10:TRUE COLORS

 次の日の朝、目覚めると、拠点にサキナさんの姿はなかった。テラス席に行ってみたが、そこにもサキナさんの姿はなかった。ゾンビたちは相変わらず入り口に群がっていた。

 僕は拠点に戻ると、

「サキナさんを探してきます」

 と、リコさんに告げた。

「探しにって、ひとりで行くの?」

「はい、帰って来てないのが不安で……」

「リコを置いて行っちゃうの?」

 不安げな目つきをするリコさんを放っておけず、その日は結局拠点から出ずに一日を過ごした。

 その日も、サキナさんが帰ってくることはなかった。

 次の日、僕は物資調達に出掛けた。不足していた日用品をカゴに詰めて拠点に戻ると、

「サキナちゃん、帰って来てたよ」

 と、リコさんが笑った。

「えっ、さっきまでいたんですか?」

「うん、なんか色んなとこを見張って回ってるんだって。休んでいけば?って言ったんだけど、着替えとお水持って、またどっか行っちゃったの。当分は、安全の為にパトロールして回るつもりなんだって」

 すれ違いだった。その日も、サキナさんは拠点に戻らなかった。

 次の日も、その次の日も、サキナさんが拠点に戻ってくることはなかった。




「あかるん、コーラある?」

「はいっ」

 食料のカゴからコーラを取り出して、リコさんに差し出す。

 リコさんがYOUトピアに来てから、一週間ほど経っていた。

 正確に数えたわけではないけれど、拠点のゴミ箱に溜まっている桃の缶詰の数からして――リコさんはいつも朝ご飯に桃缶を食べるので――大体それくらいだろう。

 僕たちはそれなりに楽しい日々を過ごしていた。拠点のインテリアを充実させたり、ゲームをしたり、家電品店にあったノートパソコンを充電して、映画やアニメのDVDを観たり、漫画を読み耽ったり、トランプやボードゲームやパズルで遊んだり、レシピ本と缶詰を使って簡単な料理を作ってみたりしながら、理想郷を満喫していた。日々、日常を繰り返すことに、何の問題も無かった。

 唯一、サキナさんが姿を見せないのが気掛かりだった。そこら中を見張って回っているとのことだったが、拠点にも戻って来ず、どこにいるのか分からないままだった。

 時折、水や着替えを取りに戻って来ているようだったが、なぜか僕が身体を洗いに行っている間だったり、食料調達に出掛けている間など、拠点を空けている時に帰っているようで、ずっとすれ違いが続いている。

 リコさん曰く、元気そうとのことだったので、心配は無いようだが……。

「ぬるいなぁー。しょうがないけど」

 ソファーでくつろぐリコさんが、足をパタパタと動かした。フリルとレースだらけのスカートの裾がふわふわと揺れる。

 リコさんはあれからずっとゴスロリの格好で過ごしている。これまでできなかったお洒落を楽しんでいるのだろう。毎日のように香水を付けたり、化粧をしたりしている。

「お昼は何にします?またツナ缶とパンにしますか?」

「えぇー、もう飽きちゃったなあー」

「後は、えっと……レトルトカレーか、ビスケットか、カップスープとかですけど」

「なんか違うの食べたいなぁー。でも、そういうのしかないんでしょお?仕方ないね」

「あっ、僕、何か取ってきますよ」

「ホント?ありがとー!あかるん」

「えっと、どんなのが食べたいとか、あります?」

「ウフフ、あかるんのセンスに任せるよ」

「せ、センス?大丈夫かなあ……」

「あかるんは頼りになるから、だいじょーぶっ。期待して待ってるね、フフ」

「わ、分かりましたっ」

 僕は頼られていることに嬉しくなりながら、すぐにカゴを持って食料調達に出掛けた。




 カゴを抱えて食品売り場を彷徨ったが、どれもこれも手垢の付いた缶詰やインスタント食品ばかりで目新しさがなかった。このパンの缶詰なんか、もう何個食べただろうか。

 もっと毛色の違うものを探そう。リコさんが跳んで喜ぶようなものを。

 新しいものを求めてインスタント食品類の棚を物色していると、大きなホールトマトの缶詰が目に入った。

 これだ。これを使って、料理を作ろう。確かレシピ本に、トマト缶を使った料理が載っていたはずだ。

 記憶を頼りに、豆の缶詰やスパムの缶詰、いくつかの調味料をカゴに放り込むと、また桃の缶詰をいくつか入れた。これでまた当分は持つだろう。

 一通り取り揃えた後、リコさんの元に戻ろうと食品コーナーから出た瞬間、


 ——―パリン!


 渇いた音が聴こえて、ビクッと身体が跳ねた。

 今の音は……ガラスが割れた音だ。

 まさか、ゾンビが侵入してきた?

 久しく体感していなかった危機感に襲われ、身体中の毛が逆立った。

 どこだ、どこで音がした?

 きょろきょろと辺りを見渡す。気配を探ろうと耳を澄ましていると、また、


 ―――パリィン!


 と、音がした。

 ……こっちだ。

 感覚を研ぎ澄ましていたおかげで、音のする方が分かった。カゴを置いて、足音を立てないように、そっと歩きながら、そちらへと向かう。

 武器を持っていない今、見つかるわけにはいかない。ゾンビかどうかは分からないが、とにかく音の正体を突き止めないと。


 ―――パリン!


 こっちだ。向こうの方から、


 ―――パリン!


 何だ、一体、この音の、


 ―――パリン!


 正体を突き止めた。

 瓶が割れる音だ。

 あれは、お酒の店だ。僕が一度立ち寄って、チューハイの缶を持ってきた、あのお酒の店だ。酒樽を模した看板が吊り下がっていて、店先にはずらりと一升瓶やワインのボトルが並んでいる。

「……サキナさん?」

 その店先で、サキナさんが一心不乱に酒瓶を割っていた。肩で息をしながら、釘バットを振りかぶっては、酒瓶が陳列されている棚に何度も打ちつけている。

 僕はその様をしばらくの間、呆然と眺めていたが、サキナさんがよろよろと地面に崩れ落ちて膝をついた瞬間、ようやく駆け寄った。

「……あ、あの、サキナさん?」

「……あかるか」

 サキナさんが振り返った。顔は振り乱した髪に隠れて良く見えなかったが、声が酷く弱々しかった。

「どうしたんですか。これ、一体……」

 辺りにはたくさんのガラス片が散らばり、床はびしょびしょになっていた。あの未知の臭い——甘いアルコールの匂いが、プンと鼻につく。

「……なんでもねえよ」

 サキナさんはよろりと這うように、近くの壁にもたれた。釘バットがカラリと地面に転がる。

「だ、大丈夫ですか?何してたんです。ずっと拠点にも戻らないで」

 膝をつこうとして、服が濡れるのを躊躇っていると、

「うるせえよ……」

 サキナさんが、ボソリと吐き捨てた。

「……あ、あの、拠点に戻りませんか?今から、料理作るんです。……あ、サキナさんの好きなカップ焼きそばもまだ——」

「うるせえっつってんだろっ!」

 サキナさんに怒鳴られ、僕は情けなく縮み上がった。が、いつかとは違って、その怒鳴り声は、まるで悲鳴のように聴こえた。

「……お前も、どうせ——」

「……え?」

 サキナさんが頭を掻き毟りながら何事かを口走ったが、よく聞き取れなかった。オレンジがかった茶髪が、顔の前で弱々しく揺れている。

 僕はどんな言葉をかけていいのか分からず、ただその場に突っ立っていた。

 長い沈黙が続いた後、いや、もしかしたら、たったの数秒間だったのかもしれない。僕は喉の震えを抑えて、絞り出すように、

「……あ、あの、僕は——」

 言おうとした言葉の、その先が言えず、黙りこくった。

「……と、ともかく、拠点に戻ってきてください」

 サキナさんは返事をしなかった。

 また耳を刺すような沈黙が続き、僕は逃げるようにその場を後にした。




 カゴを抱えて拠点に戻りながら、僕はうじうじと俯いていた。

 お前も、どうせ———。

 サキナさんの言葉がズキズキと耳に残っている。

 どういう意味なのか、その言葉が何を指していたのか、僕には分からない。でも、何か言い様のない冷たい感覚が胸の奥に突き刺さっている。

 これは、この感覚は何だろう。過去にも、この冷たい感覚を僕は味わっているような気がする。世界が崩壊する前の、惨めな僕だった頃に。

 あの頃はみんなから無視されていて、誰とも喋れなくて、誰にも見てもらえなくて———。

 思い出したくもない記憶が蘇り、ブンブンと頭を振った。

 違う、今の僕は違うのだ。あの頃の僕を知る者はもういない。みんなゾンビになってしまった。

 自分を偽ってでも、強くなるんだ。強く、頼られる男に———。

 俯きながら歩いていると、いつの間にか拠点に戻ってきていた。逃げるように早足で歩いていたせいか、軽く息が上がっている。

「リコさ……、え?」

 拠点はもぬけの殻だった。ソファーに寝そべっていたはずのリコさんの姿がない。

 どこに行ったんだろう。リコさんがひとりでどこかに行くことなんて、絶対にないのに。

 トイレだろうか。多分そうだろう。リコさんは僕がいないと何もできないし。

 仕方なく、ひとりで食卓に着くと、レシピ本のページをパラパラと捲った。確か、この辺りに……あった、これだ。豆とベーコンのトマト煮。ベーコンはないが、スパム缶で代用して、見様見真似で作ってみよう。

 小鍋にトマト缶の中身を入れると、カセットコンロに火をつけた。大きなトマト缶を使ったから、沸騰するのには時間がかかりそうだ。

 空の缶をゴミ箱に入れると、ついでにあちこちに散乱していたゴミを放り込んだ。お菓子のクズに、ティッシュに、空き缶、空のペットボトル、くしゃくしゃに丸まったビニール。これもゴミ、これもゴミ、これも、あとこれも……、ん?

 これは、アンデッドマンの指輪だ。見当たらないと思ったら、こんなところに落ちているなんて。

 そういえば、風邪で倒れた時に外して、ポケットにしまっていたのだった。何かの拍子に落としたのだろうか。

 こんなもの、身に着けていたって何の意味も無かったが———。

 不意に、焦げ臭い匂いが鼻についた。振り返ると、カセットコンロの上の小鍋からブスブスと煙が上がっていた。

 しまった、と駆け寄ろうとして、掌で持て余した指輪を咄嗟に指にはめた。

 まずい、ずっと使っていた小鍋が。中を覗き込むと、トマトがグツグツと煮立っていた。慌てて火を止めてスプーンで掻き回すと、底でトマトが真っ黒に焦げ付いていた。

 ああ、やってしまった。慣れないことをするからだ。

 どうしよう、これ、元々はサキナさんが持っていた鍋なのに。怒られてしまうだろうか。代わりの鍋はいくらでもあるだろうけど。

「なぁに?この匂い」

 振り返ると、入り口にリコさんが立っていた。

「あっ、リコさん。どこに行ってたんですか」

「ちょっとね、お願いをしに行ってたの」

「お願い?」

「うん。それ、何してたの?」

 リコさんは湯気の立つ鍋を見て怪訝な顔をした。

「えっと、料理を作ろうと思って、トマト煮を。焦がしちゃいましたけど」

「トマトぉ?リコ、トマト嫌いなの」

 リコさんはそう言うと、ソファーに寝そべった。

「す、すいません。何か他のを作りましょうか?」

「もういーよっ。チョコでも食べよ?」

「えっと、ミルクチョコでいいですか?」

「ビターがいいなぁー」

「はいっ」

 お菓子を入れていたカゴから、ビターの板チョコを取り出してリコさんに差し出した。

「ありがと、あかるん……ってそれ、アンデッドマンの指輪じゃん!」

「えっ?知ってるんですか、アンデッドマン」

「知ってるよぉ!〝身体は死すとも、俺の心は死なない〟でしょ?」

「そっ、そうです!僕、ヒーローの中じゃ一番好きで、映画も全部観てて、1も2も、世間的には不評だった3も大好きで、えっと、ヴィランの中じゃ2のメイン悪役のMr.ミスターアシッドが一番好きで……」

「アハハ!リコも好きだよ、Mr.アシッド。噛ませ犬ってバカにされてるけど、かっこいいよねぇ」

「でっ、ですよね!あんまり人気がないけど、凄く好きで、えっと、それから、あっ」

 興奮しながら、収納ボックスからアンデッドマンの邦訳本を取り出した。

「これ、本屋にあったんですっ。アンデッドマンの原作で、映画の1の元になっててっ」

「わぁ、すごーい。全部のページ、カラーなんだー」

「あっ、そうだ。CDショップから映画三部作も全部持ってきてるんですっ。見ませんか?」

「フフ、いーよっ」

 僕は興奮を抑えられずにいた。アンデッドマンはアメコミヒーローの中でも、マイナーなキャラクターなのだ。今でこそブームになって、たくさん作られてはいるが、アンデッドマンの映画はアメコミ映画がまだマイナーなジャンルだった頃に作られた為に、知っている人があまりいない作品だった。

 今までも一緒に映画を見ることはあったが、内容がハード且つシリアスでグロい描写もあり、なんとなく勧め辛かったので、他の明るい雰囲気のヒーロー映画やアクション大作なんかをチョイスして、アンデッドマンのDVDは隠していたのだ。

 でも、まさかリコさんが知っていたなんて。僕は嬉しくなっていた。逸る気持ちを抑えながら、収納ボックスからDVDを取り出す。

 自分と趣味が合う人がいるって、こんなに嬉しいことだったっけ。

 懐かしい感覚を思い出しながら、ノートパソコンの電源を付けてDVDをセットし、再生した瞬間だった。

「オイ」

 振り返ると、入り口にサキナさんが釘バットを片手に立っていた。

「あっ……サキナさん」

 僕が口籠っていると、

「ん?あっ、サキナちゃん、おかえりー」

 と、リコさんが呑気に言った。

 サキナさんは返事をしないまま、僕たちを睨んでいた。さっき会った時は、顔がよく見えなかったので分からなかったが、目の下にうっすらとクマができていて、やつれているように見えた。

「それ、焦がしたのか?」

 サキナさんは腕組みをしながら、カセットコンロの上の小鍋を顎でしゃくった。

「あ、えっと……はい……すいません……」

 モゴモゴと謝ると、サキナさんはフンと鼻を鳴らして、

「ったく、気を付けろよ」

 と、小鍋を手に取った。

「あ、あの、サキナさん。何か食べ——」

「いらねえ、着替えを取りに来ただけだ。すぐ見回りに戻る」

 サキナさんはぶっきらぼうに僕の言葉を遮ると、ゴミ捨て場にしていたバックヤードへと消えていった。僕はその背中を見送りながら、気まずさに押し潰されそうになっていた。

 サキナさんは妙に飄々としている。まるで、さっきのお酒の店での出来事など無かったかのように。

 あれは、現実だったんだろうか?気に掛けるあまり、白昼夢のようにサキナさんの姿を幻視したのではないだろうか?

 そうだと嬉しいが、違うだろう。あれは現実の出来事だ。

 でないと、サキナさんのレインコートから僅かに漂ってきたアルコールの香りの説明がつかない。

 追いかけて片付けを手伝うべきだろうか。でも、あんな小鍋の片付け如きに二人もいらないし……。でも、焦がしてしまったのは僕だし……。

 どうしていいか分からず迷った末に、うじうじとノートパソコンの画面に逃避した。映画会社のロゴが、次々と現れては消えていく。何度も見た、アンデッドマンの映画の冒頭だ。

 地下のアジト、古ぼけた箱型のテレビで白黒のゾンビ映画を観ていた悪の組織の下っ端が、画面越しに背後に佇む影に気付いて、振り返る。でも、そこには誰もいない。気を取り直して、映画の続きを見ようと振り返ると、そこに———、

「ヴぁううぅー」

 僕にとっての永遠のヒーロー、アンデッドマンの姿が———、

「ヴぃおうぅー」

 ……何だ?もうゾンビ映画の場面は終わっているのに。どうしてゾンビの声が―――、

 振り返ると、入り口に三人のゾンビが立っていた。

「……へ?」

 身体から一気に血の気が引いた。

「うっ、うわああっ!」

 立ち上がろうとして腰が抜け、這うように後ずさりしながら、ゾンビたちから必死に距離を取った。

 なんで、どうして、ここにっ!

「あっ、やっと来た。もぉう、遅いよぉ」

 くつろいでいたリコさんが立ち上がった。臆することなくゾンビたちに近付いていく。

「りっ、リコさんっ!危な——」

 立ち上がろうとした瞬間、

「あ、あかるっ!」

 と、サキナさんがバックヤードから出てきて、僕を庇うように前に立った。足元に、底の焦げ付いた小鍋がガラガラと音を立てて転がった。

「リコっ!そいつらから離れろっ!」

 サキナさんが釘バットを構えながら怒鳴った。というのに、リコさんはまったく動じず、

「なぁに?危なくないよぉ。この子たち、ほら、アトくんたちだよぉ」

 と、ケロリと笑った。

「あ、アトくんたち?」

 震えながら、ゾンビたちを見る。中くらいのガリガリに、チビに、巨漢デブ。確かにシルエットはあの三人だが、なぜか全員、被り物をしていた。騎士の兜を模したチープなビニール製の銀色のマスクを着けている。

「そ。分からなかった?お顔がちょっと良くなかったから、コスプレしてもらってるの」

「こ、コスプレって」

「んなこと、どうだっていいっ!なんでそいつらがここにいるんだっ!そいつらはペットショップに繋いでおいたはずだろっ!」

「何よぅ、別にいいじゃない。ちょっとお願いがあったの」

 リコさんはゾンビたちの中を突っ切ると、

「きゃー!ありがとー!ソファーで寝るの、どうしても慣れなくってぇー」

 と、何かに寝転がった。抜けた腰を支えながら、ようやく立ち上がると、リコさんが寝転がったものがゾンビたちの向こうに見えた。あれは、ベッドだ。それも、シングルじゃない。大きなセミダブルのベッドだ。

「ヴぁううぅ」

 ゾンビたちがくぐもった声で呻く。

「ま、まさか、ゾンビたちにベッドを運ばせたんですか?」

 恐る恐る質問すると、

「そーだよ、持って来てってお願いしたの。リコ、どうしてもベッドで寝たくってぇー」

 と、リコさんがベッドから起き上がった。

「そ、そんなことの為にゾンビを」

「ふざけるなっ、そいつらは繋いでおく約束だっただろうがっ!」

「だからぁ、別にいいじゃない。この子たち、リコの言う事なんでも聞くんだしぃ。それに、ほら、こうやっておけばいいでしょお?」

 リコさんがジャラリと何かを掴んで拾い上げた。それは、それぞれのゾンビの首輪へと続く太い鎖だった。ゴスロリの格好をした華奢な女の子が、猛獣使いのように不釣り合いな太い鎖を携えているのは、随分と奇妙な光景だった。

「そんなもんで安心できるかっ!さっさと繋ぎ直してこいっ!」

「ちょっと待ってよう、ちゃんと中に運び込んでから——」

「うるせえっ!」

 サキナさんが吠えるように怒鳴った。

「約束は守れっ!じゃねえと、ここから——」

「追い出すの?」

 今度はリコさんがサキナさんの言葉を遮った。

「リコ、なんにも悪いことしてないのに……」

 リコさんは両手で顔を押さえて、グスグスと啜り泣き始めた。

「ねえ、あかるん。リコ、何か悪いことした?」

「え?……い、いや、でも」

 無関係に思っていた会話のキャッチボールに急に参加させられ、口籠った。これでは、まるで僕が判定を下さなければいけないようで、居心地が悪い。一体どうしたらいいのだろう。

「え、えっと……」

 沈黙が耳を刺す中、どうにか喉を震わせた。

「と、とにかくベッドを運んだら、アトくんたちには戻ってもらって……」

「また繋いでおくの?可哀そう。この子たち、なんにもしてないのに」

「何言ってんだっ!ここに来た時、あかるを襲おうとしただろうがっ!嘘つくんじゃねえっ!」


「……嘘?」


 リコさんが顔を伏せたまま、だが、はっきりとした口調で言い放った。

「嘘をついてるのはリコじゃないよねえ?」

 リコさんが顔から手をどけると、泣いてメイクが落ちたのか、涙の跡が黒く染まっていた。

「ねえ、サキナちゃん。いや……真奈子まなこ

「……え?」

 聞き慣れない名前に戸惑っていると、サキナさんの背中が小刻みに震えているのに気が付いた。

「サキナなんて、本当の名前じゃないでしょ?本当の名前は——」

「ふざけるなっ!」

 サキナさんが怒鳴ったが、それはさっきお酒の店で聴いた時と同じような、悲鳴に近い声だった。

「俺は約束を守っただろうがっ!」

「……え?」

 約束?

「あーあ、言っちゃった。それ、自分から言っちゃったら、もう意味ないじゃない」

 リコさんの声のトーンが、いつもの屈託のない調子に戻った。

「ど、どういうことですか?約束って……」

 恐る恐る質問した。緊迫した場には、ノートパソコンから流れるアンデッドマンの映画の劇半が、場違いのように流れていた。

「リコね、ここに来た日の夜、あかるんが寝てる間に、サキナちゃんと取引したの」

「取引?」

「そ。私は秘密を守る。その代わり、サキナちゃんはここを出て行く。そういう取引をね」

「な、なんでそんな、秘密って……」

「秘密っていうか、嘘かなぁ?」

 リコさんが笑顔を見せた。それは今までに何度も見た、あのいたずらっぽい笑顔だった。

「サキナちゃんの本当の名前はね、真奈子っていうの。サキナっていうのは嘘。あかるん、知らなかったでしょ?フフッ。最初に会った時、自分のことなんて言ってたの?俺はサキナだ、って言ってた?」

「……やめろ」

「教えてあげる。サキナっていうのはね、真奈子が憧れてた、ヤンキーガール・サキナっていう漫画のキャラクターなの。古臭ぁい、いつの時代?ってくらい昔の漫画のね」

「やめろ……やめろ……!」

「その真っ赤な合羽も、刺繍入りジャージも、サキナの格好を真似してるんでしょ?本当は真っ赤な特攻服だけど」

「やめろ……俺は……!」

「フフッ、俺って。その言葉遣いだって、サキナの真似でしょ?すっかり、なりきっちゃってさあ。そんなんだから、クラスで浮いちゃって、嫌われたんでしょ。あ!嫌われた原因は、他にあったんだっけ?何だったかなあー」

「……リコ」

「あっ!思い出したあ!誰かが、真奈子の秘密をクラスのみんなにバラしちゃったんだったっけ。フフッ、誰がバラしちゃったのかなあー。真奈子がパパから——」

「言うなっ!」

「……どうしたの?真奈子。大きな声出しちゃって、フフッ」

「……っ」

 震えながら黙り込むサキナさんの背中を、僕は呆然と見ていることしかできなかった。

「あっ、ごめぇん。あかるんの前じゃ、真奈子じゃなくて、ヤンキーガール・サキナだったっけ?キャハハッ。あれぇ?でも、ちょっと違うね。サキナって、たしか特攻服の下はタンクトップだったよねえ?なんでこんなに暑いのに、ずっと長袖なんか着てるの?フフッ、暑くないの?脱いだらどうなの?あ!手伝ってあげようかぁ?」

 リコさんがジャラリと鎖を揺らすと、ゾンビたちがそれに応じるように顔を上げた。

「ねえ、お願い。その子の服、脱がしてあげてぇ」

「ヴあい」

「ヴうい」

 ゾンビたちが、ドタドタとこっちに向かってきた。小さなテーブルが蹴飛ばされ、上に置いていたノートパソコンや卓上時計が、けたたましい音を立てて辺りに散らばる。

「や、やめろっ!来るなっ!」

 サキナさんが釘バットを振るった。先頭を切っていた巨漢のポッちゃんの肩に、グチャッと釘バットがめり込んだ。

「ヴあうぅ!」

 ポッちゃんは腐りかけの太い腕で釘バットを掴むと、いとも簡単に振り払ってしまった。釘バットがサキナさんの手を離れ、拠点の隅にカラカラと転がっていく。

「やめろっ……やめろっ!」

 為す術無く、僕たちは壁際にジリジリと追い込まれていった。

「ほら、早くぅ!」

 リコさんの声を皮切りに、ゾンビたちが一斉にサキナさんに組み付いた。

「やめろっ!離せっ!」

「さ、サキナさんっ!」

 僕は慌ててサキナさんを助けようと駆け寄ったが、

「ヴぉうっ!」

 と、吠えるポッちゃんの腕に、容易く弾き飛ばされた。ダンッ!と壁に叩きつけられ、ズリズリと身体が床に崩れ落ちていく。

「か、はっ……」

 鈍痛が背中から全身にジワジワと広がっていく。息ができない。頭を打ったのか、後頭部に冷たい痛みが張り付いている。

「サ、キナ、さ……」

 立ち上がろうとしたが、身体は言う事を聞かなかった。意識が朦朧としていき、視界がぼやけていく。

「やめろっ!触るなっ!離せっ!」

 サキナさんの悲鳴が聴こえる。

「フフッ、噛んじゃダメだよぉ。服だけ脱がしてあげてねぇ」

 リコさんの無邪気な声が聴こえる。

 サキナ、さんを、助け、ないと———、

「や、め……」

 力なく伸ばした腕が重力に抗えずに下がり、僕の身体は床に倒れ込んだ。

 ぼやけた視界の中で、ゾンビたちが揉み合っている。サキナさんの真っ赤なレインコートが、引き裂かれて、宙を、舞って———。  

 僕の意識が持ったのはそこまでだった。




「———きて、起きて、あかるん」

 目を開けると、リコさんの顔が目の前にあった。ぱっちりとした目で、僕の顔を覗き込んでいる。

「う……ん……」

 身体を起こすと、背中が壁に当たった。そのままもたれて、深く息を吸う。

 頭が痛い。何が起きた?

 なんだか、悪夢を見ていたような……。

 悪夢?

「サキナさんっ!」

 身体がビクッと跳ねた。


 ———ジャラ


「……え?」

 違和感を感じて下を向いた。鎖だ。鎖が落ちている。どうして。

 ジャラリと鎖を手に取ると、それが僕の首から伸びていることが分かった。

「気が付いた?」

 リコさんが無邪気に笑った。

 首元に違和感を感じて手をやると、ツヤツヤしたものが触れた。

 これは、この感触は、ベルト?

「フフッ、似合ってるよ。ワンちゃんみたい」

 ……僕は、まだ悪夢を見ているのか?

「ほら、御対面だよ、まーなーこっ。あかるんが起きたよぉ」

 リコさんがふわりとスカートを翻して立ち上がった。

 その向こうには、下着姿で床に倒れているサキナさんの姿があった。

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