9:REMAIN TRANSPARENT
初めて、親の自分に対する扱いが兄と違うと感じたのは、五歳の時だった。
記憶はおぼろげだが、確かその頃だったと思う。
家族でおもちゃ屋に行った時のことだ。兄が組み立てブロックおもちゃの大箱を抱えて、両親の下に駆けて行き、買って買ってとねだり始めた。父と母は呆れたような顔をしていたが、兄はテストの点数がどうとかこうとかと言って交渉していた。やがて、許しを得たのか、父がその大箱を抱えて兄の頭を撫でた。
僕はそれを見て羨ましくなり、同じ組み立てブロックの商品が並ぶ陳列棚から、一番値段が低い小さな箱を持っていった。
今でも、これだけは、はっきりと覚えているが、その時、僕は遠慮したのだ。
その頃にはもう、箱に貼り付けてあるシールの数字が何を意味しているのか、理解していたからだ。箱の大きさに関係なく、僕はその数字が一番小さなものを抱えて両親の下へ行った。
僕は、これがいい。
僕が言ったのは、それだけだった。その頃の僕に交渉なんかできやしなかった。ただ、欲しかったから欲しいとねだった。ただそれだけのことだ。
買ってもらえると思っていた。兄のものと比べたら、酷くちっぽけな箱だったし、貼り付けてあるシールの数字も、うんと低かったからだ。
でも、僕の願いは叶わなかった。
戻してきなさい。
父のその一言で、あっけなく僕の願いは却下された。
母に手を引かれる兄が、満面の笑みで僕を見ていたのが忘れられない。
結局、僕は大して興味もないヒーローのビニール人形を買い与えられた。チープな明るい色のコスチュームを着て笑顔を浮かべる安っぽい人形が気に入らなくて、僕は遊びもせずに、おさがりのおもちゃ箱に突っ込んだ。
今にして思えば、それは真っ当なことだったのかもしれない。その組み立てブロックおもちゃの対象年齢は、七歳以上だったからだ。そういう意味では、両親は僕を正しい道に導こうとしていたのかもしれない。直接訊いたことはないので、真意は分からない。
でも、それをきっかけに、僕は兄との扱いの差をぼんやりと理解し始めた。
買い与えられる物の差や、お小遣いの差。両親が他人に僕たち兄弟を紹介する時の言い方や、要望に対する扱い。
仕方がないと思うこともあった。兄とは、年齢が三つ離れている。どうしたって、差はあるだろうと思っていた。お小遣いも、兄とは買う物のレベルが違うし、服なんかの日用品も、兄のおさがりになるのはしょうがないことだと。
でも、両親の兄と僕に対する接し方で、決定的に違うものがあった。
それは、目線。
両親は兄と話す時は必ずしゃがみ、目線を合わせていた。
でも、僕と話す時は、両親はしゃがまなかった。必ず、僕を見下げながら話をした。こっちを見向きもしない時もあった。
そんな扱いの差は、小学生になり、学力テストの点数や通知表の結果を報告する度に広がっていった。
父も母も、僕に期待していたのだろう。自分たちのように、完璧になってほしいと。兄のように、優秀な人間になってほしいと。
でも、僕は何をやっても人並みだった。
というより僕は、どうせ何をやっても兄と扱いが変わることはないのだから、と無気力になっていた。何かを頑張ったところで、結局兄の方が上手くやるのだからと、何かに対して努力することを諦めていた。
そんな無気力な態度が拍車をかけたのか、僕は両親から何も期待されなくなっていった。やがて、名前すら口にされなくなり、お前と呼ばれるようになった。
僕は、別にそれで良かった。
ため息をつかれることがなくなったし、兄と比べられることもなくなって、嬉しかった。兄とは出来が違うのだから、僕のことなんか放っておいてほしいと思っていた。
でも、心のどこかで、僕は思っていた。
両親に、僕を見てほしいと。僕の名前を呼んでほしいと。僕と話をしてほしいと。僕のことを褒めてほしいと。僕のことを認めてほしいと———。
まず、目に飛び込んできたのは、ソファーに座り込んだ父の姿だった。
ガラス製のリビングテーブルの向こうに置かれた、黒い革張りの一人掛けソファー。父しか座ることを許されていない特等席だ。肘掛けに、スーツの上着が掛かっている。
俯いていて、顔は見えなかった。両腕をだらりと股の間に放り出したまま、ピクリとも動かない。
疲れて眠っているかのようにも見えたが、白いYシャツにはどす黒い血の染みが浮いていた。左腕の袖口から肩にかけて、血飛沫の跡がある。それ以外にも、黄ばみのような染みがあちこちに浮いていた。ネクタイは緩んでだらりと垂れており、毎日きちんと整えられていた頭髪は乱れていて、色艶を失っている。
父にしては随分と似合わない光景だな、と、ぼんやり思った。父には、潔癖症の気があったからだ。あんなに不潔な格好の父は、今まで見たことがない。
テーブルの上には、救急箱がひっくり返っていた。包帯や消毒液、絆創膏の紙箱がぶちまけられている。それに混じって、なぜかコーヒーカップが横向きに転がっていた。
その右側——食卓に、母が座っていた。自分がいつも座る位置に着いて、背もたれに力なくもたれ、首をがっくりと落とすように俯いている。髪が乱れていて、顔は見えなかった。ピクリとも動かず、父と同じように疲れて眠っているかのように見えたが、身に着けているエプロンには血の染みが浮いていた。
二人とも、死んでいるのは明らかだった。が、ゾンビになっているのかは、分からなかった。この家で何が起きたのかも、窺い知ることはできなかった。
ただ、この家から日常という概念が失われ、営みを止めているということだけが分かった。
それは恐らく、あの日から、ずっと。
立ち尽くしたまま眺めていると、あの日の――ゾンビ・パンデミックが起きた日の朝の光景が、鮮明に蘇ってきた。
僕が起きて二階から降りてくると、父は食後のコーヒーを片手にソファーに座って、テレビのニュース番組を見ていた。母は目玉焼きが乗ったフライパンとフライ返しを手にキッチンから出てきた。兄は食卓に着いて、スマホを弄っていた。食卓には、コーヒーのマグカップとトーストが乗った皿が並んでいた。
家族に向かって、僕はいつものように「おはよう」と声を掛けた。どうせ、誰も返事をしないのに。
案の定、僕は無視され、家族団欒の時間が始まった。
母が、フライパンからトーストの上に目玉焼きを滑らせていると、二つの内、片方の黄身が割れてしまった。すると、兄は無言で割れた方を選び、自分の方に皿を引き寄せた。
母が、「そっちでいいの?」と訊く。黄身が割れていない方を、兄に食べさせようとしたのだろう。「別にいいよ、変わらないだろ」兄はそう言って、母に黄身が割れていない方の目玉焼きを譲った。それが嬉しかったのか、母はあらあらといった風に微笑んでいた。
それから、一旦キッチンに戻った母が、夜は早く帰ってくるのかと兄に訊いた。兄が夜間授業もないので早めに帰るよというと、自習室に行かなくていいのかと、父が口を挟んだ。大学受験を控えていた兄のことを心配して。
兄がそれをぶっきらぼうに突っぱねると、母が夜はスペアリブを作ろうかしらと提案した。それに対し、父と兄がローストビーフの方がいいと口々に言った。母は、自分以外がローストビーフ派だと分かると、やれやれといった風に微笑んで、じゃあローストビーフを作るから、二人とも早く帰ってくるのよと、父と兄に対して言った。
僕はその間、ずっと無言で隅の方に突っ立っていた。
例え、挨拶を無視されても、自分の分の朝食が用意されていなくとも、父と母と兄の会話を聞くことによって、形だけでも家族団欒の輪に加わっているという気分を味わう為に。
その後、リビングを出て、玄関で靴を履いていた時も、僕は父と母と兄——家族の会話が終わるまで、外へ行くのを待っていた。そして、どうせ無視されると分かっていながら、「いってきまぁす」と声を掛けて家を出た。
心をどんよりと曇らせながら。
また何も良いことが無い憂鬱な一日が、始まってしまったから。
胃もキリキリと痛んでいた。
何も食べていなかったから。
朝起きてすぐに歯磨きをしたのは、家では朝食を食べられないからだ。僕にとっての朝食は、登校中に自販機で買うブドウ味のゼリー飲料。
それを買うお金は、毎日玄関の下駄箱の上に置かれる三百円だ。お小遣いといえばお小遣いだが、僕にとっては一日の生活費だった。食べるものも、必要なものも、それで買わなくてはならない。
だから、僕はいつも金欠だった。わざわざYOUトピアに歩いて行っては、ガチャガチャコーナーやゲームセンターを徘徊し、落ちている小銭を探すほど。
でも、少額とはいえ生活費を与えられていたということは、僕は曲がりなりにも、両親から存在を認められていたということだ。何をやっても無視をされていたが、透明人間のように扱われていたが、この家で暮らす権利は与えられていたということだ。
それはつまり、父と母は、心の底では、僕を家族として認めていたということなのでは―――、
「……ヴぁああ」
不意に、呻き声がした。
母が、顔を上げていた。
その顔は、酷い有様だった。右頬の肉が失われていて、ボロ布のようになっており、下顎がだらりと腐り落ちかけている。
「ヴう……」
母は僕に気付かないまま、どた、どたん、と立ち上がった。そのまま、おぼつかない足取りでキッチンの方へと消えて行き、ガチャガチャとシンクで何かを弄っていたかと思うと、ヨタヨタと戻ってくる。
その手には、トレイを抱えていた。が、向きが逆さまで、上には何も乗っていなかった。そのまま、食卓を通り過ぎてリビングテーブルの方へ向かっていく。
「ヴぁだばぁ」
母が呻くと、
「……ヴぁあ」
父が返事をするように呻き、顔を上げた。
その顔には、鼻が無かった。
高く整った形をしていた鼻があった場所には、腐ったイチゴを踏み潰したようなものがへばりついているだけだった。
「ヴぉおいい……」
と、母が父の傍らに着いてトレイを置いた。父は手を伸ばして、掴むような動作をした。もしかして、食後のコーヒーを運んできたと思っているのだろうか。コーヒーカップは、テーブルの隅に転がっているというのに。
「…………」
ゆっくりと、漂う腐臭を掻き分けるように両親の下へ向かった。金属バットを握る手に、ジワリと汗が滲む。
テーブルの手前まで来ると、ひっくり返っていたコーヒーカップをコトリと起こした。ガラスの天板の上を、スウッとスライドさせるように、指先で父と母の目の前まで持っていく。
「ヴぁあ……」
「ヴぁば……」
父と母がコーヒーカップに気付き、初めて僕の方を見た。二人揃って、僕の足元に視線をやり、全身を舐めるように見ながら、顔を上げる。
目が、合った。
二人とも、白く濁った眼で、僕の目を見ている。
こんなに真正面から、両親の顔を見つめるなんて、いつぶりだろうか。
両親と目が合うなんて、いつぶりだろうか。
「……父さん、母さん」
ボソリと呟いた。
二人とも、僕の目を見ている。
「……ただいま」
二人とも、僕の目を見ている。
二人とも、黙ったまま、僕の目を見ている。
二人とも、
二人とも、
二人とも……、
———僕から、視線を逸らした。
「ヴぁあ……」
母が、父の膝に手を置いた。
「ヴうう……」
父が、母の手の上に自分の手を重ね合わせた。
二人で向かい合い、小さく呻いている。
まるで、僕のことなど、見えていないようだった。
「…………」
僕は、金属バットを、両手で、力強く、握り込んで、振りかぶって———。
「あかるっ、あかるっ!」
「……えっ?」
気が付くと、サキナさんに肩を揺さぶられていた。
「大丈夫かっ、おいっ」
なぜか、息が上がっている。
何が起きた?僕は、何を。
サキナさんの背後を見た。壁に、血が飛び散っている。まるで、赤いスプレーを噴射したかのように。
ゆっくりと、サキナさんの手を払うようにどけた。一歩進んで、サキナさんの横に立つ。
ガラス製のテーブルが粉々になっていた。天板が中央辺りで、真っ二つに割れている。
本来なら、辺りに散らばるガラス片が目に付きそうなものだが、見当たらなかった。いや、見つけることができなかった。
床一面に夥しい量の肉片が散乱していて、血の海になっていたからだ。
一人掛けソファーの手前と横に、血だらけの死体が二つ、転がっていた。どちらも、頭が原形を留めていなかった。潰れて、抉れて、破裂したかのように飛び散っている。
それを眺めていると、顔の表面にぬるりとした感触があった。
顔を拭うと、掌が真っ赤に染まった。前髪から、ぽたぽたと血が落ちた。
リビングの隅に置かれている姿見の方を見る。
そこには、全身血まみれの僕が映り込んでいた。
ああ、そうだ、思い出した。
僕が、やったんだ。
……兄は、どこだろう。
ふらふらと、廊下へ続く扉の方に向かう。
カチャリと扉を開けると、
「あかるっ」
サキナさんが呼びかけてきた。近寄ってくる足音がする。
「……あかる」
「大丈夫です」
振り返らずに、答えた。
「で、でも――」
「大丈夫ですから」
振り返ると、サキナさんは、なぜか怖いものでも見るような目で、僕を見ていた。
「……待っていてください」
それだけ言うと、僕はゆっくりと向き直り、薄暗い廊下へ踏み出した。
リビングのような腐臭は漂っていなかった。自分の家の臭いだ。他の言葉では言い表せない、独特の臭いだ。
階段の前へ辿り着くと、上を見上げた。二階の窓から光が差し込んでいて、空中には霧のように埃が舞っていた。
一歩、踏み出した。一段、一段、ゆっくりと階段を上がっていき、二階を目指す。
心は酷く冷静だった。
空気がひやりとしているせいか、身体も落ち着きを取り戻していく。
二階へ辿り着くと、部屋の扉はすべて閉まっていた。トイレも、かつての僕の部屋も、今の僕の部屋であるクローゼットも、兄の部屋も、閉め切られている。
迷うことなく、一番奥の兄の部屋へ向かった。
扉を前に、立ち止まる。
この向こうに、恐らく、兄がいる。
生きているだろうか?
死んでいるだろうか?
ゾンビになっているだろうか?
……僕のことを見てくれるだろうか?
血まみれの金属バットを、強く握り込んだ。ドアノブに手を掛ける。
ノックはいらないだろう。
血の繋がった、実の兄弟なのだから。
僕は、両親の血で汚れた手で、扉を開いた。
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