6:NIGHTMARE IS COMING

 ―――目が覚める。というよりも、意識を取り戻す。

 ここは、どこだ?

 ……ああ、学校か。

 そうだ、あれから、ずっと、学校を彷徨っていて……。

 記憶が曖昧だ。脳味噌がまともに働いていない気がする。

 この、生きているか死んでいるか分からない身体に成り果ててから、ずっと。

 皮膚と同じように、脳味噌も腐っているのだろうか?

 窓に反射して映り込んだ自分の姿を眺める。

 不自然なほどに生白い肌。白く濁った眼。

 何もかもが、真っ白だ。

 でも、自分はその辺の奴等とは違う。

 ヴあヴあ呻くだけの、能無し連中とは違う。決して同類じゃない。

 なぜなら、自分は、死しても尚、こうして意識を、自我を、保っているのだから。




 フラフラと、校舎の中を彷徨う。

 獲物を、食料を求めて。

 前はゾンビ共で溢れかえっていたが、あの体育館でのことがあってからは、大分数が減った。それでも、まだ校内にはウロウロとしている連中がいる。

 それほど、学校が好きなのだろうか。おめでたい奴らだ。

 ……ああ、いたいた。

 気が付かれないまま獲物に近付くと、頭を殴りつけてぶち殺した。倒れた獲物の身体から腕をもぎ取って、柔らかい二の腕に噛り付く。

 ……美味い。やっぱり、男よりも女の方が美味い気がする。

 最初は躊躇っていたが、もう慣れた。血の味も、肉の腐った臭いも、何とも思わない。

 この身体になってからは、食事をしなくてもよくなった。別に飲まず食わずでも、何日間も過ごせる。

 それでも、たまにはこうして飢えを満たしたくなる。

 理由は分からない。本能というやつだろうか。

 飢えを満たし終えると、いつものように獲物の死体を窓から捨てた。下を見ると、今までぶち殺してきた連中と、邪魔だったので片付けてやった連中の死体がグズグズに腐り果てていた。

 自分の腕を見る。まだ、白く変色しているだけだが、いずれあんな風に腐り果てるのだろうか。

 ……ああなる前に、なんとかしなければ。




 保健室にあった鏡で、全身に施した防腐措置を今一度確認する。

 簡易的だが、何もしないよりはマシだろう。

 だが、これでは、まるでミイラだな。

 ミイラではなく、ゾンビなのに。

 だが、この出で立ちは、まるであれのようだな。

 黒いロングトレンチコートと、黒いソフト帽さえあれば完璧だが―――、

「ふふっ……」

 思わず、笑みが漏れた。

 我ながら、馬鹿げた考えだ。

 だが、自分が選ばれし者なことに変わりはないではないか。

 自分は、この崩壊した世界において、正にヒーローのような存在なのだから。




 目覚めた場所へと、戻ってきた。

 もう、ずっとここで過ごしている。身体が腐らないように、カーテンを閉めて陽の光を遮った、薄暗闇の中で。

 虫にも気を付けている。蠅一匹、ゴキブリ一匹入らないように。もし見つけたら、即座に叩き殺している。

 腐っていく身体を、食われるわけにはいかない。

 自分と、あの人の身体を。

 ……さあ、続きをするか。

 椅子に座り、道具を手に取る。

 もう何度も試みているが、どうにも上手くいかない。でも、いずれ、完成させてみせる。いつか、きっと。

「……ねえ、笑ってよ」

 目の前にいる人に、語りかける。

「……あの時みたいにさ」

 椅子に座って、ずっと黙り込んでいる―――、

「……お願いだから」

 林田さんに―――——。


 ◇ ◇ ◇


「うあっ!」

 ビクッと身体が震えて、目を覚ました。

「はっ、はっ、はあっ……」

 悪夢を見ていた。自分が、ゾンビになっているのに自我を保ったまま、未だに学校を彷徨い続けているという悪夢を。随分とリアルで、気持ちの悪い夢だった。それも、最後には林田さんが……。

 何故だ。普段は夢を見ても、内容を覚えていることはほとんどないのに――と、その時、自分がソファーに横たわっているのに気が付いた。

「……え?」

 よく見ると、いつも着ていたはずのジャージを着ていない。なぜか、素肌に白いシャツを羽織っていて、身体にはタオルケットが掛けられている。額に違和感を感じて触れると、冷えピタが貼られていた。

 何が起きたんだ?ここはYOUトピアで、僕は———、

「やっと起きたか」

 声のする方を向くと、サキナさんがテーブルでカセットコンロをいじっていた。乗せられている小鍋から、ふつふつと湯気が上がっている。

「あ、あの……僕は一体……」

「一階で倒れてたんだよ。覚えてねえのか?」

 ぼやけた頭で、すべてを思い出した。

 そうだ、お酒をこっそり持ってきたことをサキナさんから怒られて、拠点から逃げ出して、缶を投げ捨てたら、急にきつくなって倒れて……。

「な、なんでここに……」

「なんでって、俺が運んできたんだよ。いつまで経っても戻って来やしねえから、探しに行ったら、お前が通路のど真ん中で倒れてるもんだから、何事かと思ったぜ」

「す、すいませ……ううっ」

 身体を起こそうとして、目眩がした。力なくソファーに沈むと、ジンジンと首筋が唸っているのが分かった。顔に手を当ててみると、信じられないくらいに熱い。汗も、びっしょりと掻いている。

「無理すんなよ。すごい熱だぜ。調達の時から、なんか顔色悪いなとは思ってたけど、あの時からきつかったのか?」

「……はい」

「ったく、体調悪いなら早く言えよ。多分、疲れて夏風邪でも引いたんだろ。いいから寝とけ。ほら」

 サキナさんから差し出されたポカリを受け取ると、キャップを開けてちびちびと飲んだ。ぬるくて優しい甘さが身体に染みわたっていき、ゆっくりと頭が回りだす。

 サキナさんは一体どうやって僕をここまで運んできたのだろう。あそこからはそこそこ距離があるけれど。

 ……まさか、お姫様抱っこで?

 その姿を思い浮かべた瞬間、顔がオーバーヒートしそうになった。

 まずい、ただでさえ熱があるのに、馬鹿なことを考えるんじゃない。キモいことを考えるんじゃない。

 顔を見られないように背けると、ソファーの後ろにあったハンガーラックが目に付いた。僕が着ていたはずのジャージとTシャツが掛けられている。

 僕は今、素肌に白いシャツを羽織っている。ということは、まさか、寝ている間に僕は……。

 慌てて掛けられていたタオルケットを捲ると、下にはちゃんと短パンを履いていた。

 ああ、良かった。全身じゃなかった。上だけだった。

 ……でも、僕は寝ている間とはいえ、サキナさんに服を脱がされて、着替えさせられたのか?

「あ、あああっ……」

 顏が、完全にオーバーヒートを起こした。口と鼻から、ふしゅふしゅと熱気が噴き出していく。

「お、おいっ、あかるっ、大丈夫かっ」

 燃えカスのようになっていると、サキナさんが心配して声をかけてきた。

「は、はい……らいじょうぶべす……」

「全然大丈夫そうじゃねえぞ。ほら、とりあえず食えよ」

 サキナさんが湯気の立つスープ皿を僕に差し出した。上半身だけをどうにか起こして中を見ると、おかゆが注がれていた。どうやら小鍋で温めていたのは、レトルトのおかゆだったようだ。

「あ、ありがとうございます……、あちっ」

 熱すぎて手に持てず、タオルケットを手にかぶせてスープ皿を受け取った。サキナさんは平気な顔して素手で持っていたが、熱くなかったのだろうか。

 湯気の立つおかゆを十分に冷ましてから、ゆっくりと食べた。レトルトのおかゆは初めて食べたが、中々美味しい。もっと味気ないものだと思っていたが、元からちゃんと味が付いているようだ。

 人から看病されているというありがたみを感じながら、おかゆを啜った。熱とは違う種類の温かさが喉から胃袋に落ちていくと、なんだか急に自分が情けなくなってきた。目に、ジワジワと涙が滲んでいく。

「ううっ……」

「あかる?」

「すいません……すいません……ううっ……」

 情けなく、グスグスと啜り泣いた。

 僕はクソ馬鹿だった。独りよがりなことをして、謝りもせずに逃げ出して、挙句の果てに倒れて、迷惑をかけて……。どうしようもない奴だ。

「ごめんなさいっ……」

「……なんだよ、急に。いいから早く食えっての」

 サキナさんは僕の泣く姿を見まいと気を遣ってくれたのか、顔を背けた。沈黙が続いて、僕が情けなく啜り泣く音だけが拠点に響いた。

「ああ、あと、これも飲んどけよ」

 と、サキナさんが取り繕うように、たくさんの小箱と小瓶をソファーにポイポイと投げて寄越した。

「あ、あの、これって……」

「よく分かんねえから、薬局にあったやつ全部持ってきたんだ。全部飲めば治るんじゃねえか?」

 ぐちゃぐちゃの顔を拭って、小箱をひとつひとつ手に取って見てみると、風邪薬に混じって、なぜか胃薬や頭痛薬、漢方薬のようなものまで混じっていた。これに至っては花粉症の薬だ。

 小瓶の方は……。これは確かに栄養ドリンクだけど、こんなにいっぺんに飲んだら身体が変になりそうだ。それに、これに至っては……。未成年の僕が飲んでもいいものなんだろうか……。

「それ飲んだら、ゆっくり休めよ。一日寝とけば治るだろ」

 これを飲んだら、色々と眠れなくなってしまいそうだが……。

「あと、今日はそこで寝ろよ。そっちの方が寝心地いいだろ。俺はテントで寝るから」

「ぶふぁっ!」

 凄まじい勢いでむせた。

 ここって、サキナさんが毎日寝ていた場所じゃ……。

「で、でも」

「なんだよ。遠慮すんなっての。ちゃんとしたとこで寝ないと、疲れがとれねえだろ」

 確かにそうだが、これじゃ熱が下がるどころじゃない。上りに上がって爆発してしまいそうだ。

 キモい表情になっているであろう顔を見られないように、下を向いておかゆを口に運んだ。黙々と食べていれば会話をしなくて済むが、そのせいで、ひたすらスプーンが進んだ。今度は、スプーンがスープ皿を引っ掻くカチャカチャという音だけが、物静かに拠点に響く。

 レトルトのおかゆは大した量もなく、あっという間に食べ終えてしまった。まずい、このままじゃ、どうしようもなくなってしまう。場の空気に耐えられそうもないのに。

「食い終わったか?」

「ふぁ、ふぁい」

 不意に話しかけられて、間抜けな声が出た。

「ん」

 差し出された手に、おずおずとスープ皿を渡すと、サキナさんは手際よくテーブルの上を片付けて、拠点の戸締りをし始めた。

 その後ろ姿を見て、また情けない気持ちになりながら、手元の風邪薬の箱を破った。何の役にも立たず、伏せっているだけの自分が、凄くちっぽけな存在に思えてくる。

 錠剤を取り出そうとして、右手の指にはめていたアンデッドマンの指輪が目に入った。

 ……僕に、これをはめる資格なんかない。

 指輪を外してポケットにしまった。軽くなった手で、錠剤を用量分取り出す。

 ―――強くなろう。

 そう決意して、栄養ドリンクで錠剤を流し込んだ。

 強くなるんだ。もうサキナさんに迷惑をかけるわけにはいかない。この終末世界を生き抜く為に、しっかりとした強い男になるんだ。

 それにしても不味い飲み物だなあと、空になった栄養ドリンクの瓶を見ると、とんでもないことに気が付いた。

 これは、未成年の僕が飲むようなものじゃないタイプの栄養ドリンクだ……。

 な、なんで、どうして、間違えた。ぼーっとしていたせいだ。

 あれ?これって、まずいことになるんじゃ……。

「薬、飲んだか?」

「ふぁっ!は、はいっ」

 慌てて瓶を隠した。こんなもの飲んだとバレたら、誤解されてしまう。そんなこと考えてない。絶対に考えてない。断じて考えてない。

「じゃあ、もう早いけど寝るぞ。電気消していいか?」

「は、はは、はいっ」

 恥ずかしさのあまり、タオルケットで顔を覆っていると、カチッと音がして完全に真っ暗になった。次に、ガサガサという音がソファー越しに聴こえると、辺りは完全に静寂に支配されたが、僕の心臓だけがバクバクとうるさいほどに高鳴っていた。

 大丈夫なのだろうか。あの栄養ドリンクは未成年が飲んだら危険なことになってしまうんじゃないだろうか。ただでさえ、朝は色々と危険なことになるのに。というか、明日はこのソファーで目覚めるんだぞ。こんなタオルケットじゃ……。もしサキナさんに見られたら、僕は一巻の終わりだ。絶対にサキナさんより早く目覚めないと。

 なんだこれ、全然安らかに眠れないじゃないかっ。どうしてこんなことに、ああ、なんで間違えてあんなもの飲んでしまったんだ。ちゃんとした人間になるって決意したばっかりなのに。やっぱり僕は馬鹿だ。情けない馬鹿だ。

 後悔に苛まれていると、くらりと意識が遠のいた。多分、熱があるのに何度も悶絶してオーバーヒートしたせいだ。弱った身体にこたえたのだろう。

 明日から、ちゃんとした人間になるぞ。目覚めたら、強い男になるんだ。

 そう誓うと、熱っぽい僕の意識は、ゆっくりと暗闇に溶けていった。




 目覚めると、時計の針は七時ちょうどを指していた。

 身体を起こし、頭を覚醒させる。今朝は悪夢を見なかったせいか、気分がすっきりとしている。そういえば、身体から気怠さが消えている。昨日飲んだ薬が効いたらしい。

 昨日飲んだ……?

 ハッとして下を見ると、案の定な事態になっていた。慌てて体育座りの姿勢になって誤魔化す。

 まずい、落ち着かないと、まさか、見られていないだろうか。

 サキナさんのテントを見るが、入り口のファスナーは閉じられていた。耳を澄ますと、微かに寝息が聴こえる。

 良かった。もし見られていたら、一巻の終わりだった。まったく、あんなものを間違えて飲むからだ。馬鹿め。

 自分を叱責しながら、眠る直前に決意したことを思い出す。

 やるぞ、今日から僕は強くなるんだ。

 身体が落ち着くのを待ってから、僕はちゃんとした人間になる為に、動き出した。




「おはようございます」

「おう。……これ、お前が作ったのか?」

「はいっ」

 眠たそうに目をこすりながら起きてきたサキナさんを迎える。テーブルの上には、コーンスープの入ったマグカップと、缶詰のパンを半分に切って置いた紙皿を二つずつ並べてある。簡素なものでも、せめて立派な朝食にみせようと苦心した結果だった。

「ふぁああ……ありがとよ。それよりも、あかる、身体はもう大丈夫なのか?」

「はい、おかげさまで。ありがとうございましたっ」

 深々と頭を下げると、サキナさんは呆れたような顔をした。

「お前よう、いちいち硬すぎるっての。それと、いい加減にさん付けもやめろよな。同い年なんだから」

「は、はい、サキナ……さん」

「だからいいってのに」

 撃沈する僕を尻目に、サキナさんはテーブルに着いた。僕もそれに倣って、反対側の方に座った。

 二人でテーブルを囲んでパンを齧っていると、ふと気が付いた。

 今までも、こうやって過ごしてきたけれど、一体いつから、これが当たり前の日常になっていたんだろう。

 僕にとって、この光景がどれだけ大切な意味を持つのか、忘れていた。

 僕が今、独りじゃないということに。

 悪夢が思い出させてくれた。世界が崩壊する前の僕は、惨めなほど孤独だったことを。誰一人として、僕を見てくれる人などいなかった。見えない者として扱われ、無視され続ける毎日だった。

「あ、あの、サキナさん」

「あ?」

「……僕なんかと一緒にいてくれて、ありがとうございます」

「何言ってんだ、お前」

 呆気なくあしらわれてしまったが、僕はサキナさんにきちんと感謝の言葉を伝えられたことを、後悔していなかった。

「僕、サキナさんみたいに、強くなります」

「はあ?」

「つっ、強くなります。ちゃんとした人間に、頼れる男になりますっ」

 決意を言葉にすると、顔が赤くなっていくのを感じた。サキナさんは、そんな僕の顔をジロジロと見ると、

「お前、まだ熱あるんじゃねえのか?」

 と、小馬鹿にするように笑った。

「ぼ、僕は本気ですっ」

 語気を強めたが、サキナさんは呑気にコーンスープを啜りながら、

「ふん、まあいいよ。好きにしろ」

 と、また呆れたように言った。

 

 

 

 僕は朝食を食べ終えた後、すぐに決意を行動に移した。

 まず、散らかっていたテントの周りを片付けて、ソファーやクッションに消臭スプレーを振りまき、テラス席に行ってタオルケットを干した。

 その後、トイレで歯磨きをして、水を節約しながら身体と髪を入念に洗った。ついでに少々身体を持て余した後、きちんと汚れを洗い流して身体を拭き上げ、新品のジャージに着替えてシャキッと気合を入れた。

 身体を清めた後は、前からぼんやりと考えていたことを実行に移すことにした。

 まず、屋上駐車場に向かうと、DIYショップから持ってきた白いペンキで、でかでかと〝SOS〟と描いた。いつか見た映画の真似事だ。今更助けが来るとは思えないが、もし来たとしたらこのメッセージを見て、助けてくれるかもしれない。

 他にも、ポリバケツをたくさん運んできて、蓋を外して並べて置いた。雨水を溜めて、生活用水に利用しようと企んでのことだった。

 中へ戻ると、無くなりかけていたトイレ用の水を、噴水池からポリタンクで運んで補充した。ついでに、金魚たちに餌を与えた。あまり考えたくはないが、いざとなればこの金魚たちを非常食にすればいい。食べる時に、どうせなら大きい方がいいと思い、餌は栄養価の高そうな高級なものをたっぷり与えた。

 次に、薬局に行って薬や栄養剤などを一通り集めた。不測の事態に備えて、冷えピタや湿布、塗り薬、経口補水液なんかも取り揃えた。

 物資を集めた後は、本屋に行ってサバイバル術や災害マニュアルが指南された本をたくさん集めた。もしもの時の為に、少しでも知識を蓄えておこうと考えてのことだった。驚くことに、〝もしゾンビ・アポカリプスが起きたら?〟なんて本もあったが、表紙の馬鹿馬鹿しさに呆れて取ることはなかった。

 知識を集めた後は、スポーツ用品店に行った。頼れる男になる為に、展示されていた色んなトレーニングマシンをちょっとずつ試して身体を鍛えようとしてみたが、非力過ぎてまともにトレーニングができなかった。結局、握力グリップやダンベルなんかのトレーニンググッズを拠点に持っていくことにした。




 集めた物資で満杯のカートを押しながら、YOUトピアの中を行く。

 まだ昼間だが、やはり中は薄暗い。慣れたものだと思っていたが、どうにも気味の悪さが無人の空間に漂っていて、居心地が悪い。

 大丈夫だ、僕は独りじゃない。サキナさんがいる。ここには、僕のことを見てくれる人がいる。

 そう自分に言い聞かせながら歩いていると、ある場所に辿り着いた。

 吹き抜けで各フロアが一望できるここは、僕が倒れた場所だ。

 上を見上げた。あの時、この景色がグニャリと歪んで、意識が途切れて、自分がゾンビになって未だに学校を彷徨っているという悪夢を―――、

「はあっ……」

 いつの間にか止まっていた息を吐いた。やめろ、思い出すんじゃない。あれは夢だ。現実じゃない。

 頭を振って、景色をかき消した。気分を変えよう。独りでいるからこんな気持ちになるんだ。

 ポケットからウォークマンを取り出すと、イヤホンを耳に押し込んだ。画面には、たくさんのアーティストが表示されている。CDショップのテナントに行った時に、展示されていたノートパソコンを充電して好きなだけ音楽を取り込んだので、前よりもずっとラインナップは充実している。

 こんな時は……。流行りの曲を選択しようとして、躊躇った。僕が今、本当に聴きたい曲は。

 画面をスライドさせ、ずっと前から入っていた〝Hump Back〟のアルバムを選ぶ。

 せっかく新しいのをたくさん入れたのにもったいないかな、とは思ったが、僕が今聴きたいのは、Hump Backの、この曲だ。

 お気に入りの音楽に乗って、カートを押した。嫌な思いをした場所から走り去ると、その勢いのままカートに足を乗せた。YOUトピアの中を、スイスイとカートに乗って進んでいく。

 音楽は良い。すぐに気分を変えられる。イヤホンで聴くと尚更だ。僕だけの世界を創って逃避できる。独りでいた頃は、こうやって孤独を紛らわしていたっけ。

 お気に入りの曲を口ずさみながらカートで疾走していると、ふと目に付くものがあった。

 服屋のテナントの店先に、三体のマネキンが並んでいる。三人家族を模しているのか、真ん中の小さなマネキンは女児の服装をしていて、両隣のマネキンは、いかにも家庭的な両親といった服装をしていた。

 その中で、なぜか父親のマネキンだけが、ズタズタに傷つけられていた。服は何かで切りつけたように裂けているし、顔は殴りつけられたようにベッコリと凹んでいた。腕も脚も変な方向に曲がっている。

 僕はこんなことをした覚えはない。元からこんなはずじゃないだろうし、サキナさんがやったんだろう。そういえば、拠点にナイフを持ち込んでいたし、マネキン相手に対ゾンビの訓練でもしたんだろうか。

 疑問に思っていると、お気に入りの曲が終わって別の曲が流れ始めた。僕は別のお気に入りの曲を選び直すと、またカートに乗ってYOUトピアの中を疾走した。




「あっ、サキナさんっ」

 三階のテラス席でくつろいでいたサキナさんを見つけて駆け寄った。

「おう、あかるか」

 サキナさんは手に持っていた何かをレインコートのポケットにねじ込みながら、僕の方に向き直った。

 ポケットを見ると、白と黒が重なって混ざり合った紙の層の断面が覗いていた。この独特の表面は、漫画本だ。

「あれ?サキナさん、漫画はあんまり好きじゃないって……」

 ウォークマンの音量を下げながら訊くと、

「なんだよ、別に読んだっていいだろ」

 言い返されて、僕はまた撃沈した。それを見かねたのか、取り繕うようにサキナさんが、

「あかる、もう体調の方はいいのか?」

「は、はい」

「気を付けとけよ。またぶり返すかもしれねえぞ。薬で治ったから良かったけど、もう病院なんてないんだからな」

 心配されているということに嬉しくなり、表情が緩んだ。見られないように、気恥ずかしさを隠しながら、反対側の席に着く。ここなら、横並びで対面しないから、顔をまともに見られることはない。

「それ、音楽聴いてんのか?」 

 サキナさんが、イヤホンを指差した。

「はい」

「何聴いてんだ?」

 サキナさんがテーブルに身を乗り出して、片方のイヤホンを僕の耳から引き抜くと、自分の耳に押し込んだ。思わず、息が止まる。

 い、イヤホンが短いせいで、サキナさんの顔がすぐ近くに……!

「……なんか、音が小さくねえか?」

「すっ、すいませんっ」

 慌てて音量を上げた。ゼロに近いほど下げていたので分からなかったが、ウォークマンは相変わらずHump Backの曲を歌い上げていた。

 サキナさんの趣味に合うのだろうか?ガールズロックバンドの曲を男が聴いているのは変だと思われるだろうか?キモいと思われやしないだろうか?

 恐る恐る様子を窺うと、サキナさんはテーブルに頬杖を突いて、景色を眺めていた。その横顔は、どこか感動しているように見えた。

「……イヤホンで聴くのって、こんな感じなんだな」

「えっ?」

 まさか、初めてイヤホンを付けたんだろうか?今まで、イヤホンを使ったことのない人なんて見たことないけれど。いや、訊いたことがないだけで、そんな人ザラにいるんだろうか?

 でも、ともかくサキナさんが嬉しそうにしているのなら、それでいい。

 不思議な時間が流れた。二人でひとつのイヤホンでロックを聴きながら、景色を眺めていると、何もかもが崩壊している終末世界だというのに、なぜか不安や絶望を微塵も感じなかった。

 溢れるゾンビ、一向に来ない救助、いつか尽きる水や食料、いつ崩れるかも分からないこの理想郷。漠然と抱えていたそれらに対する不安が、遠い存在になっていく。

 ずっとこうしていたい。何もかも忘れて、この心地いい時間に囚われて———、

「……あかる」

「は、はい?」

 不意に名前を呼ばれてドキッとした。急に何だろう。まさか―――、

「なんだ、あれ?」

「えっ?」

 サキナさんが、イヤホンを耳から引き抜きながら立ち上がった。カランとテーブルの上に放り出されたイヤホンに、もの悲しくなりながらサキナさんの視線の先を見ると、たくさんのゾンビを引き連れて疾走する一台の車が、YOUトピアの敷地に乗り込んで来ていた。

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