2:LET'S GO TO SCHOOL
「こっちだったよな?」
「は、はいっ」
僕たちは、砂井田第二中学校を目指して走っていた。
スクーターが、ブロロロとかつての通学路を進んでいく。当然ながら、歩くよりもずっと早い。
サキナさんの後ろで夏の朝の風を浴びながら、僕は、どうしてこんなことになったのだろう、と思い返していた。
「ど、どうして、学校に?」
「……俺、お前に初めて会った時、死のうとしてたんだ」
「えっ?」
「死のうとっつうか、なんか、もう、どうでもよくなってたんだ。町は俺以外に誰も生き残ってなかったし、助けが来るような気配も無かったし。でも、家に帰ろうとは思わなかったから、行き場が無くてよ。どうしようか迷ってたけど、考えれば考えるほどむしゃくしゃして、全部どうでもよくなってきて、いっそのこと死んじまおうかって思ってた。でも、最後になんでか……ずっと行ってなかった学校に行きたくなったんだ。でも、第一中には行く気になれなくて、それで、なんとなく第二中の方を目指して走ってたんだ」
「それで、僕を……」
「ああ。お前を見つけたから、結局無しになったけどな」
「でも、学校で何をするんですか?あそこは多分、まだゾンビがうじゃうじゃいると思いますけど」
「分かんねえよ。自分でも、分かんねえんだ。でも……」
「……行きましょうか」
「いいのか?」
「はい……どうせ、行くとこもありませんし」
〝死のうとしてたんだ〟
校門で助けてくれた後、逃げた先の公園の多目的トイレで、僕はサキナさんにそう言った。
本当のことだ。僕は本当に死のうとしていた。生きる目的を見失って、無気力になっていた。
僕はどうせ孤独から逃れられない。みんながゾンビになれるのに、僕は無視されてゾンビにすらなれない。僕は崩壊した世界からも無視される存在なのだと、絶望していた。
でも、ゾンビに噛み殺される寸前で、サキナさんが助けてくれた。颯爽と僕の目の前に現れて、ゾンビの頭を弾き飛ばして。その姿は、正にヒーローのようだった。
でも、まさか、あの時、サキナさんも死のうとしていたとは思わなかった。
今にして思えば、あの時のサキナさんは自暴自棄になっていた、というのも理解できる気がする。自分よりもずっと体格のいい渡辺ゾンビに、無謀にも釘バット一本で立ち向かっていったのだから。
〝……ふーん。だからって、ゾンビに殺されるこたねえだろ〟
僕は、そのサキナさんのあっけらかんとした言葉に救われた。
あの時、もしかすると、サキナさんは自分自身にも、言い聞かせていたのだろうか?何も死ぬことはないだろうと。
「こっちだろ?」
「はいっ」
深く尋ねるのはやめておいた。僕も、サキナさんも、あの時どうであろうと、今はこうして生きているのだから。
「着いたな……」
僕たちは、あっという間に砂井田第二中の校門に辿り着いていた。
足元のアスファルトには、グズグズに腐敗したサラリーマンゾンビと渡辺ゾンビの死体の残骸が、吐き捨てたガムのようにこびりついていた。茶色く朽ち果てた死体が昨日の雨を吸い込んだのか、まるで服を着た白骨死体に汚泥をぶちまけたようにも見えた。すぐ傍の電柱の下にも、同じような茶色い泥溜まりがあった。上を見ると、電線にボロ布がぶら下がっていた。いや、あれは人だ。汚い服を着た白骨死体が、電線に絡まっている。そういえば、ゾンビから逃げ惑った末に電柱に登って感電死していた人がいたっけ。
ここで、僕はサキナさんと出会った。まさか、もう一度ここに来るとは思ってもみなかった。
「誰もいませんね……」
広々とした校庭には、不気味なくらい人がいなかった。
そういえば、学校から出て行く時、たくさんのゾンビが校庭をうろついていた。あの時の記憶は曖昧だが、僕が学校の入り口を開放したせいで、みんな出て行ってしまったのだろうか?
もしかしたら、それぞれの家に帰ったのかもしれない。僕たちのように。
「中も、誰もいなかったらいいけどな」
そう言うと、サキナさんはエンジンをふかして校庭に乗り上げた。雨でまっさらになったグラウンドの地面に、ジリジリとタイヤの跡が残っていく。
「この辺でいいか」
正面玄関へ続く階段の近くにスクーターは停まった。降りると、念の為に金属バットを構えた。サキナさんも、セカンドバッグを背中に背負って釘バットを構える。
ゆっくりと階段を上がり、正面玄関を見渡した。両脇の、綺麗に刈り込まれていたはずの植え込みは、あちこちから若芽が反乱分子のように伸びていた。反対に、花壇の花は世話をする者がいなくなったせいか、すっかり枯れてしまっている。
玄関の扉は閉まっていた。ガラスがバキバキに割れているのは、井之内くんから逃走していた時の名残だ。
耳を澄ましてみたが、セミの声に邪魔されて周囲の気配を察知することができなかった。諦めて、辺りを警戒しながら扉へ向かう。
ギギィ……と音を立てて扉は開いた。目配せをしながら、するりと中に入ると、サキナさんも後に続いた。扉を閉めると、セミの声が少し小さくなり、静かな空間が僕たちを出迎えた。
「あの、とりあえず来ましたけど、何を――」
———ずるっ……
と、何かを引きずるような音が聴こえた。
ピンと空気が張り詰める。
右の廊下の方からだ。何かがいる。
「……あかる」
「しっ」
小声で話しかけてきたサキナさんに目配せして、靴箱の影に隠れた。のけぞりながら、こっそりと様子を窺う。
「……ヴぁああ」
廊下から現れたのは、片足と片腕が捻じ曲がった男子生徒のゾンビだった。
なんだ?どこかで見覚えが……。
あっ。
そうだ、あれは、僕が美術準備室に閉じ込められている時に、教室の窓から飛び降りた男子だ。僕のゲロをかぶった後、ゾンビ化してどこかに消えていったが、まだ学校に残っていたなんて。
「……」
スッと、靴箱の影から出た。
「お、おいっ、あかるっ、何やってんだっ」
小声で慌てるサキナさんに、ジェスチャーで、〝そこにいてください〟と示す。
土足のまま、足音を立てないように玄関に上がると、ガン!と金属バットで靴箱を小突いた。
ゾンビがこっちを向く。
「……
ボソリと、小さく呟く。ゾンビと目が合った。白い目で、僕を見つめてくる。
「……ヴぅうあ」
ゾンビは、僕を無視して向き直ると、またおぼつかない足取りで歩き出した。
ほっと息をつくと、駆け寄ってゾンビの後頭部めがけ、金属バットをフルスイングした。ブチャッ!と頭が潰れて、ゾンビが崩れ落ち、こと切れる。
「ふう……」
良かった。学校を離れて大分経っていたから不安だったが、僕の陰VISIBLEはまだ通用するようだ。
金属バットを振ってこびりついた血を切っていると、靴箱の影からサキナさんがそろりと出てきた。
「あかる、今のって……」
「そうです。僕、この学校の全員から無視されてたんですけど、ゾンビになった後もその習性が残ってるみたいで」
「……嘘だろって思ってたけど、本当だったんだな」
サキナさんは驚きながらも、少し悲しそうな表情を浮かべていた。
「任せてください。僕、この学校じゃ無敵なんで」
取り繕うようにおどけると、
「何が無敵だよ、このっ」
と、サキナさんが小突いてきた。
「いたっ、何するんですかっ」
「うるせえっ、このっ、このっ!」
「わああっ!」
ヘッドロックをかけられて、こめかみをグリグリとやられた。痛いし、背中に柔らかいものが当たる感触があって、心臓がバクバク高鳴った。顔が真っ赤になっていくのを感じる。
ひとしきりやられた後、ようやくサキナさんは解放してくれた。
「うう……」
こめかみは痛いし、耳がジンジンする。
「とりあえず、色々見て回るか」
サキナさんが廊下の右側の方へ歩き出した。慌てて追いかけると、先導するように前に立つ。
「あ、案内なら任せてください」
「ああ、じゃあ、頼んだぞ」
僕は気を引き締めると、存分に注意を払いながら、廊下を進んでいった。
それにしても静かだ。僕がいた時は、大量のゾンビたちで溢れていたというのに。あれは、ゾンビ・パンデミックの直後だったからなのだろうか。
「ここが職員室です」
「見りゃ分かるよ」
ツッコまれながら中を覗いたが、人影は見当たらなかった。構うことなく、階段の方へ向かうと、ふと違和感を感じて振り返った。
「……?」
なんだろう。なんてことない廊下の風景だが、何かがおかしいような気がする。
「あかる?どうしたんだ?」
「い、いえ、別に……」
気のせいだろうか。でも、何かが引っかかる。何か、そう、何かがどうにかなっていないと、おかしいような……。
深く考えるのはやめにした。別に、取り留めも無いことだ。そんな気がする。
「あかる、お前の教室ってどこにあるんだ?」
「あ、えっと、こっちです」
気を取り直して、廊下の突き当りへと向かった。二年一組の教室を目指して、階段を上っていく。
だが、二階へ辿り着いて、廊下へ出ようとした時、
「あっ……」
あることに気付いて、足を止めた。
この先には、僕がウォークマンでロックを聴きながら殺していったゾンビたちの死体が転がって―――、
「あかる?どうした?」
後ろにいたサキナさんが、僕を追いこそうとするのを、
「あっ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
慌てて、止めた。
「なんだよ?」
「あ、いや、その……」
サキナさんが怪訝そうに訊いてきたが、僕は答えられないでいた。
この先の、明らかに武器を持った誰かによって殺されたゾンビたちの死体を目の当たりにした時、サキナさんはきっと訊いてくる。〝これ、お前がやったのか?〟と。
〝そうです。僕はゾンビたちに無視されるのをいいことに、ロックを聴きながら、ここにいた数えきれないくらいのゾンビたちを殺したんです〟
そう答えたら、サキナさんはどう思うのだろう。
そんなの、普通じゃない。
お前はおかしい。
そんな風に思われるのだろうか。
血の通っていない冷徹人間だと。
人殺しの異常者だと。
僕は―――、
「なんだ?ゾンビでもいんのか?」
黙り込んでいると、サキナさんがひょいっと廊下へ出てしまった。
「あっ、あのっ――」
慌てて僕も廊下に出たが―――、
「え?」
目を疑った。
「……なんだよ、誰もいねえじゃねえか」
サキナさんの言う通り、廊下には、誰もいなかった。
徘徊するゾンビは疎か、転がっているはずの死体も無かった。
壁にも、天井にも、所々割れている窓にも、乾いた血の染みがあちこちにこびり付いてはいた。が、血が溜まり、無数の肉片が散乱し、頭がグチャグチャに潰れた死体がごろごろと転がっていたはずの床は、そこかしこが血の染みで汚れているだけで、ひとつの死体も、肉片すらも、転がっていなかった。
「な、なんで……」
どういうことだ?これは―――、
「あかる?どうしたんだよ?」
サキナさんから、怪訝な表情で見つめられたが、
「あ、いや、その……」
わけが分からず、頭が混乱し始めた。
なぜだ?僕は、確かにここでロックを聴きながら、数えきれないほどのゾンビたちを殺したはずだ。もちろん片付けた覚えなど無い。なのに、死体どころか、血だまりも肉片も見当たらないなんて。
まるで、誰かが掃除でもしたかのように……掃除?
そうだ、思い返してみれば、一階の廊下もおかしかった。
僕は井之内くんたちから逃げる時、足止めの障害物として掃除用具入れの中身をぶちまけたはずではないか。
なのに、さっき通った時、廊下は綺麗なものだった。何も落ちていなかったし、掃除用具入れも閉まっていた。
まさか、ゾンビたちが生前の掃除当番よろしく、散らばった掃除用具や同胞の死体を片付けたとでもいうのだろうか?いくらなんでも、そんなはずは……。
「どうしたんだよ?ほら、行こうぜ」
「は、はい……」
サキナさんに促されて、とりあえず誰もいない廊下を進んだ。通り過ぎながら、教室の中を見て回ったが、ゾンビは一人も見当たらなかった。
「誰もいねえな。みんな出て行っちまったのか?」
構えっぱなしだった釘バットを下ろしながら、拍子抜けしたようにサキナさんが言うが、僕は考え込むのに必死で、それどころではなかった。
なぜだ?なぜ、こんなことになっている?
ゾンビ・パンデミックが起きたあの日、僕は一晩、美術準備室に閉じ込められていた。その後、なんとか脱出して、自分には陰VISIBLEという能力があると理解し、無視されるのをいいことに、ロックを聴きながら、この廊下に蔓延っていたゾンビたちを殺した。そして、体育館で生き残っていた井之内くんと出会って、戦う為に学校中を逃げ惑って、その最中に掃除用具をぶちまけて……。
まさか、あれは現実じゃなかったのか?
やっぱり、僕は夢を見ているのか?
YOUトピアが崩壊した時に感じたように、YOUトピアで倒れた時に見た――今朝も見てしまった悪夢のように、僕は本当は、とっくにゾンビになってしまっているのではないだろうか。自我を保ったまま、未だに学校を彷徨っているのではないだろうか。
だとしたら、今こうしてサキナさんと一緒にいるという現実の方が、夢なのか?
僕はゾンビになりながらも、自我を保ち、自分にとって都合のいい妄想めいた夢を見続けている、というのが現実なのか?
分からない……でも。
僕が学校のゾンビから襲われないことも、サキナさんに間一髪で救われたことも、誰もいないのに食料も水も揃っている理想郷で悠々自適に暮らせていたことも、そこから脱した瞬間に嘘のように地震が起きて崩壊してしまったことも、自分を虐げてきた人たちに復讐を遂げたことも、何もかも、僕にとって都合が良すぎやしないだろうか?
これまでのすべての出来事が、僕の願望に基づいた夢だったとしたら?
まさか、そんなはずが……。
でも、もし、そうだとしたら、どこまでが現実で、どこからが夢なのだ?
そういえば、僕は体育館で井之内くんをやっつけた後、林田さんに無視されて、目の前が真っ白になって、気が付いたら、校庭に突っ立っていて……。
あそこから、夢が始まって――いや、違う。あれは、この廊下でゾンビたちを殺した後のことなのだから。
だとしたら、いつから……。
最初から?
美術準備室で、一晩閉じ込められた時に、僕の頭はおかしくなってしまったのか?それとも、そもそも陰VISIBLEなんて能力は無くて、美術準備室から脱した瞬間、僕はあの女子生徒のゾンビに襲われて、ゾンビに成り果ててしまったのか?
考えれば考えるほどわけが分からなくなっていき、頭がクラクラとし始めた。
これは、夢で、いや、これが、夢のはずが、これは、現実で、でも、おかしい点が、それに、今までのことは、あまりに、夢のようで、いや、違う、そんなはずない、これは、絶対に、現実で―――、
「うおっ!」
不意に、サキナさんが驚く声を上げ、我に返った。ガラスが割れて失われ、ほとんどフレームだけになっている窓から、下を覗いている。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、なんか臭えと思ったら……」
僕も隣の窓から下を覗いた。瞬間、
「うっ!」
とてつもない腐臭が、鼻先に纏わりついた。
真下——中庭の植え込みに、数えきれないほどのゾンビの死体が突き刺さっていた。まんべんなく、所々は折り重なって。それに大量のハエがたかり、ブンブンと周りを飛び回っている。
なんだ、あれは……。
まるで、ここから大勢が一斉に飛び降りたかのようだった。が、よく見ると、死体はミイラのように朽ち果てているものもあれば、ついさっき死んだかのような綺麗なもの――といってもゾンビなので汚らしいが――もあった。
窓から顔を引っ込めて、後ずさりする。
どういうことだ?ゾンビ・パンデミックが起きた時、中庭はあんなことになっていなかった。ゾンビが、ここから飛び降りたとでもいうのか?何の為に?ゾンビが自殺なんてするのか?すでに死んでいるのに――と、その時、
「……!」
横の壁に貼り付けてある、標語のポスターが目に入った。
〝優しく、思いやりを持とう〟という安っぽい文言。それが、乾いた血飛沫と血の手形で汚れている。
これは、僕がロックを聴きながら大量のゾンビたちを殺した時に付いたものだ。一番最初に――初めてゾンビを殺した時に飛んだ血飛沫と、よろめいて突いた左手の手形。
忘れていない。今でも、はっきりと覚えている。これは確かに、僕が付けたものだ。
左手をポスターの手形にあてがうと、ぴったりと合った。
……つまり、僕はここで確かにゾンビたちを殺して――でも、だとしたら、ますます分からない。なぜ死体が消えている。なぜ中庭があんなことになっている。
一体、何が現実で、何が夢で、何がどうなって―――、
「あかる、どうしたんだよ。さっきから、なんか変だぞ」
不意に、サキナさんが僕の額にぺたりと手を当てた。
「熱くはねえけど、気分でも悪いのか?いつかみたいに、急に倒れたりしねえだろうな?」
「い、いや……大丈夫です」
しどろもどろに答えると、考えるのをやめた。わけが分からないが、これ以上考えていたら、本当に気分が悪くなってしまう。答えが出ないことを、あれこれと引きずる必要は無い。
それに、いま見えているこの世界が、夢のはずがない。額に触れているサキナさんの手の感触が、温もりが、夢のはずがない。
これは、現実だ。
紛れもなく、これは現実なのだ。
「それより、ここが僕の教室です」
向き直ると、気を取り直して教室の扉を開けた。
中に入ると、むわりと熱気がこもっていた。人がいなくなって久しいはずなのに、制汗剤や生活臭、汗の臭いが入り混じった、真夏の教室という独特の臭いが染みついたままになっている。その中に、僅かに腐臭が混じっていた。
「こんな感じなんだな……」
サキナさんがしげしげと、教室を眺めた。机や椅子が倒れていたり、荷物が散乱していたり、血やガラス片が飛び散ったりしているので、これがいつも通りの教室というわけではないが。
「第一中とは、何か違うんですか?」
熱気を逃がす為に、窓という窓を開けて回った。ふわりとカーテンが揺れて、風が吹き込んでくる。
「ああ、第一中はこんな机じゃなかった。もっとボロっちくて、貧乏くさいんだ。やっぱり、第二中の方がエリート学校だな」
「……そうなんですかね」
第一中には行ったことがないので分からない。
「あかる、お前の席はどこなんだ?」
「えっと、ここです」
自分の席に向かうと、机の上には教科書と、宿題のプリントを入れたファイルが放り出されていた。そういえば、こんな物もう必要ないと、ここに捨てていったのだった。
椅子を引いて席に座ると、サキナさんは隣の席に座った。
「それ、宿題か?」
「はい」
「……何だこりゃ。さっぱり分かんねえぞ」
サキナさんがプリントとにらめっこを始めた。この間まで数学の授業で習っていた二次方程式の問題集だ。
「えっと、多分これは因数分解を使って……」
「なんだ、インスーブンカイって」
「え、えっと、確か積が0になるように……」
床に落ちていた数学の教科書を拾い上げて開くと、因数分解のページを探した。
「あった、これです。えっと、2数の積が0になるのは、どっちかが0の場合だけだから……」
「どういうことだ?セキって何だよ、セキって」
「積は乗法の結果ですよ。ようするに、掛け算の答えです」
「ああ、九九の答えってことか」
「……言い得て妙ですね」
「なんだコラ!お前、さっきからバカにしてるだろ!」
「ええっ!?そ、そんなこと」
「うるせえ!小難しいことばっか言いやがって!」
「わあっ!」
デコピンが頭にクリーンヒットした。
「俺、一年の夏から行ってねえんだぞ!もうちょっと分かりやすく言え!」
「わ、分かりやすくって言われても……。えっと、分数は分かりますよね?」
「バカにすんなよ。2分の1たす2分の1は1ってやつだろ。半分のリンゴと半分のリンゴを合わせたらひとつのリンゴになるからな」
「……ふふっ」
「あ!お前、またバカにしたろ!」
「し、してませんってば!そんな覚え方してる人いるんだって思っただけで」
「結局バカにしてんじゃねえか!こいつっ!」
「う、うわああっ!」
デコピンを喰らいそうになり、慌てて椅子から立ち上がった。
「待てコラ!」
「うわーっ!」
追いかけられ、教室の中を逃げ惑った。
はしゃぐ僕たちを、窓から吹いてくる夏の風が、呆れたように撫ぜていった。
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