第4章 —世界—

1:NIGHTMARE RETURNS

 ——―目が覚める。というよりも、意識を取り戻す。

 ここは、どこだ?

 ……ああ、学校か。

 そうだ、あれから、ずっと、学校を彷徨っていて……。

 記憶が曖昧だ。脳味噌がまともに働いていない気がする。

 この、生きているか死んでいるか分からない身体に成り果ててから、ずっと。

 ……え?

 何だ、これ。

 なんで、僕は、学校にいるんだ?

 生きているか死んでいるか分からない身体って、なんだ?

 ここは……廊下だ。各学年の教室がある、二階の廊下だ。

 慌てて、近くにあったトイレへと駆け込んだ。手洗い場の鏡で、自分の姿を確認する。

 いつも着ていた制服。生白い肌。冴えない表情を浮かべた顔。

 その、死んだ魚のような眼が、白く濁っていて―――、

「う、うわああああっ!」

 な、なんで、僕は、ゾンビ?

 そんな、まさか、嫌だ、そんなはずが―――、

 思わず、後ずさりをすると、身体がヨタヨタとふらついた。

 まるで、ゾンビのように。

「う、うあ、あああっ……」

 おぼつかない足取りで、逃げるようにトイレから飛び出した。膝に手を突いて、はあはあと息を荒げていると、


 ——―ガラガラッ


 扉が開く音がした。顔を上げると、僕の――二年一組の教室から、誰かが出てくるところだった。

 あれは―――、

「……林田さん?」

 紛れもなく、林田さんだった。こちらに背を向けたかと思うと、誰もいない廊下の向こうの方へ歩いていってしまう。

「ま、待ってっ」

 追いかけて、走り出す。が、足が上手く動かない。踏み出す度に、ふらついてしまう。そのせいで、追いつくことができない。

「林田さんっ、林田さんっ!」

 必死に呼び掛けたが、林田さんは立ち止まってくれなかった。スタスタと、振り向きもせずに廊下を進んでいく。

「はあっ、はあっ……」

 廊下の窓には、自分の姿が反射して映っていた。が、その目を、どうしても見ることができなかった。

 僕は、違う、そんなはずない、僕は、僕は―――、

「うあっ!」

 足がもつれて、どたんっ、と前のめりに転んでしまった。痛みを堪えながら、立ち上がると、

「……え?」

 そこは、体育館だった。なぜか、だだっ広い体育館のど真ん中に突っ立っている。

 周りには、大勢の人間がいた。学校の人たち――全員、ゾンビだ。僕を囲むようにして、身体を揺らしながら立っている。中には、僕が殺したはずの者もいた。

 なんで、どうして―――、

「ねえ」

 後ろで、声がした。

 振り返ると、そこには、林田さんが立っていた。

 不自然なほど白い肌に、血で汚れた口元、白く濁った眼。

 この状況は、まるで、あの時の―――、

「どうして、あなたのことが見えなきゃいけないの?」

 林田さんが、無表情で僕に向かって言った。

「え?」

「あなたみたいな人間が、私に見えるとでも思ってるの?」

「な、何を――」

「気持ち悪い。なんで、あなたみたいな人間のことが見えなきゃいけないの?見えてほしかったの?いてもいなくても何も変わらないような人間のくせに?それはちょっとおこがましいんじゃない?」

 林田さんは、僕の方へツカツカと歩み寄って来ながら、

「それに、お兄さんから言われたから、みんなあなたのことを無視し始めたけど、それがなくたって大して変わらなかったんじゃないの?あなたの扱いは」

 こちらを見向きもせず、冷たい声色で言い放った。

「そ、そんなこと……」

「きっとそうよ。あなたなんて、この世界に要らない人間だったのよ」

 林田さんはそう吐き捨てると、僕のすぐ横を通り過ぎて、ゾンビの群衆の中へと消えて行ってしまった。

 まるで、あの時と同じように、僕のことが見えていないかのように。

「は、林田さんっ!待って――」

「おい」

 不意に、グンと足を掴まれた。下を向くと、

「このクソ陰キャ、よくも俺を殺しやがって」

 全身血まみれの井之内くんが、這いつくばって僕の足を掴んでいた。

「うわああああっ!」

「せっかくゾンビだらけの学校で命からがら生き残ってたのによぉ。お前のせいでゾンビになっちまったじゃねえかよぉ」

 顔面をズタズタに噛まれている井之内くんが、白い目で恨めしそうに僕を見上げる。

「しかも俺を殺した後、ゲラゲラ笑ってやがったよなあ。許さねえ、許さねえ、許さねえ許さねえゆるさねえゆるさねえ……」

 逃れようと藻掻いたが、井之内くんは離してくれなかった。がっちりと僕の足を掴み、機械のように無気味に同じ文言を繰り返して――と、周りにいた大勢のゾンビたちが全員、ヨタヨタと僕に向かって迫ってきているのに気が付いた。

「く、来るなっ!来るなあっ!」

 腕を振り回したが、ゾンビたちは一切怯まなかった。僕に取り縋り、押し潰すかのように圧し掛かって来て―――、

「うわああああああああああああっ!」

 叫んだ瞬間、背中に風を感じた。耳元で、ヒュウウと音がする。髪が、バサバサとはためいて――落下している?


 ——―どべちゃっ


 という音がして、身体が叩きつけられた。

「ううっ……」

 何が起きた、何が……。

 全身の鈍痛を堪えながら、顔を上げ、辺りを見渡す。

 ここは……YOUトピア?

 這いつくばったまま、上を見上げた。各フロアが一望できる吹き抜けの景色。

 これは、あの時、一階で倒れた時の――と、大勢が僕を見下ろしていることに気が付いた。各フロアに隙間なくずらりと並んで、下を覗き込んでいる。

 よく見ると、その群衆は、すべてマネキンだった。それぞれがそれらしき服を着ていたが、顔は一様に、目も鼻も口も無い、表面がつるりとしたのっぺらぼうだった。


「あかるん」


 不意に声がして振り返ると、リコさんが立っていた。悲し気な目で、僕を見つめている。

「ねえ、何でリコのこと、殺したの?」

「……え?」

「リコ、ちゃんと真奈子と一緒の写真持ってたでしょ?あれ、宝物だったの。ずっと大切に持ってたんだよ?あの時、確かに真奈子に酷いこと言っちゃったけど、本当は仲直りしたかったの。真奈子と一緒にいたかったの。もうできなくなっちゃったけど。……あかるんがリコのこと殺しちゃったから」

 ぞくりと、背中を冷たいものが這いまわった。

 息が上手くできなくなっていく。

「酷いよ、あかるん。リコ、まだ誰ともキスしたことなかったのに。あんなことするなんて酷いよぉ……」

 突如として、リコさんの眼が白く濁った。口元に噛み痕の傷が浮いて、真っ赤な血で汚れていき、どす黒い涙が頬をどろりと伝う。

「あ、ああっ……」

「あんな殺し方するなんて、酷いよぉおおっ!」

「うああああっ!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……!」

 頭を抱えて、土下座をするように縮こまり、謝罪の言葉を繰り返した。耳が、頭が、心臓が、ズキズキと痛みに疼く。

「ヴぉおおっ!」

 不意に、怒鳴るような呻き声がして、首根っこが掴まれた。肩を、腕を抱えられて、無理矢理、顔を上げさせられる。

 アトくんと、アラみーと、ポッちゃんが、僕を押さえつけていた。プンと、腐臭が鼻に付く。

 そして、リコさんが、歩み寄って来て、僕に、血だらけの顔を、グイッと近付けて―――、

「酷いよおおおおおおおおおっ!」

「うあああああああああああっ!」


 ——―ブツンッ


 と音がして、突然、辺りが真っ暗になった。途端に、抱えられていた身体が解放され、地面に倒れ込む。

 慌てて顔を上げるが、誰もいなかった。気配すら無い。ただ、黒く塗り込められた空虚な空間が広がっていた。

 照明が落とされたのか?

 いや、落ちたのは、僕の意識の方なのだろうか?

 おずおずと立ち上がった瞬間、


 ——―コツ、コツ、コツ……


 足音が、背後から響いた。誰かが、近付いてくる。

「だ、誰?」

 黒い空間に、浮かび上がるようにして現れたのは、

「誰って……僕は、君だよ」

「なっ……」

 僕だった。

 微笑を浮かべるそいつは、紛れもなく、僕だった。

 鏡でもあるのかと思ったが、違う。鏡ならば、目の前の僕は困惑した表情を浮かべているはずだ。

「なんで、僕が――」

「なんで、じゃないよ。僕は、君に言う事があって来たんだ」

「言う事?」

「うん」

 僕は、僕の目の前で立ち止まった。

「君、本当に血の通った人間なの?」

「……え?」

 硬直していると、目の前の僕は微笑みながら続けた。

「君、まともな人間じゃないよ。血の繋がった父親と母親を、眉一つ動かさずに殺すなんてさ。しかも、あんなに惨たらしく」

「そ、それは――」

「もうゾンビになってたからいいだろって?死んでたからいいだろって?普通じゃないよ、そんな考え方」

 目の前の僕は、ケラケラと笑った。

「で、でも、サキナさんも――」

「惨たらしく殺してただろって?あれには、正当な理由があったじゃないか。サキナさんは酷い虐待を受けてたんだ。でも、君は?単に無視されてただけだろ。虐げられてはいたけど、程度が違う。暴力なんて振るわれてない。なのに、あんなにもグチャグチャにしちゃってさ」

「……っ」

「それに、父さんや母さんはまだしも、照兄ちゃんは——」

「やめろっ!」

「ふふ、どうしたの?そんなに大声出して。事実じゃないか。君が、照兄ちゃんを殺したのは。その時も、眉一つ動かさなかった。涙一滴、流さなかったじゃないか」

「……」

「はは、反論の余地もないよね。僕は、君自身なんだから」

「……僕は」

「涙を流したことがあるから、まともな人間だって?でも、君が泣いたのって、君自身が傷付けられたり、怖かったりした時だけだろ?学校で閉じ込められた時も、サキナさんの傷痕を見た時も、その後、拠点で独りでメソメソ泣いた時も、君は君の為に泣いたんだ。誰かの為じゃなくて、君自身の為にね」

「……そんなことない」

「正直になれば?君は、自分のことしか考えられないんだ。いっつも僕、僕、僕。どんな時も僕、僕、僕って、自分のことばっかりで、他の誰かの為に涙を流せないんだよ。どんなに酷い扱いを受けてたからって、血の繋がった家族を殺した後に、涙の一滴も出ないなんて、異常な人間だよ。しかも、その後、飄々と振舞ってたじゃないか。すぐに家を出ようとしてたし、呑気に缶詰まで食べてた。普通、家族を殺した直後に食事なんて受け付けないよ。サキナさん、君の振舞いにドン引きしてたじゃないか。サキナさんは実の父親を殺した後、どうなった?泣き叫んでただろ。あれが普通の人間の振舞いなんだよ」

「……僕が、異常だっていうのか」

「うん」

「そんな、そんなわけないっ。僕は、あいつらから、ずっとずっと無視されてたんだっ!家族なのに、僕を見えない者扱いして虐げてきたのに、許せっていうのかっ!あんな奴らの為に悲しめっていうのかっ!涙を流せっていうのかっ!」

「ふふっ、化けの皮が剥がれてきたね」

「うるさいっ!僕はっ――」

「じゃあ、井之内くんとリコさんは?」

 僕が、僕を遮る。

「なんで、二人を惨たらしく殺したの?せっかく生き延びてた人たちだったのに」

「そ、それは、二人とも僕のことを殺そうと――」

「父さんたちは、お前のことを殺そうとしてないぞ」

 背後で、声がした。

 振り返ると、二つの人影がぼんやりと浮かび上がっていた。

 あれは、父と、母だ。

「いくらゾンビになっているとはいえ、実の父親にあんなことをするなんて、やっぱりお前は照とは違うな。照なら、あんなことはしなかったはずだ。真面目で、頭が良くて、責任感もあって、そして何よりも、優しい子だからな。お前とは大違いだ。お前なんか、透野家の人間として認めない。照だけが、父さんの自慢の息子だ」

「いくらゾンビになっているとはいえ、実の母親にあんなことするなんて、信じられない。やっぱり、照の言う通り、お前のことなんて見えない者扱いして正解だったわ。いてもいなくても変わらないような人間ってだけでも透野家の恥なのに、犯罪者予備軍の異常者が家族の中にいたなんて」

「……父さん……母さん」

「気安く呼ぶな。お前なんか家族じゃない」

 父と母の間に、人影が浮かび上がる。

 あれは———。

「……照兄ちゃん」

「何が兄ちゃんだ。お前なんか家族じゃない。お前なんか俺の弟じゃない。お前みたいな、最低の人殺しは」

「人殺し」

「人殺し」

「人殺し」

 口々に言う父と母と兄の後ろに、次々と人影が浮かび上がっていく。林田さんに、井之内くんに、リコさんに、アトくんに、アラミーに、ポッちゃんに、僕が学校で殺した大勢の人たち。

「人殺し」

「人殺し」

「人殺し」

「人殺し」

「人殺し」

 みんなが、声を合わせて僕を責め立てる。

「ち、違うっ!」

「違わないよ」

 振り返ると、僕の顔が、息がかかりそうなほど目の前にあった。

「君は人殺しの異常者なんだよ。血の通ってない冷徹人間。普通の人間じゃない。まともな人間じゃないんだよ」

 その顔は、嘲笑うような表情を浮かべていた。

「……そんな」

「認めなよ。普通じゃないってさ」

 もう一人の僕はニヤニヤと笑いながらみんなの方へ歩いて行き、兄の横に立った。自分こそが、透野家の一員だと言わんばかりに。

 呆然としていると、突然もう一人の僕が、僕の顔を指差した。

「ほら、言わんこっちゃない。見てみなよ、その顔」

 ———え?

 と、声を出そうとして、出なかった。なぜか、口から空気が出て行かない。口だけじゃなく、鼻も塞がれたかのように、空気が出て行かなかった。上手くできていなかった息が、完全にできなくなっている。

 どうして、と口元に手をやったが、違和感を感じた。何かが変だ。顔が、僕の顔が———。

「後ろを見なよ」

 もう一人の僕に言われて、振り返ると、そこには大きな鏡があった。

 これは、家のリビングにあった姿見だ。僕が、映り込んで———、

「……っ!?」

 僕の顔が、無かった。

 目も、鼻も、口も、眉毛も、何も無かった。

 まるでマネキンのような、つるりとした冷たい表面だけが、そこにあった。

 慌てふためき、顔を掻き毟ったが、指はつるつるとした表面をなぞるばかりだった。

 息ができない!

 表情が作れない!

 悲鳴を上げようにも、上げられない!

「血の通ってない人殺しに、顔なんて要らないでしょ?だから、貰ったよ。君の顔」

 姿見越しに、もう一人の僕がケラケラと顔を歪ませて笑った。

 つられて、みんなも笑い出した。鏡の中に、顔を押さえてもがく僕と、それを見ながら顔を歪ませて笑うみんなが映り込んでいた。

「……っ!」

 嫌だ、どうして僕の顔が、そんな、そんなっ、嫌だっ!

 マネキンみたいだったのは、血の通ってない冷徹人間だったのは、あいつらの方なのにっ、なんで、僕が、なんで、どうしてっ!

「だから違うんだって。君の方が異常だったんだよ」

「っっっっっっっ!」

 僕は、鏡の前で、無音の悲鳴を、絶叫するように———。




「うああああああああああああああっ!」

「あかる、あかるっ!」

 飛び起きるように目覚めると、サキナさんに肩を掴まれていた。

「はっ、はっ、はっ、はあっ……」

「大丈夫か?ずっとうなされてたぞ」

 サキナさんが、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

 僕の顔?僕の顔……。

「……っ!」

 転がるようにクローゼットを出ると、トイレの傍の洗面台に飛びついた。

 僕の、僕の顔はっ!

「…………はあっ」

 鏡には、汗をびっしょりと掻いた僕の顔が映りこんでいた。

 目も、鼻も、口も、眉毛も、ちゃんとある僕の顔が。

「あかる、どうしたんだ?」

 鏡越しに、困惑した表情を浮かべるサキナさんが見えた。

「……いえ、何でもないです」

 ふらふらと、クローゼットに戻った。床に広げていたはずのタオルケットが、ぐちゃぐちゃにのたくっていた。きちんと敷き直してから、座り込む。

 なんだか気分が悪い。寝起きだからだろうか。いや、違う。悪夢のせいだ。

 いつか、YOUトピアで倒れた時に見た生々しい悪夢とそっくりで――いや、あれよりも酷かった。

 あの時は、ゾンビになっても自我を保って学校を彷徨い続けていて、最後に林田さんの姿を見つけて、追いかけて、追いかけて、追いつけなくて……そこで終わった。終わったのに、今度のは、続きがあった。

 それも、これまで経験してきた出来事と、僕を虐げてきたありとあらゆる現実と、僕の犯してきた罪と、僕の自意識が、境目も分からなくなるほどぐちゃぐちゃに混ざり合って、立て続けに襲い掛かって来て、最後には、僕の顔が……。

 掌で顔をなぞった。凹凸がある。熱を帯びている。瞼越しに動く眼球がある。鼻と口が開いている。息をしている。汗を掻いている。

 僕は、生きている人間だ。血の通っていないマネキンなんかじゃない。

「顔色悪いぞ、本当に大丈夫なのか?」

 サキナさんが差し出してきたタオルを受け取ると、顔の汗を拭いた。

「……はい」

 ペットボトルに残っていた水を飲み干す。昨日の夜から放置していたせいか、酷くぬるい。

「……もう、出ましょう」

「は?」

「出ましょう、ここから、この家から」

「……あかる、無理しなくたっていいんだぞ?もう少し、ここで休んでいっても――」

「出ましょう」

「……分かった」

 しまった、きつい言い方をした、と後悔したが、それでも、僕は一刻も早くここを出たかった。

「先に玄関で待っててください。着替えて行きますから」

 リュックの中から、着替えの下着を取り出した。クローゼットの隅に元から畳んで置いていた制服を手に取り、パタパタと埃を払う。

「あ、ああ。じゃあ、先に行ってるからな」

 サキナさんが廊下を抜けて階段を下り切った気配がした後、独り、クローゼットの中で立ち尽くした。

 孤独が充満している。追いやられたこの狭苦しいクローゼットの中で、僕は、ずっと、何を思っていただろうか。

 目を閉じた。

 僕は、これから、ここを出る。恐らく、二度とここに帰ってくることは無い。

 これから、僕は———、

「……っ」

 瞼の裏の暗闇に、悪夢の光景を幻視して、身が震えた。

 もう、行かなきゃ。

 下着と制服を新しいものに着替えると、荷物をまとめてクローゼットを出た。そのまま廊下を抜けて、階段を下りようとして――ふと振り返った。

 一番奥の扉を見る。兄の部屋の扉を。

 あの向こうで、兄は死んでいる。

 僕が、この手で、殺した。

 扉を見つめながら、今は亡き兄への思いを巡らせた。憎しみ以外にも、感じていたものはあるはずだった。

 でも、いくら思いを巡らせようとも、涙が出る気配は無かった。

「…………」

 諦めて、階段を下りた。

 〝認めなよ。普通じゃないってさ〟

 悪夢の中で自分自身に言われた言葉が、脳裏にこびりついていた。

 そんなはずはない、そんなはずは。

 僕は、血の通った人間なんだ。

 あんな、マネキンなんかじゃない。

 僕は、普通の、人間なんだ。

「もういいのか?」

 気が付くと、玄関に辿り着いていた。

「はい。行きましょうか」

 扉を開けたサキナさんに続いて外に出ると、燦々と太陽が照り付けていた。路面も、水溜まりを所々に残すばかりで、ほとんど渇いている。雨は早い内から止んでいたのだろうか。

 すうう、と深く息を吸った。

 サキナさんのように、深呼吸したら気分が変わるだろうかと思ったが、ただ単に湿気の含んだ空気を吸い込んだだけだった。

 ため息のように、虚しく息を吐く。

「これから、どうしましょうか?」 

 純粋な疑問を、サキナさんに投げかけた。

 もう、僕たちのやらなければならないことは、やり遂げてしまった。YOUトピアは崩壊してしまったし、帰る場所もない。

 この世界に、僕たちの居場所はあるのだろうか?

 この世界で、これから何を目的に、どうやって生きていけばいいのだろう。

「……あかる」

 気が付くと、サキナさんはしげしげと僕の全身を眺めていた。

「は、はい?」

 何だろう。僕の制服姿に、何か問題があるのだろうか。

「俺……、学校に行ってみたいんだ」

「……へ?」

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