4:GO BACK HOME

 僕たちを乗せたスクーターは街中を突っ切った後、次第に山沿いの道へと反れていき、やがて長く真っ暗なトンネルに入り込んだ。ライトで暗闇を切り裂きながらトンネルから抜けると、今度は山間にかかる大きな吊り橋に出た。吹き抜ける風からは、仄かに潮の香りがした。

 この道は、久しぶりに通る気がする。小学校低学年の頃に家族で海水浴に行った時、確かこの道を通った。つまり、ここは座作市の端っこだ。

 町の名前は覚えていないが、ここは僕の通っていた砂井田第二中とは学区が違う。この辺りの海沿いの町は、砂井田第一中の学区のはずだ。

 大きな吊り橋を渡っていると、山に挟まれた景色の向こうに海が見えた。鮮やかな緑と青の景色が、夏真っ盛りとアピールしているようだった。

 やがて、スクーターは吊り橋を渡り終え、鮮やかな景色は見えなくなった。代わりに、僕の住んでいる街よりもずっと覇気がなく、色めき立っていない平坦な町の風景が僕たちを出迎えた。

 どこを見渡しても高い建物が無く、道路のアスファルトはひび割れだらけで、あちこちが凹んだガードレールには錆が浮いていた。道路に放置されている車は軽自動車が多く、その辺をうろついているゾンビたちも、ほとんどが老人だった。僕たちが真横を走り去っても、よろよろと力なく手を伸ばすだけで、走って追いかけてくるようなゾンビはほとんどいなかった。

 世界が崩壊する前から、この町はこんな感じだったのではないだろうか。

 ぼんやりと、そんなことを思った。




 町中をひとしきり走った後、スクーターは町外れの小さな橋を渡って長い坂道を上り、高台にある団地らしき建物の駐車場に乗り上げた。途中でエンジンが切られ、余力だけで駐輪場にスルスルと辿り着くと、ゆっくりとサキナさんがスクーターを停めた。僕が降りると、サキナさんは音を立てないように慎重にスタンドを立てた。

 ボロボロに錆びついた屋根があるだけの駐輪場から、敷地内の様子を窺う。何台か車が停まってはいるが、ゾンビは一人も見当たらない。周囲に建物はなく、雑木林に囲まれているせいか、耳を澄ましても、セミの声だけが聴こえてくる。

 ここが、サキナさんの家なんですか?

 そんな質問をする気にはならなかった。当のサキナさんも、無言のままだった。

 スクーターから釘バットを取り去り、構えるサキナさんに倣って、僕も金属バットを構えた。姿が見えないとはいえ、どこからゾンビが襲ってくるか分からない。

 足音を立てないように、ゆっくりと駐輪場から出ると、団地を見上げた。各階の廊下が見えるが、やはり人影はなかった。ひび割れだらけで薄汚れている灰色の外壁に、ガビガビに錆びついている赤茶色の手すり。照明にはびっしりと蜘蛛の巣がへばりつき、無数の虫が汚らしく引っ付いている。

 入り口に辿り着くと、くすんだ銀色の郵便受けが壁に設置されていた。なぜか、あちこちに渇いた血が付いていた。

 その中に、黒いマジックで〝202 樫見〟と直書きされている郵便受けがあった。

 やっぱりここは、と思っていると、サキナさんが郵便受けをひと睨みした後、階段を上がっていった。何も言わずに、その後ろをついていく。階段の手すりと壁にも、渇いた血が所々こびりついていた。

 二階の廊下に出ると、通路の手前に大きな紙袋が落ちていた。辺りに、たくさんのお菓子が散乱している。

 どうしてこんなものが落ちているのだろうと思いながら、それらを踏まないように歩き抜けると、202号室の前へと辿り着いた。重たそうな金属製の扉に、所々錆が浮いている。

 サキナさんは扉の前に来るなり、立ち尽くした。ドアノブに手を掛けようともしないまま、時間だけが過ぎていく。

 扉の向こうに何が待ち受けているのか、僕は理解していた。釘バットを握るサキナさんの手が震えていたからだ。

 多分、サキナさんは、自分の———、

「……サキナさん、僕が——」


 ―――ガチャン


 と、ドアノブに手が掛けられた。僕は言いかけていた言葉を呑み込んだ。

 サキナさんを見る。顔は見えなかったが、その後ろ姿はレインコートに包まれていた頃よりも、ずっと小さく、弱々しく、それでいて鋭い決意が漲っているように見えた。

 何が、僕が、だ。

 と、僕は数秒前の自分を恥じた。

 サキナさんの邪魔をすることはできない。サキナさんの決意を無下にすることは、誰であろうとできない。これは、サキナさん自身が決着をつけなければならないことなのだから。

 サキナさんが身を反らし、扉を開けた。ギギギギギィ……と金属が軋む音が響き、中から熱気を伴った腐臭がむわりと漂ってきた。

 思わず鼻を覆っていると、サキナさんが玄関の靴を蹴散らして、サンダルのまま中に入りこんだ。蹴散らされた靴の横には、赤や青、緑など、色とりどりの封筒が未開封のまま落ちていた。一瞬躊躇ったが、僕もスニーカーのまま中へと入った。音を立てないようにそっと扉を閉じると、金属バットを構える。

 廊下の突き当たりの扉の磨りガラスから僅かに差し込む光が、中を薄暗く照らしていた。右側に一つ、左側に二つ、扉があった。左側の扉はどちらも開きっぱなしになっている。中の様子からして、トイレと浴室だろう。右側の扉は閉じられていた。そして、扉の前以外の壁際には、何かが詰まっているビニール袋や、持ち手付きの大きなペットボトル、ダンボール箱が所狭しと並べられていた。その間に人一人がやっと通れるほどの道が形成されていたが、小さなゴミが散乱している上に、床は染みだらけだった。あちこちで、ハエがブンブンと舞っている。

 サキナさんが慣れた足取りでゆっくりと前へ進み、突き当たりの扉へと向かっていった。ゴミを踏まないようについていくと、むわむわと漂っている熱気と腐臭のせいで、顔の表面に嫌な汗が滲んだ。と、その時、


「———ぅぁぁぁあぁ」


 サキナさんも僕も、ピタリと動きを止めた。

 ……今のは。

 弱々しい呻き声だ。扉の向こうから、くぐもって聴こえた。

 身構えていると、扉の磨りガラスから差していた光が、ゆらりと陰った。

 ドアの向こうに何かがいる。

 一瞬で、そう理解した。

 何かが扉の前を横切り、そのせいで廊下に影が差したのだと。

 首元を汗が伝った。金属バットを握る手に力が入る。サキナさんも、釘バットを力強く握り込んでいた。


 ———カチャ……キイイィィ……


 サキナさんが扉を開くと、家に入った時とは比べ物にならないほどの熱気と腐臭がブワッと襲ってきた。思わず息を止めたが、目にまでヒリヒリと染みてくる。

 ゆっくりと中へ踏み込むサキナさんの背中に続くと、リビングらしき場所があった――いや、ここが、こんな場所がリビングといえるのだろうか。

 右側に流し台と冷蔵庫が供えられた小さなキッチンがあり、手前に食卓があった。右奥の角にテレビが置いてあり、その前に小さなテーブルと、二人掛けの座椅子があった。

 パッと目に付く家具、いや、辛うじて見つけられた家具はそれだけで、それ以外の場所はすべてゴミで埋め尽くされていた。大量のビニール袋があちこちに積まれていて、そこら中に潰れた空き缶と空き瓶が散乱している。キッチンの流し台の中にはカップ麺の容器とコンビニ弁当の容器が乱雑に放り込まれていて、その上をたくさんのハエが舞っていた。シンクの上にはくたびれたビニール袋があり、どす黒く変色した何かをぶちまけていた。その何かに、たくさんの蛆がたかっている。

 食卓の上は缶と瓶で埋め尽くされていて、電気ケトルだけが隔離されたように離れて置かれていた。冷蔵庫の上にも、缶と瓶が並んでいる。全部、お酒だ。缶も瓶も、空いているものも詰まっているものも、部屋の中にあるものはすべてアルコール類だった。

 小さなテーブルの上には、煙草の吸殻がぶちまけられていた。よく見ると、銀色の灰皿がひっくり返っている。その向こうに、ヤニをたっぷり吸ったであろうヨレヨレのカーテンが垂れていた。壁も天井も同じで、壁紙がヤニ色にくすんでいる。


 ———ガサガサッ……


 と、左側から音がした。左側は壁一面が襖だった。染みだらけで所々穴が開き、やはりヤニ色にくすんでいる。その真ん中が、半分開いていた。

 ……あそこにいる。

 息を呑むと、サキナさんが肩で息をしていた。背中が、震えている。

 声を掛けようか躊躇っていると、サキナさんは前へ踏み出した。よく見ると、ゴミだらけの床には細々と通り道らしきスペースが形成されていた。

 襖の前まで来ると、サキナさんは釘バットを使ってゆっくりと半開きの襖を全開にした。

 襖の向こうは、どうやら和室のようだった。同じように床一面ゴミだらけだったが、その隙間に畳が覗いている。右側の壁にひとつだけ窓があり、半開きになっていた。風が吹き込んでいるのか、カーテンレールにハンガーで掛けられているヨレヨレのTシャツが揺れている。その下に、のたくった布団と衣類の山がこんもり積まれていて、その横に黄ばんだ扇風機が置かれていた。反対側の壁際には手前にタンスがあり、奥の隅にヤニ色の汚い布団が敷かれていて、その上に——座り込んでいる人間がいた。こっちに背中を向けて、ガサガサと何かを漁っている。

「……ぅぅうあああ」

 布団の上の人間は、小さく呻いていた。後ろ姿からは、体格がいいということだけしか分からなかった。汗を掻いているのか、白いシャツが丸みを帯びた背中にぴったりとくっついている。下には、ゴムが伸びきったトランクスを履いていた。


 ———メキョッ……


 と、音がした。下を見ると、サキナさんが空き缶を踏みつけていた。

「……ぅう」

 布団の上の人間がピタリと動きを止めた。気が付いたのか、ゆっくりと首だけ捻ってこっちを見たが、薄暗くて顔はよく見えなかった。 

「……ぅぅうああ」

 布団の上の人間は弱々しい呻き声をひとつ上げると、よろめきながら立ち上がった。一歩、二歩、足を引きずりながら、こっちに向かって歩いて来ると、半開きの窓から差す光が、すっかりその姿を暴いた。

 そこにいたのは、汚らしい肥満体系の中年男だった。だらしなく突き出た腹に、黄ばんだ白いシャツが張り付いていて、所々に血の染みが浮いていた。ヨレヨレのトランクスには、口にしたくもないものがこびりついている。頭髪が薄いくせに、腕や足にはごっそりと毛を生やして、それが脂ぎった汚い肌にぴったりと張り付いていた。

「ヴぁぁああう……」

 中年男がようやくゾンビ特有の呻き声を上げたが、それを聴く前からもう中年男がゾンビだということは理解できていた。

 白い眼をしていたし、顔中にびっしりと蛆が這い回っていたからだ。

「……っ」

 サキナさんの呼吸が荒くなった。釘バットを握る手が、ぶるぶると震えている。

「ヴぅああ?」

 ゾンビが突然、首を傾げて呻いた。

「ヴぁなごおぉぉ……」

 ―――真奈子。

 ゾンビは、そう言っているようだった。サキナさんの、本当の名前を。

「……ヴげぇ、ヴぁなごぉ、ヴげえええ」

 サキナさんの息が、過呼吸かと思うほど荒くなっていく。大きく揺れる背中から、爆発寸前のヒリついた気配を感じた。

「ヴぐぅう……ヴげぇええっ!」

 ゾンビが大声で呻き、顔中の蛆をパラパラと落としながら向かってきた瞬間、サキナさんは釘バットを振りかぶった。


「うああああああっ!」


 サキナさんが絶叫しながら、ゾンビの脳天に釘バットを振り下ろした。グジャッ!と音がして、部屋中に血が飛び散る。

「ヴぅ、ヴが……」

「ああああああっ!」

 ゾンビの断末魔を遮って、サキナさんがまた絶叫した。脳天にめりこんだ釘バットが引き抜かれ、もう一度振り下ろされる。ブジャッ!と汁気の混じった音がして、ゾンビの脳味噌が飛び散った。

「ああああああああああっ!」

 何度も、何度も、サキナさんは絶叫しながら、釘バットを振り下ろした。ゾンビの頭が砕け散っても、ゾンビの身体がドタリと床に倒れ込んでも、サキナさんは釘バットを叩きつけるのを止めなかった。

 僕は何も言えなかった。ただ、その姿を黙って見つめていた。

 やがて、ゾンビの身体中がボロ雑巾のようにズタズタに成り果てた頃、サキナさんはようやく釘バットを手放した。

「はっ、はっ、はあっ、はあっ……」

 身体が限界を迎えたのか、サキナさんは床に膝をついた。全身が、返り血だらけになっている。

「……ううっ、うあっ、ああああああああああっ!」

 サキナさんが、泣き崩れた。今までに聞いたことのない、嗚咽と涙混じりの叫び声が部屋中に何度も響いた。

 僕はどうすることもできなかった。ただ、その後ろで金属バットを握りしめたまま立ち尽くし、俯くことしかできなかった。

 サキナさんの泣き叫ぶ声と、半開きの窓から聴こえてくるセミの声が、汚い部屋に虚しく響き続けた。

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