った。無関係の他人が袖を掴まれているというのもおかしな話だったが。
「は、林田さんは?」
「私?私は、CD買いに来たの。本当は手軽にサブスクで聴きたいんだけど、親が、好きなバンドなら、ちゃんとCDを買って応援しろってうるさくて」
林田さんがかざした手には、ジャケットに〝Hump Back〟と書かれたCDケースが握られていた。
「あと、ついでに、何か面白い映画とかないかなって思って」
「そ、そうなんだ。CDと、映画を……」
合人はかなり緊張しているのか、握り拳の甲でモゴモゴと口元を押さえつけていた。合人は極度に緊張すると、そうする癖があった。いつか、数学の授業で難しい問題を答えるように指名されて立たされた時も、そうしていた。
僕も僕で、気まずさのあまりに頭の中はパニックになっていた。
「どうしたの?具合でも悪いの?」
「えっ、あっ、いやっ、別に、健康だけど」
「健康?変な言い方。まあ、いいけど」
そう言うと、林田さんはSF映画の棚を物色し始めた。パッケージを抜き取ってジャケットを眺めては、趣味に合うものを吟味している。
やがて、お目当てのものが見つかったのか、
「じゃあね」
と、林田さんがレジに向かおうとした。瞬間、僕は咄嗟に、合人に耳打ちをした。
「あっ、あのっ、林田さんっ」
「……何?」
「お、俺、この店のカード持ってなくて……その……お金払うから、こ、これ、林田さんのカードで借りてくれない?」
「これ?別にいいけど、返す時、一緒になっちゃうよ?いいの?」
「う、うん、大丈夫」
「そう。じゃあ、ちょっと待ってて。借りてくるから」
林田さんがアンデッドマンのDVDを受け取ってレジに向かい、目の前からいなくなった瞬間に、僕は真っ赤になった合人から肩パンを喰らった。
「いたっ!何するのっ」
「おっ、お前なあ!どうするんだよ!余計なこと吹き込みやがって!」
「余計なことって、チャンス作れたじゃんか!嘘をつくことになったのは悪いけど……」
「ど、どうすればいいんだ?」
「どうすればって、一緒に帰ればいいじゃんか。またとないチャンスだよ。ほら、早くレジに行って」
「あ、あかるは?」
「……僕は帰るよ。二人っきりの方がいいでしょ?」
「や、やだよ、あかる。一緒に帰ってくれっ」
「な、何言ってんの、そんなの——」
「借りてきたよ」
レンタル用の貸し出しバッグを持った林田さんが、陳列棚の影から顔を出した。
「どうしたの?帰らないの?二人とも」
その後、僕たちはなぜか三人で帰り道を歩いた。
僕は別に帰ろうとしたのだが、合人がどうしても一緒にいてくれというので、まるでストーカーのように二人のすぐ後ろを無言でついて行った。
前の二人は会話に花が咲いていた。合人は終始たどたどしかったが。
そんなことよりも、僕は林田さんの言葉が頭の中で反響していて、心臓がドクドクと高鳴っていた。
〝どうしたの?帰らないの?二人とも〟
林田さんは、僕のことを認識した?
いや、それは当たり前のことだろう。二人でいたのだから、合人が僕の袖を掴んでいたのだし。でも、僕だってことは顔を見て分かったはずだ。だったら、僕は無視されないといけないのに。
……林田さんも合人のように、どうしてこいつを無視しなければならないのだろうと、疑問に思っていた人間なのだろうか?
「じゃあ、私、こっちだから。はい、これ」
「あ、ああ、俺らは、あっちだから」
「そっか、じゃあね。あ、そのDVD、学校でもいいから、後で私に頂戴ね。一緒に返さなくちゃいけないから。じゃ、バイバイ」
そう言って小さく手を振り、帰っていく林田さんを見送りながら、僕たちはぼーっと並んで突っ立っていた。
「…………どうしよう」
林田さんがいなくなった後、合人は真っ赤な顔を両手で押さえて悶え始めた。
僕も僕で、顔が真っ赤になっているのを感じていた。
手を振る林田さんと、目が合ったからだ。
「……良かったじゃんか。これで、学校で話す理由ができたよ」
「そ、そんなこと言ったって……」
「だって、否が応でもそのDVD、返さなきゃいけないんだから」
「そうだけど……」
「やったじゃん、合人。仲良くなれるチャンスだよ」
「……あかる」
「何?」
「……ありがとうな」
「どういたしまして」
「で、でも、お前なあ!もうちょっとやりようがあっただろっ!」
「わっ!何だよっ!誰のアドバイスのおかげでここまで――」
「うるせえっ!こっちの身にもなれよっ!俺がどれだけヤバかったか、分かんないだろっ!」
「分かってたよ。めちゃくちゃ緊張してたね、ふふっ」
「……殺すっ!殺してやるっ!」
「わああっ!やめてっ、やだあっ!」
「あっ、コラ!逃げるなっ!」
「うわーっ!」
帰り道を、バタバタと笑顔で逃げ惑った。そんな風にはしゃぐのは、初めてのことだった。
その日は、今までの人生で一番楽しい日になった。
本当に、心の底から、楽しかった。
でも―――。
その時は、思いもしなかった。
次の日から、また死んだように生きる日々が戻ってくることになろうとは。
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