3:ENJOY SCHOOL LIFE
それから僕たちは、学校中を歩いて回った。
別に、何をやりたいなんてことは考えもしないまま、ぶらぶらとあちこちに行っては、思いつくことを気ままにやっていった。
「ここは一年生の教室ですね」
「どこの教室も、そんな変わんねえな。……なんで机の上に、こんなにスマホが置いてあるんだ?」
「あ、それは、僕が遊んでたんです」
「遊んでた?」
「はい。みんなゾンビになっちゃった時に、置き去りになってたみんなのスマホを集めたんですけど、どれも圏外で通じなくって。それで、役に立たなかったから、バットで外に打ち飛ばして遊んだんです」
「スマホなんか、バットで打てるのか?」
「意外とできますよ。やってみます?結構楽しいですよ。僕、スマホを持たせてもらえなかったから、人のを壊すのが楽しくて」
「お前、結構エンジョイしてたんだな」
「その……なんか、僕だけ生き残ってるってことに、テンションが上がっちゃって……」
「まあ、気持ちは分かるけどよ。俺も、スマホは持ってなかったし。……オラッ!」
「惜しいですね」
「結構難しいな、これ」
「ボールならまだしも、四角い板ですから」
「オラあっ!」
「あ、当たった!」
「うおっ、結構飛ぶもんだな」
「ぼ、僕より遠くに……。スマホって、あんなに飛ぶものなのか……」
「ここが理科室です」
「黒板になんか書いてあるぞ」
「ああ。あれは、理科の先生のゾンビが書いてたんです。授業でもしてるつもりだったんですかね?」
「ゾンビ化しても、先公は先公なんだな。ご苦労なこった」
「あれ?なんか、意外と読めるような……」
「嘘だろ。なんて書いてあるんだ?」
「えっと……、なとりうむ、を、みずのなかに?」
「机になんか置いてあるぞ。そのビンじゃねえのか?」
「本当だ。ナトリウムって書いてる」
「これを水に入れろってことか?おい、あかる。リュックに水入ってたろ。そのビーカーに入れろよ」
「ええっ、何が起きるか分かんないのに」
「いいから、出せよ。何が起きるか実験してみようぜ」
「は、はい。……これ、なんか変な液体に浸かってるんですけど」
「なんかワクワクしてきたな。ほら、早くこれに入れろよ」
「やっぱり、やめましょうよ。なんか嫌な予感が……あっ!」
「あ!何落としてんだ!」
「さ、サキナさんっ!なんか煙がっ!うっ、うわっ!」
「あ、あかるっ、逃げろっ!」
「うわーっ!」
「し、死ぬかと思った……。まさか爆発するなんて……」
「ハハハ!凄かったな!ビーカーごと消し飛んだぞ、あれ!」
「火事にならなくてよかった……」
「それにしても、理科の先公、どんだけ危険な実験やろうとしてたんだ?」
「あれには多分、分量とか、もっとちゃんとした方法があるんですよ。じゃないと、あんな爆発……」
「お前が全部落っことすからだろ」
「そ、そんなっ、入れろって言ったのはサキナさんじゃないですか。僕は、やめようって言ったのに」
「楽しかったからいいだろ。怪我もしなかったし」
「……怪我しましたよ」
「お、おいっ、どこだ。手当てしねえと」
「ここです」
「その脇腹のは前からあった傷だろ!ナメやがって!あっ!逃げるなコラ!」
「うわああっ!」
「いてて……」
「まったく、はしゃぎすぎだろ。せっかく塞がってたのに」
「サキナさんが追いかけてくるからですよ」
「お前がふざけるからだろ。保健室があったから良かったけどよ」
「懐かしいや。一晩だけ、ここで寝たんです」
「なんで窓に黒い紙が貼ってあるんだ?」
「ああ。あれは、外から見えないように貼ったんです。外のゾンビに見つかるのが怖くて」
「学校の外のゾンビは、お前を無視しないんだな」
「はい。僕、ここだと無敵なんですけど、外に出たら雑魚になっちゃうんです」
「……お前は強いよ」
「えっ?」
「なんでもねえよ。それより、血は止まったのか?」
「は、はい。あの、サキナさん、さっきなんて言ったんですか?」
「うるせえな、何だっていいだろ。おっ、身長計があるじゃねえか。あかる、測ってみろよ」
「えっ?は、はい」
「えっと、……156センチだな」
「や、やった!ちょっと伸びてる!」
「俺も測ってみるか。何センチだ?……あかる?」
「……173センチです」
「……そんなに落ち込むなよ」
「なんだよ、漫画置いてねえのか」
「第一中の図書室には、漫画が置いてあるんですか?」
「ああ、ちょっとだけな」
「いいなあ。あっ、そうだ。これ返しておかないと」
「なんだ、それ」
「この本、ずっと借りっぱなしだったんですよ」
「別にいいだろ。期限もクソもないのに」
「いいんです。もう読んだし」
「どんな話だったんだ?」
「えっと、大まかに言うと、どんなに凄い力を手に入れようと、それを間違った方向に使ったら、悲しい結末が待っているって話です」
「なんか難しそうな話だな」
「難しくはないですよ。ヤンキーガール・サキナにも、似たような話があったじゃないですか」
「お、お前、読んだのか!?」
「え?は、はい」
「どっ、どの話が好きだった?」
「えっと、文化祭大激闘篇とか、体育祭大乱舞篇とか。っていうか、全話面白かったですけど……」
「だっ、だろっ!?おもしれえだろっ!?傑作だよなっ!?クソ生徒会長をぶん殴るところとか、クソ教頭を轢き飛ばすところとか、最高だよなっ!?」
「は、はい……」
「あ、あと、修学旅行大乱闘篇も最高だし、海水浴大暴走篇とかも、ギャグ回だけどおもしれえよなっ!?」
「え、ええと……」
「あと、夏祭り大炎上篇でマブダチだったモモコと最後に共闘するところとか、最高だよなっ!?」
「あ、あの……」
「モモコがヤクザに利用されてたこと知った瞬間、ブチギレて啖呵切るところとか、お互いの釘バットと鉄パイプ交換して戦うところとか!」
「……僕も、こんな感じだったのかな」
「屋上って登れるもんなんだな」
「普段は閉まってますよ。僕が鍵を開けたんです」
「なんかあんまり見晴らし良くねえな」
「ここから上に登れば、いい景色が見れますよ。よいしょっと……」
「よっと……、おおっ、結構いい眺めだな」
「あれが駅で、あの辺りに僕の家が……あっ、YOUトピアが見えなくなってる」
「本当だ。無くなっちまってるな」
「なんか、信じられませんね。あんなに長い間居たのに。……ん?」
「どうした?」
「あ、いや……。なんか急に、誰かから見られてるような気がして」
「まだ校舎にゾンビが残ってるんじゃねえか?」
「あっ、廊下に誰かいるっ」
「なんだ、あいつ」
「あれ……
「なんか、あのゾンビ、双眼鏡みたいなの持ってねえか?」
「本当だ。あっちって確か、プールだったような……」
「……とんだ変態ゾンビだな。後でぶっ殺そう」
「なんか久々に皿使って食べる気がするな」
「ほとんど缶詰でしたからね。でも、家庭科室って、こんなに食器揃ってたんだなあ」
「いただきますっと」
「さ、サキナさんがいただきますを……」
「なんだよ。おかしいか?」
「い、いや。そんなことは」
「なんか、皿がちゃんとしてると、言わなきゃならねえような気がしたんだよ」
「……いただきます。あ!僕のパン!」
「うるせえ!ちょっとくらい、いいだろ!」
「ちょ、チョコチップのとこ、ほとんど食べられた……ううっ!」
「あ!俺の焼き鳥をっ!てめえ!ちゃんと均等に分けたのに、でかい肉取りやがったな!」
「あっ!ちょ、ちょっと!ラーメン取るのは反則じゃないですかっ!」
「うふへえっ!早ひもんがふぃだっ!」
「け、結局こうなるのか……」
「僕、ここに閉じ込められてたんですよ」
「美術準備室に?なんでだよ」
「授業で使ったスケッチブックを片付けてたら、誰かがイタズラでドアノブに椅子をつっかえさせてて。それで、閉じ込められてる間に、ゾンビ騒ぎが起きたんです」
「……なんつーか、運が良かったんだな。騒ぎに巻き込まれてたら、逆に危なかったんじゃねえか?」
「確かに、学校の外に逃げ出してたら、すぐに死んでたかもしれませんね。……あの、サキナさん」
「なんだよ」
「その……僕を見つけてくれて、ありがとうございます」
「…………」
「いたっ!なんで肩パンするんですか!」
「うるせえっ!」
「わああっ!また傷が開いたらどうするんですっ!」
「また塞げばいいだろっ!待てコラっ!」
「しょ、食後なのにっ!もう追いかけっこは嫌だぁっ!」
「ちょっと待っててくれ。便所行ってくる」
「は、はい。……えっと、除菌シートどこだっけ」
「オラあっ!」
「……え?」
「このクソ野郎がっ!」
「さっ、サキナさん!?どうしたんですかっ!」
「ふう……。なんでもねえよ。あの変態教師が中にいたんだ」
「ふ、吹越が、女子トイレに……」
「心配すんな。ぶっ殺してやったからよ」
「第二中って、先生も生徒も結構ヤバい奴の宝庫だったんだな……」
「くそっ、せっかく着替えたのに、また血まみれになっちまった。上着、着てりゃよかったぜ」
「あっ。洗うなら、丁度いい場所がありますよ」
僕たちはあちこち歩き回った末に、プールに辿り着いていた。
「まだ大丈夫そうですね」
プールサイドにしゃがみ、パシャパシャと手で水を弄んだ。炎天下のせいか、少しぬるい。
何日も放置されていたので、汚くなっているのではないかと不安だったが、まだ水は綺麗さを保っていた。放り込まれた塩素が効いているのだろうか。
「ここで洗えば……サキナさん?」
サキナさんは、プールの入り口に突っ立っていた。
「どうしたんですか?」
入り口に戻ると、サキナさんは遠い目でプールの水面を眺めながら、
「……俺、プールに来るの、久しぶりなんだ」
ハッと息を呑んだ。
ああ、僕は馬鹿だ。なんて無神経なんだ。サキナさんの傷痕のことを忘れてしまうなんて。
サキナさんは今まで、傷痕を隠す為にプールを避けていたのだろう。ちょっと考えれば分かることなのに、無神経にも案内してしまった。人の気持ちを考えられない僕は、大馬鹿だ。
「……あ、あの、僕、そこで待ってますから」
モゴモゴと外に行こうとすると、
「なんだ、入らねえのか?」
と、サキナさんがプールの方へ歩き出した。
「えっ?」
おずおずと着いて行くと、サキナさんはプールサイドに荷物を置いて、おもむろに服を脱ぎ始めた。
慌てて顔を覆うと、指の隙間からサキナさんが下着姿でプールサイドにしゃがみこむのが見えた。ジャブジャブと、着ていた服を洗っている。
「よし、と……」
サキナさんは服を洗い終えると、プールサイドのフェンスに干すように引っ掛けた。そのまま、おもむろにサンダルを脱ぎ、裸足でプールサイドを駆けると、勢いよくプールに飛び込んだ。上がった水飛沫が、キラキラと太陽に照らされて光る。
「さ、サキナさんっ!?」
「ぷはっ、冷たっ。来いよ、あかるっ!」
サキナさんは無邪気な笑みを浮かべて、水面をパシャパシャと弄んだ。
「で、でも、傷口が……」
「また絆創膏貼ればいいだろ」
サキナさんはそれだけ言うと、向こう側にパシャパシャと泳いで行ってしまった。
僕は色々と吹っ切れると、荷物を置いて靴と制服を脱ぎ、パンツ一枚でプールに飛び込んだ。身体中に触れる水は、なぜか手で弄んだ時よりも、ずっと冷たく感じた。
「ぷはっ」
脇腹の傷口に手を当てたが、絆創膏が防水タイプだったからなのか、染みるような痛みは感じなかった。あの時と違って、僕の身体から真っ赤な濁りは溶けていかない。無色透明の水が、僕をさらりと包み込んでいた。
「お前、泳げるのか?」
プールの反対側に泳ぎ着いていたサキナさんが、からかうように笑った。
「お、泳げますよっ」
底面を蹴ると、クロールでサキナさんの下へ向かった。あまり得意ではないが、普通に泳ぐくらいは僕だってできる。
「ぷはっ」
「ハハ、カナヅチじゃなかったんだな」
濡れた茶髪を掻き上げながら、サキナさんが笑う。
「絆創膏、大丈夫か?」
「は、はい」
「じゃあ、あっちまで競争だな」
「えっ?あっ、ちょっと!」
壁を蹴ってスイスイと泳ぎだすサキナさんを、慌てて追いかけた。
「遅いぞ、あかるっ。それ、犬かきか?」
「ちっ、違いますよっ」
水面に僕たちが起こす波紋が広がっていった。それを反射してキラキラと煌めかせる真夏の太陽は、はしゃぐ僕たちを力付けるように、ジリジリと熱く照り付けていた。
「乾いてました?」
「ああ。絆創膏はいいのか?」
「はい、大丈夫でした」
泳ぎ疲れてプールから上がった僕たちは着替えた後、プールサイドの影で髪を拭きながらくつろいでいた。
照り付ける太陽のおかげで、サキナさんの服はすっかり乾いたようだ。僕の制服もプールサイドに脱ぎ捨てていたせいか、取り込みたての洗濯物のように熱を帯びている。
タオルでしっとりとした髪を拭いていると、ふとサキナさんの姿が気になった。
赤いジャージに白いタンクトップで、腰にジャージの上着を巻いているその姿は、在りし日のサキナさんと比べると、どこか物足りないように思えてならなかった。
湿った手に、レインコートの感触が蘇る。いつ、どんな時も羽織っていたあの真っ赤なレインコートは、僕にとってサキナさんのトレードマーク同然だった。それはまるでヒーローのマントのような、憧れの象徴でもあった。
「なにジロジロ見てんだよ」
いつの間にかサキナさんがこっちを向いて、僕を睨んでいた。
「えっ?あっ、いやっ、なんでもないですっ」
慌てて弁明すると、そわそわと立ち上がった。靴下を裏返して履き直していると、ふと、あることを思い出し、脳裏にいいアイデアが浮かんだ。
「あ、あの、サキナさん。もしかしたら、サキナさんにぴったりなやつが……うわああっ」
湿った足に靴下を通すのに手こずってバランスを崩し、プールサイドにべたっと尻もちをついた。
「ハハ、何やってんだ」
「いてて……」
「ほら」
きちんと靴下を履くと、差し出された手を取って立ち上がった。
「で、なんだよ。俺にぴったりなやつって」
「なんだ、ここ」
「ここは、体育倉庫ですよ」
立て付けの悪いプレハブの扉をこじ開けると、こもっていた熱気がむわりと顔を撫ぜた。
体育館に併設されているこの体育倉庫には、陸上競技用のハードルやカラーコーン、体育祭用の綱引きの綱、ライン引きなど、普段の授業では滅多に使わない物ばかりが押し込められている。ここに来るのは、一年生の頃に体育祭の後片付けをさせられた時以来だ。
中に踏み込むと、サウナのような熱気が身体に纏わりついた。せっかくプールでさっぱりした身体の表面に、じんわりと汗が滲んでいく。
「あっつ。オイ、あかる。こんなとこに何があるんだよ」
「えっと、確かここに……」
僕は一番奥の大きなロッカーの前へ向かった。確か、鍵は掛かっていないはずだが。
ギシギシと軋んだ音を立てて、ロッカーは開いた。微かに埃が舞い、中に収められていた物が薄暗い光を浴びる。
「……あっ、これだ」
中に掛けられていたものを、ハンガーごと取り出した。
「これ、サキナさんにぴったりなんじゃないかと思って……」
僕は、真っ赤な長ランをサキナさんの前に掲げた。
これは、体育祭の時にだけ使われる衣装だ。各学年から選抜された応援団が着る服で、紅組と白組はそれぞれの色に合わせた学ランを羽織る。団員は短ランだが、組のトップを務める応援団長は、この長ランを羽織るのが歴代の決まりになっていた。
ヤンキーガール・サキナの特攻服とは少し違うデザインだ。この紅組の長ランには背中にでかでかと〝愛〟という金色の刺繍がしてある。逆に、白組の長ランには対になるように、〝誠〟という銀色の刺繍がしてある。
体育祭の後片付けをさせられている時に耳にしたが、これは随分と歴史が古いものらしい。なんでも、これが作られたのは砂井田第二中の体育祭に初めて応援団が発足された二十年以上も前のことで、その時——つまり初代の応援団長を務めた者の名前が、それぞれ背中に刺繍されたのだと噂で聞いた。本当かどうかは分からないが。
「どうですか?」
掲げた長ランの影から顔を出して様子を窺うと、サキナさんはなぜか子供のような、あどけない表情を浮かべていた。
「……あ、あの、サキナさん?」
「これ……愛って……ママの名前と一緒……」
「えっ?」
サキナさんはそれだけ言うと、長ランを受け取り、背中に刺繍された〝愛〟の文字を指でなぞり始めた。
ママの、名前?
まさか、紅組の初代応援団長は、サキナさんの———。
そんな、そんなことがあるだろうか。奇跡だ。いや、本当かどうかは分からないけど、でも。
「あの……」
サキナさんが顔を上げる。見開かれたその目は、感慨に潤んでいた。
「……体育館の中に、鏡がありますけど」
「……大丈夫です。誰もいません」
開け放たれていた扉から体育館の中に入ると、懐かしい光景が広がった。
誰一人いないが、かつて僕はここで、たくさんのゾンビたちに囲まれ、井之内くんと戦った。
戦った、というと語弊があるかもしれない。僕は陰VISIBLEを駆使して、井之内くんを不利な状況に追い込んだだけだ。直接的にとどめを刺したわけではない。間接的に井之内くんを……。
「あかる?」
「……えっと、こっちです」
壁沿いに中央の方へ向かうと、壁に埋め込まれた引き戸を開いた。中から、縦長の大きな鏡が姿を現す。こんな風に設置してあるのは、ボールなんかがぶつかった時の衝撃で割れないようにする為なのだろう。
サキナさんは荷物を置くと、腰に巻いていたジャージの上着を僕に手渡し、代わりに受け取った真っ赤な長ランを翻すように羽織った。
僕は後ろで、その様子を固唾を呑んで見守った。
鏡越しに、サキナさんの顔が見えた。恐る恐るといった様子で、袖や襟を丁寧に正している。まるで、厳粛な儀式に臨むかのように。
やがて、サキナさんはそわそわと正すのをやめて、鏡に向き直った。視線を落とし、下から上へ舐めるように自分の全身を眺めると、最後にくるりと背中を向けて振り返り、自身の背中に掲げられた〝愛〟の文字を見遣った。
「……どうだ?」
サキナさんがこっちに向き直った。
その姿は、ヤンキーガール・サキナそのものだった。まるで、最後の1ピースがはまったジグソーパズルのように、完璧な姿がそこに——いや、ヤンキーガール・サキナではない。とても似ているが、違う点がある。
それは、身に着けている物や、髪の色、そして、サキナさんの過去——身体に残る傷痕や、サキナさんの本当の名前。
でも、そんなことは関係なかった。
そんなこと、もう関係ない。そう感じさせるほど、その佇まいは、その存在感は、その姿は、完璧なサキナさんだった。
「その……凄く似合ってます」
ありのままを伝えると、サキナさんは、
「ほ、ホントか?」
と、顔をほころばせて、長ランの裾をひらりと翻した。まるで、変身した自分の姿に感動するヒーローのように、サキナさんは鏡の前で身を震わせていた。
「……あかる」
「はい?」
「……俺って、サキナだよな?」
僕はゆっくりと頷きながら、力強く、
「はいっ」
と、告げた。
サキナさんはそれを聞くなり、憧れの境地に辿り着いた子供のように感慨に潤わせていた目を、ゆっくりと閉じた。
数瞬の沈黙の後、サキナさんは目を開いた。と同時に、表情がキリリと張り詰めていき、鋭く、凛とした顔つきになった。
「あかる」
サキナさんが、真正面から僕の顔を見据える。
「俺は……
「……知ってますよ」
「……」
サキナさんは無言で僕に肩パンをしてきた。
「いたっ!なにするんですかっ!」
「うるせえっ!空気読めコラッ!」
「ぼ、僕は真剣に言ったのにっ!」
場の空気が緩み、僕たちの表情も緩んだ。
サキナさんは、とても嬉しそうだった。
他の誰でもない自分自身を確固たるものにして、心底嬉しそうだった。
僕は———。
鏡に、僕が映り込んでいた。
鏡の中の僕は笑っていたが、その目は、心の底から笑っていないように見えた。
「言わないの?」
脳裏で、あいつが囁いた。
「ほら、言わなきゃ。その服、もしかしたらサキナさんのお母さんが着ていたものかもしれませんよ、って」
悪夢の中で出会った、もう一人の僕だ。
「なんで黙ってるの?言った方が、サキナさんもきっと喜ぶよ?」
いつか、YOUトピアでもこんな風に自意識に詰られたことがあったなと、ぼんやり思い出した。
「ああ、気に入らないんだ?自分と違って、母親から愛情を注がれてたサキナさんが、その母親が着てたかもしれない長ランを着てることが」
……うるさい。
「自分と違って、家族に愛情を持ってるサキナさんのことが、気に食わないんだ?」
……違う、黙れ。
「君、サキナさんの家を出る時も、そう思ってたよね。なんで写真破かないんだろって、拍子抜けしてただろ?」
そんなこと、そんなことない。
「破いてほしかったんだろ?家族のことなんか、捨て去ってほしかったんだろ?母親ならまだしも、なんで酷い扱いを受けてた父親のことを思い出としてとっておくんだって、思ってたんだろ?」
そんなこと思ってない。
僕は、サキナさんの在り方に、文句なんかない。
「嘘つきだね。本当は、家族のことを憎んでほしいんだろ?自分みたいに。なんで僕みたいに家族のことを憎んでくれないんですか、って言いたいんだろ?」
僕は……。
「図星だね。やっぱり君は、普通じゃない。血も涙もない、異常者なんだよ」
……消えろ、お前なんか。
「悲しいなあ。僕を否定するの?僕は、君自身なのに」
お前なんか、早く消えてしまえ。
「ふふ、君はそんなんだから、自分を確立できないのさ」
……なんだと?
「自分を否定する奴なんかに、他人を肯定する資格なんか無いね」
うるさい!消えろっ!
「消えないよ。僕は、君自身なんだから」
僕は、
僕は、
僕は———。
「あかる?どうした?」
鏡の中に、表情を失っている僕がいた。
僕は、誰だ?
僕は、普通の人間だ。
血も涙もない異常者なんかじゃない。
きっと、きっと。
だから、言わなきゃ。
「……サキナさん。その長ラン——」
「ヴぁうあああっ」
不意に呻き声がして振り返ると、ステージの脇からぞろぞろとゾンビが群れを成して現れていた。
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