10:THE VISIBLE
完璧な人間。
兄を表現するのに、ぴったりな言葉だ。
成績優秀、才色兼備、文武両道、頭脳明晰、容姿端麗。言い出したらキリがないが、兄はそんな言葉が似あう人間だ。
何をするにしても、みんなと比べて頭一つ抜け出ている。人気があって、人望があって、リーダーシップがあって、いつもみんなの中心にいる存在。
誰もが認める、みんなにとっての、憧れの的。
でも、僕にとって兄は、大きな脅威以外の何者でもなかった。
物心ついた時には、兄は小学生だった。その頃から既に、幼い僕にとって、兄は巨人のように映っていた。
すべてにおいて、自分よりも上手な存在。力も、知恵も、ずっとずっと大きく、敵わない存在。
兄弟なら、当たり前のことだろう。先に産まれた方、年齢が上の方が、すべての物事において経験が豊富なのだから、一歩先を行くのは当然のことだ。
だが、兄は違った。
一歩どころではなく、ずっと遠くにいた。手など伸ばしても、駆け寄ろうとしても、無意味だった。それほど、届かない存在だった。
そして、兄は恐らく、それを自覚していた。
幼い頃から、兄は僕を見る時、常に見下げていた。
その目は、この愚かで小さな生き物は、どうして生きているのだろう、どうしてこんなに無力で無価値な生き物が、自分の弟として存在しているのだろう、と語っていた。
もちろん、家族なのだから、兄弟なのだから、会話もしたし、一緒に遊んだこともある。面倒を見てもらったこともある。喧嘩など一度もしたことが無い。些細な言い合いすら、した覚えが無い。
でも、僕と接する時の、僕を見つめる兄の目は、常に冷え切っていた。表情も言葉も穏やかなものだったが、その目の奥にはいつも、ぬるりとした感情が宿っていた。
それは、嘲笑や愚弄、侮蔑といった、悪意だった。
こんな奴、消えてしまえばいいのにという、願望だった。
僕の被害妄想だろうか?
兄に直接、そう思っているのかと訊いたことは一度も無い。
でも、僕は確信していた。血の繋がった実の兄弟だからこそ、分かっていた。
兄は僕を弟として認めていないということを。
だから、僕は兄と心を通わすことを早々に諦めた。話しかけず、距離を置き、兄の領域に踏み込まないようにした。事務的な会話をする以外には、ほとんど口を利かなかった。
そうこうしている内に、冷え切った兄弟関係が出来上がっていった。お互いに感情を見せることなく、表面的に兄弟を演じているようだった。
でも、何年経っても、僕を見つめる兄の目には、悪意が宿り続けていた。
そんな眼で見ないでよ。
僕のことをちゃんと認めてよ。
血の繋がった、実の弟でしょ。
そんなことを言えば、兄は変わっただろうか。
今となっては分からない。冷え切った兄弟関係を続けている内に、ウォークマンをきっかけとして、僕は兄から一方的に縁を切られてしまった。誰からも見えない者として、仕立て上げられてしまった。
あの時、なぜ兄があんなに激昂したのかは分からない。が、恐らく兄は、機会を待っていたのだと思う。
僕という存在を世界から抹消する機会を。
完璧主義者の兄にとって、中途半端な弟は要らない。完璧な自分とは違い、何をやっても人並みな弟の存在など、目障りだ。
そう、目障り。だから兄は、僕を見えない者にしたのだ。
完璧主義者の兄は、容赦しなかった。徹底的に、僕を世界から消し去ろうとした。家の中からも、外からも、ありとあらゆる手を尽くして、僕を見えない者にした。
考えてみれば、あり得ないことだと思う。一人の中学生が、大勢の人間を扇動して操るなど。それも、小学生や中学生ならまだしも、両親や教師といった大人すら思いのままにするなど。
でも、僕は、兄にならできることだと思っていた。
なんたって、あの兄なのだから。
兄は、それほどの存在だった。どんなに困難な目的であろうと、完璧にやり遂げることができる天才だった。兄に不可能など無い。そう思えるほど、兄は絶対的で完全無欠の人間だった。
でも、どうしてそんなにも、僕を消し去りたかったのだろう。見えない者にしたかったのだろう。
僕のことが憎かったのだろうか。
実の弟だというのに。
実の弟だったからこそ、憎かったのだろうか。
父と母から、特別可愛がられた記憶も無いというのに。
もちろん、これは憶測だ。兄の真意は分からない。
でも、どちらにせよ、僕を見えない者にしたのは、孤独に毒されるようにしたのは、世界から無視されるようにしたのは、他でもない、兄だ。
だから僕は、兄のことが憎かった。
父と母から愛され、期待される兄が憎かった。
みんなから羨望の眼差しで見られる兄が、憎かった。
そして、なによりも、僕を透明な存在にした兄が、憎かった。
でも、それと同じくらい、僕は兄に認めてほしかった。
お前は、僕の可愛い弟だと。
お前は、僕の自慢の弟だと。
お前は、僕の大切な弟だと。
僕の眼を見て、そう言ってほしかった―――。
兄の部屋の中は、真っ暗だった。
部屋の奥の、カーテンが閉め切られた窓から、僅かに差し込んでくる光と、開いた扉から差し込む廊下の薄明りが挟み撃ちのように、その暗闇をぼんやりと暴いていく。
やがて、おぼろげながらに部屋の中の輪郭が現れ始めた。
ベッド、本棚、パソコンデスク、ディスプレイラック、システムラックを兼ねた勉強机。暗闇に紛れていたそれらが、徐々に露わになっていく。
セミダブルのベッドの上には、タオルケットがきちんと畳まれて置かれていた。本棚には、参考書類がきちんと分けて並べられている。パソコンデスクの上のモニターには、メモらしき付箋が貼り付けてある。ディスプレイラックにはどの段にも、トロフィーや表彰楯が並んでいる。
そして、奥のシステムラックを兼ねた勉強机に、誰かが座っていた。
誰か——分かっている。椅子に座り、背中を丸めて机に向かうその人影は、紛れもなく兄だ。
いつの間にか止まっていた息を、静かに吐いた。視線を下げる。まだ、自分は廊下に立っている。
一歩。たった一歩踏み出せば、兄の部屋、兄の領域だ。もう長いこと、この境界線を越えていない。
「…………」
ゆっくりと、踏み出した。スニーカーの底が、キュリリとフローリングを鳴らした。
一歩、二歩。とうとう部屋の中に入ると、顔を生温い空気が撫ぜた。長いこと滞留していたであろう、死んでいる空気だ。吸い込まないように、また息を止める。
とうとう部屋の真ん中まで来たが、人影はピクリとも動かなかった。じっと勉強机に向かったまま、こちらを振り向こうともしない。
カラカラに渇いた口の中で、舌が震えていた。背筋にぞわぞわと冷たいものが走り、心臓が静かに鼓動を早めていく。
……落ち着け。
そう自分に言い聞かせると、目を閉じた。
覚悟を決めて、息を短く吸う。
「
もう何年も口にしていない呼び方で、兄を呼んだ。
人影は、動かなかった。勉強机に向かったまま、振り向かなかった。
薄暗い部屋の中が、沈黙で満たされた。逸る心臓の音だけが、胸の奥で響いていた。
この瞬間が、いつまでも続くのか―――、
———カチャ……
と、人影が椅子を引いた。
瞬きができなくなり、目が離せなくなる。
人影は、ゆっくりと立ち上がった。椅子が脚で押されてキシキシと力なく転がり、止まると、人影も同じように立ったまま、沈黙した。
いったいどれくらいの間、そうしていたのかは分からないが、やがて人影はゆっくりと、こちらを向いた。暗闇に紛れていて、顔は見えなかった。
人影はそのまま、椅子を避けて静かにこちらに向かってきた。ゆらりゆらりと、足音を立てずに歩いてくる。
金属バットを握る手に、汗が滲んだ。力んだせいで、ギリギリと掌の皮膚が悲鳴を上げたが、痛みは感じなかった。
とうとう、金属バットが届きそうなほど目の前まで来ると、人影はピタリと立ち止まった。力なく直立したまま、何をするでもなく、その場に立ち尽くした。
背後の扉から差す光が、人影の首から下をぼんやりと照らし出していた。
制服。高校の制服だ。校章入りの白いシャツに、黒いチェック柄のスラックス、青いストライプ柄のネクタイ。
父と違って、不自然なほどにシャツは真っ白だった。皴ひとつなく、ネクタイもきちんと締められている。血の一滴も付いていない。
「……照兄ちゃん」
もう一度、呼びかけた。
表情は読めなかった。どれだけ目を凝らしても、顏だけが暗闇に紛れて見えなかった。
「……これ」
ポケットの中から、ウォークマンを取り出し、差し出した。
「……ずっと、返さなきゃって思ってたんだ」
兄は無反応だったが、構わずに続けた。
「あの時、本当に、盗もうとしてたわけじゃなかったんだ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、音楽を聴いてみたかっただけなんだ。だから……」
兄は、無反応だった。
「悪いとは思ったけど、借りていったんだ。帰ったら、すぐに返して、謝るつもりだったんだ……」
兄は、無反応だった。
「……ごめんなさい」
兄は、無反応だった。
「羨ましかったんだ。照兄ちゃんだけ、色々買ってもらえるのが……」
兄は、無反応だった。
「……僕も、照兄ちゃんみたいに——」
突然、兄が、一歩前へ踏み出した。
背後の扉から差す光が、とうとう兄の全身を暴いた。
兄には、顔が無かった。
顏が、無かった。顔中の皮膚が、剥ぎ取られたように失われていた。
口も無く、鼻も無く、眉も無く、赤黒く塗りたくられたマネキンのような顔が、そこにあった。
ただ———、
唯一、
目だけが、残されていた。
兄は、残された二つの目で、ウォークマンを見下げていた。
「……照……兄……ちゃん」
震える声で、兄を呼んだ。
手の中で、ウォークマンが鈍く光っていた。
兄は、
兄は———、
兄は—————、
「……………………」
兄が、ゆっくりと視線を上げた。
僕を、見下げる、その眼は—————。
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