5:COLOR FADING
やがて、窓の外でヒグラシがカナカナと鳴き始めた頃、サキナさんは泣くのをやめて、ゆっくりと立ち上がり、ふらふらとおぼつかない足取りで部屋を出ていった。
慌ててついていくと、サキナさんはリビングと廊下を通り抜けて、浴室の方に消えていった。脱衣所の隅で、何かをゴソゴソと取り出している。
一体何をしているのだろうと思っていると、サキナさんは無言で僕に赤いポリタンクを差し出した。金属バットをリュックのマグネットに引っ付けて受け取ると、あまりの重さに思わず手が滑り、床にズンッと落としてしまった。中から、チャプチャプと水音がする。
呆気に取られていると、サキナさんはサンダルを脱いで浴室の中に入り、しずしずと服を脱ぎ始めた。
「さっ、サキナさん?」
慌てて顔を背けながら声を掛けたが、返事は無かった。突然のことに狼狽えていると、
「……あかる」
と、呼ばれた。ずっと泣き叫んでいたせいか、消え入りそうな、掠れた声色だった。
「は、はい」
顔を背けたまま、答える。
「それ、かけてくれ」
それとは、ポリタンクの中身のことだろうか。
「こ、これって――」
「水だ」
キャップを開けてみると、確かに中身は無臭で無色透明の水だった。
良かった。まさか、焼身自殺でもする気なのかと思ってしまった。でも、なぜ、脱衣所にポリタンクで水を溜めていたのだろう。
身体を洗うのだろうか。浴室の中を見ると、サキナさんが全裸で椅子に座り、丸めた背中をこちらに向けていた。あまりの光景に息が止まる。
「……早く」
「ハ、ハイッ」
しびれを切らしたサキナさんに促されて、慌ててポリタンクを抱えた。スニーカーのまま浴室に入ると、サキナさんの頭にゆっくりと中の水を注いだ。
オレンジがかった茶髪が濡れていき、首元から背中を伝って水がサラサラと流れていった。サキナさんはしばらく腕を抱えて水を浴びていたが、やがて手で髪と顔を拭うように洗い出した。返り血が溶け出して、ほんのりと赤く染まった水が、排水溝へと流れていく。
僕はその後ろ姿を見ながら、言い様のない感覚に襲われていた。サキナさんの傷痕だらけで痛々しい身体の表面を、水がさらさらと伝って流れていく。その様はまるで、鋭く研ぎ澄まされた、それでいて儚げに輝くナイフの刀身を、清流の水で清めているようで……とても、綺麗だった。
何を考えているんだと自戒した。居心地の悪い後ろめたさを、生唾と一緒に呑みこむ。口にしてしまったら、サキナさんはきっと傷付くだろう。
それでも、傷痕だらけのその姿は、今までの人生で目にしたどんなものよりも、ずっとずっと綺麗で、儚く、美しく見えた。
パシャッと足に水飛沫がかかり、我に返った。気が付くと、ポリタンクはすっかり中身を吐き出し終わっていた。
「……あ、あの、サキナさ——」
言いかけた瞬間、サキナさんが立ち上がった。慌てて後ずさると、サキナさんは天を仰いで手で顔を拭った。濡れた髪がかき上げられ、首元に集約された水が、さらりと背中へ伝って流れていく。
咄嗟に次の展開を予想して、心臓が跳ね上がった。慌てふためきながら脱衣所に逃げ込んで、腕で顔を覆っていると、ペタペタと裸足の足音が目の前を横切っていった。足音は廊下へと出ていき、カチャッと扉が開く音を最後に聴こえなくなった。
恐る恐る脱衣所を出ると、入った時は閉まっていた右側の扉が半開きになっていた。恐らく、サキナさんはあの扉の向こうにいるのだろう。僅かに、衣服が擦れる音が聴こえる。
しばらくの間、熱気と腐臭の漂う廊下で待っていると、やがて音は止んだ。
……もう、いいだろうか?
扉に近寄り、恐る恐る中を覗くと、そこは六畳ほどの部屋だった。小さな窓がひとつだけあり、そこから差す光がぼんやりと中を照らしている。
僕は、この家に入って、ようやくまともな場所を見た気がした。
ゴミが散乱しておらず、缶や瓶も見当たらない。小さなテーブルや箪笥、布団、衣装ケース、扇風機、ゴミ箱など、必要最低限の家具が清潔に揃えられている。
その、小さなテーブルに向かって置かれている二人掛けの座椅子に、サキナさんが身を横たえていた。YOUトピアで塞ぎ込んでいた時と同じように、背もたれの方に顔を埋めて。やはり着替えていたようで、下着の上にくたびれた白い半袖のTシャツを着ている。
どうしようか迷っていたが、廊下に漂う腐臭に耐えかねて、中へと入った。とりあえず、扉を閉めて臭いが入らないようにする。
ここが、サキナさんの部屋だったのだろう。
イメージに反して、少々質素なものに感じられたが、それでも所々に、ここは異性の部屋なのだと意識させられるものがあった。殺風景ながら、ちらほらと僕の理解の及ばない物がある。
そんな中、サキナさんが身を横たえている二人掛けの座椅子だけが、派手なヒョウ柄のカバーが掛けられていて、唯一サキナさんらしさを醸し出していた。
寝るのなら長さの足りない座椅子ではなく、部屋の隅に敷いてある布団の方がいいのでは――と思ったが、よく見ると、布団は酷く汚れていた。真ん中の辺りに、茶黒い染みがこびりついている。
もしかして、YOUトピアにいた頃、サキナさんがテントの中ではなく、ずっとソファーで寝ていたのは……。
邪推する自分が嫌になって、俯いた。背負っていたリュックがやけに重く感じられて、床に降ろすと、そのまま近くの壁際にもたれて座り込む。
サキナさんの過去は、リコさんの口から聞かされていた。嘘かもしれないと思っていたが、あのゾンビの様子を見るにつけ、真実だったのだろう。サキナさんが、実の父親から……。
心臓の奥が冷えて、ジクジクと痛んだ。僕も家族から虐げられていたとはいえ、単に無視されていただけだ。実害を加えられたことは一度も無い。
どんなに辛かっただろうか。たった独りで家族からの迫害に耐え抜き、学校という外の世界でも孤独に過ごし、ようやくできた唯一無二の親友から裏切られ、また孤独に……。
僕も似たような経験をしているが、サキナさんの心の傷はきっと、僕のものよりもずっと深い。
座椅子で身を丸めるサキナさんの背中を見つめる。まるで、今にも消えてしまいそうなほど希薄な存在感で、酷く不安になった。
……何か、何かできることをしなければ。
そう思い立った瞬間、クウウと腹が鳴った。こんな時に空気を読まず、卑しく腹を鳴らす自分に嫌気が差して、ギュッと脇腹を掴んだ。治りかけの傷口が、キリリと痛む。
でも、無理もない。今日は朝から何も食べていないのだ。
何か食べ物を、サキナさんにも……そうだ。
降ろしていたリュックを漁った。YOUトピアを発つ時に、入るだけ食料を詰め込んでおいたはずだ。何か手っ取り早く食べられるものはないだろうか。
中を引っ掻き回したが、出てきたのは味気の無さそうなプロテインバーやカロリーバーばかりだった。なるべくかさばらない上、栄養価の高い食料をと思い、こんなものばかり詰めた朝の自分を恨む。
別にこれでもいいが、もっと何か味気のあるものはないだろうか。缶詰やインスタントの袋麵、調理器具類はサキナさんがバッグに詰めていたが、あれはスクーターに括り付けたままだ。
取りに行くか?いや、さすがに一人では怖い。何かあったらまずいし、単独行動は危険だ。
ここには……。キッチンの凄まじい有様を思い出して、諦めた。もし、あそこに食料があったとしても、食べる気になんて絶対にならない。どうしよう。
……!
そうだ、あったじゃないか。ここにも、食料が。
ギイイィ……と金属製の重たい扉を半分だけ開き、外の様子を窺った。来た時と同じように、廊下には誰もいない。
なるべく音を立てないように、慎重に扉を全開にして、反対側を見る。やはりゾンビの姿はない。
ほっと息をついて、外に出た。ゆっくりと扉を閉めて、階段の方へと向かう。お目当ては、この紙袋だ。
拾い上げて中を見ると、たくさんのお菓子が詰まっていた。チョコレートにスナック菓子に、ビーフジャーキーまである。盛りだくさんの内容だ。よく見ると、紙袋にはパチンコ店のものらしき派手なロゴが印刷されていた。多分、ゾンビ騒ぎが起きた時に、ここの住民が落としたのだろう。しかし、パチンコ店ではこんなものを売っているのだろうか?
まあいいや、と辺りに散らばっていたお菓子を拾って詰めた。これならカロリーバーよりも、多少は味気がある。
散乱していたお菓子をすべて拾い集め、戻ろうとした瞬間、
———ギイイィ……
……え?
振り返ると、廊下の一番奥の扉が開いていた。そのまま、ガチャンと扉が閉まり、中から姿を現したのは、薄汚れたエプロンを身に着けた小柄な老婆だった。ひょこひょこと身体を揺らしながら、こっちに歩いて来る。
急な出来事に動けないでいると、老婆もピタリと止まった。しょぼくれた白い目で、僕の方を見ている。ということは……。
「……ヴぇんぎん、ヴぁえげえええっ!」
「うわあああっ!」
慌てて扉に駆け戻った。老婆ゾンビはおぼつかない足取りながらも、こっちに向かってくる。
ヤバい、まずい、急げっ!
扉を勢いよくこじ開けて、素早く中に入りこんだ。震える手で鍵を掛けると、ドタン!と、扉越しに衝撃が伝わった。
「はっ、はっ、はあっ……」
紙袋を抱えたまま、へなへなと玄関にへたり込んだ。ちょっと外に出ただけで、こんなことになるなんて思いもしなかった。まさか、部屋の中からゾンビが出てくるなんて。
下の郵便受けに渇いた血が付いていたが、まさか、あの老婆ゾンビが郵便物を確認しているのだろうか。
ともかく、助かって良かった……。
扉越しのくぐもった呻き声を背中で聴きながら、立ち上がった。息を整えて、部屋に戻ると――座椅子で身を丸めていたはずのサキナさんが、膝を抱えて座り込んでいた。
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