3:UTOPIA COLLAPSES
「さ、サキナさんっ……」
テラス席に出て声を掛けたが、サキナさんは無反応だった。背中を向けたまま、外の景色をずっと見つめている。
身体を洗ったのか、パサパサに渇いていた髪がほんのり濡れて萎れていた。白い半袖のTシャツに赤いジャージと、新しい服に身を包んでいたが、靴は履いておらず、裸足だった。
一体どれだけの間、その背中を眺めていたのかは分からなかったが、やがてサキナさんはゆっくりと振り向いた。緩やかな風が吹いているせいで、サキナさんの顔はそよぐ髪に隠れてよく見えなかった。
「…………家に帰る」
「……え?」
それだけ言うと、サキナさんはペタペタと中に戻っていった。慌てて後を追う。
「サキナさんっ、家って……」
背中越しに話しかけたが、サキナさんは止まらなかった。無言で、YOUトピアの中を歩いていく。
僕はどうしていいか分からず、とりあえず黙って後をついて行った。
前を歩くサキナさんの背中を眺めていると、なんだか不安になった。あれだけ頼もしかった背中が、今では随分と小さく、弱々しく見えた。
まるで、今にも消えてしまいそうで——と、突然、サキナさんがピタリと立ち止まった。
どうしたんだろうと思っていると、ブブブブという虫の羽音が耳についた。音のする方を見ると、もっこりと膨らんだ垂れ幕と渇いた血だまりが見えた。その周りに、遠目からでも分かるほど、大量のハエが舞っていた。
あれは、リコさんたちの亡骸……。
サキナさんは、遠い目でその光景を見つめていた。僕は、息ができなくなった。舌がカラカラに渇いていき、あの時の光景が脳裏に蘇る。
僕は、サキナさんの、かつての、親友を―――、
「……あ、あのっ——」
しどろもどろに謝ろうとした瞬間、サキナさんは前に向き直り、ペタペタと歩いていってしまった。
謝りそびれた僕は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて無言で、トボトボとその後を追った。
拠点に戻ると、僕たちは外に出掛ける準備を始めた。
リュックに元々持っていた物と、いくつかのかさばらない食料、水、ランタンライト、多機能防災ラジオ、その予備の電池、絆創膏や消毒液などの簡易的な救急セット、着替えなんかを詰め込んだ。
護身用として、折り畳みナイフや鞘付きのサバイバルナイフをサイドポケットに入れた。それだけでは不安だったので、スポーツ用品店から金属バットを持ってきた。学校でやっていたのと同じように、音楽爆弾に使っていた強力マグネットをもう一度リュックに仕込み直し、取り回しがいいようにガチンとくっつけた。
外に出ると時間が分からなくなる為、時計屋から太陽電池式の腕時計を持ってきて手首に巻いた。念の為に、防水性や耐衝撃性を備えている高級なものを選んだ。
いざという時に動ける格好の方がいいと思い、僕も新しく白いTシャツと黒のジャージの上下に着替えた。
サキナさんも自分のセカンドバッグに色々と物資を詰め込んでいた。途中、テーブルの上に置いていた財布を手に取り、中の写真をしばらく眺めた後、大切そうにバッグへしまうサキナさんを、僕はまともに見ることができなかった。
準備をしている間、僕たちは一言も話さなかった。
やがて準備が整い、二人で拠点を出た。一歩、二歩、歩いてから、ふと振り返ると、なぜか無性に名残惜しくなった。
僕たちの拠点。崩壊した世界で、どうにか手に入れた日常を過ごした場所。
……ここを離れるのか。
なぜか、二度と戻ってこれないような気がして、少しの間立ち尽くしていたが、歩くのを止めないサキナさんに促されるように、僕は向き直って後を追った。
通路を進み、僕たちが侵入してきた非常口の方へ向かっていると、あの休憩場に差し掛かった。床が所々黒く焦げていて、微かにパラフィンオイルの残り香が漂っている。
それを突っ切ると、僕はあることに気付いて立ち止まった。
「……」
噴水池を覗き込むと、たくさんの金魚たちが寄ってきた。餌が欲しいのか、パクパクと水面をつついている。
僕は、前から大理石の縁に置いていた餌を、全部池の中にぶちまけた。金魚たちが待ってましたとばかりに、こぞって餌を食べ始める。
戻ってこれたら、また餌をあげるからな。
そう思いながら、金魚たちを見つめていると――ふと、赤一色の魚群の中に、小さな黒い魚影が混じっているのに気が付いた。
目を凝らすと、それは出目金だった。なぜか一匹だけ、今まで一度も見たことがない黒くて小さな出目金が、ゆらゆらと泳いでいた。身体の大きな赤い金魚たちに紛れて、懸命に餌にありつこうと水面をつついている。
「……スイミー?」
そう呟いた瞬間、視線を感じて振り返ると、サキナさんが停まったエスカレーターの前で僕を待っていた。
「す、すいません」
慌てて追いつこうとして、もう一度池の中を見たが、黒くて小さな出目金は見当たらなかった。赤い金魚たちに紛れて、見えなくなってしまったのだろうか。
それとも、あれは見間違いだったのだろうか。
考えるのはやめて、僕はサキナさんの下に駆けていった。
最初に入ってきた非常口の前に辿り着くと、サキナさんは警戒する僕を余所に、堂々と非常口の扉を開けて外へ出た。怖々しながら後ろに続くと、屋上駐車場にはゾンビが一人もいなかった。真ん中辺りに、リコさんたちが乗ってきたボロボロの車が放置されている。その下の、僕が白いペンキで書いた不格好なSOSの文字が少しだけくすんでいる。雨水を溜める為に並べておいたポリバケツは風で倒れたのか、端の方に転がっていた。
サキナさんのスクーターは、入り口の近くにきちんと停められていた。埃一つ付いておらず、ワインレッドの車体はピカピカに光っている。周りには、ガソリンの缶や塗料スプレーなどが置かれていた。リコさんとの取引に応じて姿をくらましている間、ここへ来て手入れをしていたのだろうか。
サキナさんはスクーターの後ろにバッグと釘バットを括り付けると、跨ってエンジンをかけた。ブロンと、エンジンが静かに唸る。僕も、身だしなみを整えて後ろに跨った。ゆっくりと、僕たちを乗せたスクーターが走り出す。
立体駐車場の降り口まで来ると、サキナさんはエンジンを切った。スクーターは勢いをそのままに、無音状態でスルスルと降りていく。多分、ゾンビに気付かれないようにする為だろう。
立体駐車場から出ると、スクーターは敷地の縁を沿うように悠々と走った。ゾンビたちは気が付いていないのか、あちこちの入り口に群がったままだった。
そのまま、気が付かれないように敷地の外へ出ようとした時だった。急に、スクーターが左右にガクガクと揺れた。
「う、うわっ」
慌てていると、サキナさんが足を地面につけてスクーターを停めた。というのに、なぜかスクーターはガクガクと揺れていた。何が起きたのか分からず、スクーターから降りると、地面がブルブルと震えていた。それだけではなく、敷地の中に植わっている木や案内標識が、ブンブンと左右に揺れている。まるで、台風でも来たかのように。
いや、違う、台風じゃない、これは……地震だ!
そう確信した瞬間、揺れが急に大きくなった。サキナさんも慌てて飛び降り、運転手を失ったスクーターはガチャン!と横に倒れた。
「うっ、うわああっ!」
地響きに混じって、駅で聴くような金属が軋む音があちこちで響いた。為す術無く、スクーターの傍でへたり込んでいると、YOUトピアの方からバキバキと壁面のガラスが割れる音が悲鳴のように聴こえてきた。それに混じって、ガリガリとアスファルトが削れるような音が周りから聴こえた。遠くの方で、駐車場の案内標識が次々と倒れていく。
恐怖のあまり、地面の上でへたり込んだまま動けないでいると、揺れは次第に収まっていった。震える地面が、徐々にいつもの動かない地面に戻っていく。
「はっ、はあっ……」
呼吸を整えていると、すぐ横でサキナさんもへたり込んでいた。目を見開いて、YOUトピアの方を見つめている。
―――ヴぅぁぁぁ……
呻き声が小さく聴こえて、我に返ると、入り口に群がっていたゾンビたちも、地面に伏せていた。よろよろと這うように蠢いている。
ゾンビたちも地震を怖がっているのかと思った瞬間、
―――ギギッ……メギメギメギメギ……ゴゴギギギィイイィ……!
と、聴いたことのない耳障りな轟音が響き、YOUトピア全体が揺れた。まだ辛うじて残っていた壁面のガラスが次々にバキン!バキン!と割れていき、駐車場のアスファルトが煎餅みたいに割れて捲れていく。
「わああっ」
間の抜けた声が出たと同時に、揺れ軋んでいたYOUトピアは中央の辺りで真っ二つに崩れた。それが止めになったのか、崩壊がそこから波状攻撃のように広がっていき、YOUトピアはまるで、くだらないバラエティー番組のセットのようにあっけなく崩壊していった。耳障りな地響きと共に、大きな柱が倒れ、テラス席が崩れ落ち、それぞれの階が折り畳まれるようにぺしゃんこになった後、連鎖したように併設されていた立体駐車場も粉々に崩れ落ちていく。だというのに、巨大な瓦礫は山にならず、吸い込まれていくかのように地面の中へ沈んでいった。唖然とする中、ビュウッと土煙を巻き込んだ風が僕たちを吹き抜けていく。
やがて、
——―ゴゴゴゴゴゴォ……
という断末魔の重低音を響かせたのを最後に、YOUトピアは完全に沈黙した。やけに平坦な瓦礫の山からモクモクと上がる土煙が、風にさらわれて溶けていく。
「…………本当だったんだ」
しばらく呆然とした後、なぜか口をついて出たのは、そんな言葉だった。
いつしか、父が話していた通りだったのだろう。もし、強めの地震が来たら、建物どころか土地の一帯が地盤沈下を起こす可能性があると。
「——―危ないから、近寄るんじゃないぞ」
父の言葉が脳裏に蘇る。それは、僕に向けられた言葉ではなかったが―――。
どうにか気を落ち着かせて立ち上がると、やけに辺りが静かなことに気が付いた。
そういえばゾンビたちはどうなった?と、思ったが、考えるまでもなかった。YOUトピアの崩壊に巻き込まれて全員……全員?
ハッと息を呑む。
そうだ。リコさんたちの亡骸も……。そして、あの金魚たちも……。
——―ガチャン
と、背後で音がした。振り返ると、サキナさんが倒れたスクーターを重そうに起こしていた。
「さ、サキナさん、大丈夫ですか?」
問いかけたが、サキナさんは無言のままスクーターに跨った。派手に倒れたというのに、エンジンはすんなり掛かってブロロンと唸った。慌てて、僕も後ろに跨る。
そのままゆっくりと走り出し、敷地から出た瞬間、ふと、サキナさんはスクーターを停めて、崩壊しきったYOUトピアの方に振り返った。つられて振り返ると、そこでようやく、僕たちが帰る場所を失くしたことに気が付いた。
そうだ。もうここには、帰ってこれない。僕たちの拠点、僕たちの日常、僕たちの理想郷だった、YOUトピアが———。
……これは、本当に現実なのか?
あまりにも非現実過ぎて、夢を見ているようだった。今まで拠り所にしていた場所が、こんなにもあっけなく終わりを迎えるなんて。
言ってみれば、九死に一生を得たというのに、実感がまったく湧かなかった。ただ、ぼーっと崩壊した理想郷の残骸を眺めていた。
今までも非現実的なことは起こっていたが……いや、まさか、これまでのことも、すべて夢だったのだろうか?
いつか、倒れた時に見た悪夢——ゾンビになって、未だに学校を彷徨っているというのが現実で、僕はずっと、夢を見続けているのではないだろうか?自分が運良く生き残って、自分を見てくれる人と一緒に過ごしているという、甘い夢を。
まさか、そんなはずは――と思った瞬間、サキナさんが向き直ってブロロンとエンジンをふかした。スクーターが坂道を下っていき、段々と強くなる風を切っていく。
朝焼けの熱を帯びた空気が、顔に当たって前髪を捲った。久しく間近で聴いていなかったセミの声が、なんでわざわざ戻ってきやがったんだ?と、嘲笑っているかのように響いている。
……大丈夫だ。この感覚が、夢のわけがない。
目下に広がる崩壊したままの世界を前に、そう思い直した。夢にしては、この現状は厳しすぎる。だから、これはきっと、現実だ。
坂道を下り切ると、サキナさんはまたエンジンをふかした。スクーターが猛スピードで道路を走り、街中を突っ切っていく。
どこに向かっているかは、分からなかった。ただ、しがみついているサキナさんの背中からは、何か決意のようなものが伝わってきていた。
僕はただ、その背中に身を任せるしかなかった。いや、そうしなければいけない気がした。
それくらいしか、今の僕にできることはないのだから。
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