2:THE WORLD CHANGES
「はい、そこまで」
我に返った。授業終了を告げるチャイムが鳴っている。
顔を上げると、みんなが教卓の方を向いて梶原の声に耳を傾けていた。
「スケッチブックは班の中から誰か一人が集めて準備室にしまうように。それじゃ、終わりです」
「起立、礼」
慌ててみんなに合わせて立ち上がり、礼をする。考え事をしている内に、時間が経っていたようだ。
そういえば似顔絵はどうなった?
目の前のスケッチブックを見ると、そこには何度もなぞられた跡のある、顔のない輪郭だけの人間が描き込まれていた。粗い線だけで構成された、目も鼻も口も無い、マネキンのような人間が。
どうして無意識にこんなものを描いたんだろう。
考え込んでいると、いつの間にか僕の机の面々はスケッチブックを置き去りにして席を立っていた。会話を交わし、友達とふざけ合いながら、美術室を出ていく。
……ああ、そういうことかと納得し、みんなのスケッチブックを回収した。六人分のスケッチブックを抱え、併設されている美術準備室に向かう。
木製の扉を開けて中に入ると、油絵具の匂いがプンと鼻についた。確か、一番奥の棚だったはずだ。
僕の班以外は、もうしまい終えていたようで、三十冊ほどのスケッチブックが〝二年一組〟のテプラが貼られている棚に並んでいた。隣に六冊を押し込もうとした時、ふと邪な考えが頭をよぎった。
……林田さんは、僕の顔を描いていたんだろうか?
振り返る。美術室の方からはまだ喧騒が小さく聴こえてくる。
向き直り、スケッチブックの数を数える。一、二、三、……ちゃんと三十四冊ある。手にある六冊を足せば、四十冊。クラスの人数分きちんとある。
つまり、もうここにスケッチブックをしまいにくる者はいないということだ。
抱えている六冊を見る。一番上に重ねていたのは、自分のものだ。〝透野 明〟と僕の字で書かれている。それを後ろにやると、林田さんのスケッチブックが現れた。名前の所に、丁寧な字で〝林田 麻紀〟と書かれている。
思わず、中を開いて見ようとして、手が止まった。
キモい。キモ過ぎる。何を考えてるんだ。他人のスケッチブックを勝手に覗き見るなんて。
そんなはずないじゃないか。そんなはず。
でも、もしかしたら……。
躊躇った後、震える指で恐る恐る表紙をめくった。そこには―――、
「……っ!」
朝、洗面台の鏡で見たばかりの、随分と死んだ目をしている僕が、鉛筆によって再現されていた。
よく見ると、割と特徴が捉えられている。死んだ魚のような目、垂らした前髪、困り気味の薄い眉、結んだ口、虚無のような冴えない表情。
林田さんは、僕の似顔絵を描いていたんだ……!
つまり、僕は、やっぱり、林田さんから、存在を認識されている……?
心臓が、ドクンッと高鳴った。
もしかして、いや、まさか、でも、こんな冴えない顔の奴はクラスに僕だけだし、いや、だけど、でも、もしかして、もしかすると……そんなわけないだろ馬鹿、キモいぞ、お前、最高にキモい。でも、でも……。
抑えきれない感情にひとしきり悶えた後、我に返った。
ああ、まずい。早く出て行かないと。給食に遅れてしまう。
僕は、林田さんによって描かれた顔を目にしっかりと焼き付けてから、六冊のスケッチブックを棚にしまった。
向き直ると、入り口の方へ行って、扉を開け———、
―――ガチャ
……え?
ドアノブのレバーが、下に行かない。九十度捻って開けるタイプのドアノブが、ビクともしない。
ええっと……。
もう一度下向きに捻ろうとしてみるが、やはりビクともしなかった。上向きに捻るんだっけと思ったが、そんなわけもなく、上には行かない。当たり前の話だが、そのまま押しても引いても、扉が開くわけはなく……あれ?
閉じ込められた?
これって……ヤバくないか?
―――ガチャ、ガチャガチャガチャガチャッ!
焦ってドアノブを弄り回したが、どうにもならなかった。体重を掛けてみるが、少しも下に行かない。
「はあっ、はあっ……」
息が上がる。まさか、壊れてしまったのか?このタイミングで?こんな、単純構造のものが?
そんな、どうしよう、大声を出せばいいのか?でも、僕は学校中の人間から無視されていて……。
―――ドンドンドンドンッ!
扉を思いきり叩いた。同時に、扉に耳を付けて様子を窺ってみたが、向こう側からは人の気配を一切感じ取ることができなかった。
まさか、僕がスケッチブックに夢中になっている間に、みんな教室に帰ってしまったのか?美術教師の梶原も、もう全員出て行っただろうと判断して、鍵を掛けて行ってしまったのか?そんな……あいつが怠けずにクラス全員分のスケッチブックを回収していれば、僕はこんなことにならずに済んだのに!
「あっ……開けてくださいっ!」
思わず、叫んだ。学校で声を出すなんて、いつぶりだろう。無視されるかもしれないのに。いや、そんなことはいい。なりふり構ってはいられない。今はとにかく、助けを求めないと―――、
「す、すいませーん!誰かいませんかっ!」
「閉じ込められましたっ!助けてくださーい!」
「誰かっ!誰かあっ!」
扉を叩きながら、必死に声を張り上げて助けを求めた。が、向こう側からは誰の声もせず、人の気配も微塵も感じられず、
「誰かあっ……!」
その後も、必死に扉を叩いて叫び続けたが、結局、助けが来ることはなかった。
疲れ切った僕は、呆然と美術準備室の床に座り込んでいた。
冷静に考えてみれば、ここは三階だ。人が常駐している教室はないし、この真下は確か、コンピューター室のはず。各学年の教室は、棟の向こう側、遠い位置にある。
つまり、どれだけ声を張り上げようと、壁や床を叩いて騒音を出そうと、気が付く者はいないということだ。
スマホは持っていないし、そもそも呼べる友達もいない。成す術無し、正に万事休すだ。
ああ……。
みんな、今頃、教室で給食を食べているんだろうか?僕の席だけがぽっかりと空いていて、みんなでそのことを笑っているのだろうか?
なんで、あいつ、いないの?
知らね、帰ったんじゃねえの?
ギャハハハハハハハ!
そんなやりとりが交わされているのだろうか?
いや、多分違う。
誰も、僕がいないことを気にも留めないだろう。
それが、みんなにとってのルールなのだから。
短いため息をついて、顔を上げた。
今、何時何分なのだろう。この部屋には時計が無いので分からない。
五時限目に、美術の授業をするクラスはあるだろうか?恥ずかしくてたまらないが、その時に助けを求めるしかない。
いや、でも、もし無かったとしたら?
僕はずっと、ここに閉じ込められたままなのだろうか……?
急に怖くなり、立ち上がった。じっとしていられずに、脱出経路を探してみる。
扉は、依然として開かないままだ。窓はひとつだけあるが、外に面している半分しか開かないタイプの突き出し窓だし、抜けられたとしてもここは三階だ。飛び降りるわけにもいかないし、大声で助けを呼ぶ勇気もない。というより、助けを求めているのが僕だと分かった時点で、無視されるだろう。
他に、出て行けるような場所は……。
天井を見上げた。が、ハリウッド映画によく出てくるような通気口は見当たらなかった。もしあったとしても、そもそも手が届かない。
八方塞がりだ。まさか、僕は夜になるまでここで過ごすことになるのだろうか?
一日くらいで餓死はしないだろうけど、と考えていると、グウウと腹が鳴った。このままでは、自分の胃液に溶かされて死んでしまいそうだ。
一体どうしたら――と、絶望を目の前にした途端、なぜか急に身体に力が漲ってきた。
生存本能というやつだろうか。なんだか、今なら何でもできそうな気がしてくる。
そういえば、火事場の馬鹿力という言葉がある。人間は極限まで追い詰められたら、普段からは想像もできないような力を無意識に発揮することがあるという。
もしかしたら僕は今、その状態に陥っているのかもしれない。
……やってやる、やってやるぞ。
狭苦しい美術準備室で精一杯助走をつけると、歯を食いしばり、拳を握った。こんな木でできた薄っぺらい扉、ぶち破ってやる。
大きく息を吸い込むと、思いきり床を蹴って、ドアにタックルをっ―――!
———ドウンッ!
という鈍い音がして、僕の身体はあっけなく弾かれ、床に倒れ込んだ。
「ううっ……」
肩と頭に、鈍痛がジワジワと広がっていく。
ああ……そりゃそうだよなあ……。
床に転がりながら、十秒前の自分に怒鳴りたくなった。
お前にそんなことができるわけないだろ、と。
僕は馬鹿だ。キモい上に馬鹿だ。
埃だらけの薄汚い床に転がっていると、何もかも嫌になってきた。
このままこうしていれば、いずれ誰かやって来て……いや、来たとしても、誰も助けてはくれないだろう。僕がいくら声を上げようが、みんな無視をするのだから。
僕はここに閉じ込められたまま、死ぬのだろうか。死体になれば、いかに無視されている存在といえど、腐ったまま放置しておくわけにもいかないだろうから、構ってもらえるだろうか。
死ねば、ようやく誰かに見てもらえるのだろうか?
———ドォォォォォン……
……ん?
何だ?この音は。
ぴったりと床に付けていた耳から、地響きのような音、というよりは振動が伝わってきた。
———きゃぁぁぁぁぁぁ……
……今度は何だ?
これは……悲鳴?
むくりと身体を起こした。痛みが残ったまま、立ち上がる。
何かあったんだろうか?疑問に思い、唯一の外界との接触点である窓から外を眺めた。校庭が見渡せる。その向こうには、田舎過ぎず、都会過ぎない座作市の平坦な街並みが広がっている。
その見慣れた景色の中に、黒煙が上がっていた。煤けた黒い煙がモクモクと、入道雲を汚すように立ち昇っている。
火事だろうか?それにしては、サイレンの音が聴こえない。
試しに、ハンドルを操作して突き出し窓を開けてみた。下から顔を出すくらいしかできないが、これで外の音は良く聴こえるように―――、
———ゴォォォォォドォォン!
ビクッと身体がのけぞった。
学校の近く、あれは駅だ。駅から轟音が———、
「きゃああああああああっ!」
今度は、下からはっきりと声がした。視線を落とすと、なぜかたくさんの人間が校庭を走り回っていた。
何だ?このパニック状態は。一体何が起きたんだ?
不思議に思った。校庭を走り回っているのは、生徒だけではなかった。遠目からだが、スーツを着た人間や作業服らしき姿の人間、スーパーにでもいそうな主婦っぽい人間がちらほら混じっている。
中には呆然と立ち尽くしている人や、地面に座り込んで這うように蠢いている人もいたが、ほぼ全員がグチャグチャとでたらめな方向に走っていた。まとまりがなく、動きに規則性が無い。まるで、たくさんのグループがふざけながらバラバラに鬼ごっこをしているかのような――が、その割に、逃げ惑っている人間は、やけに鬼気迫る様子で―――、
―――パリン!
と、真下から音がして、咄嗟に下を覗き込んでみると、中庭の植え込みに誰かが突き刺さっていた。辺りにガラス片が散らばっている。
「え、あ……」
変な声が出た。
ま、まさか、窓から飛び降りたのか?どうして、そんなことを。
誰か、助けを呼ばないと。そう思うや否や、周囲にいた数人の人間が植え込みの方へ駆け寄っていった。
ああ、良かった。これで落ちた人も———、
「うぎゃああああああっ!」
今までに聴いたことのないような凄まじい声が耳を劈いた。鼓膜が震えて、心臓がビクつく。
植え込みに刺さっていたのは、どうやら男子生徒のようだった。着地の体勢が悪かったのか、片腕と片足があらぬ方向に曲がっている。
だが、そんなことよりも衝撃的なことが起こっていた。
その男子の身体に、集まってきた人間たちが――齧り付いていた。
あらぬ方向に曲がった腕を、足を、腹を、首筋を、人間が人間に寄ってたかって、喰らいついていた。
「うぎゃああっ!うぎゃああああああああああああっ!」
ブチブチと皮膚を喰い千切られながら、男子は雄叫びのような声を上げて苦痛に顔を歪めていた。
あまりの凄惨な光景に、目を背けようとして、できなかった。一体何が起きているのか理解ができないまま、人間が人間によって喰われていくのを見下ろすことしかできなかった。
「うぎゃ、ぎ、ぎぶっ、ぐ、う……」
やがて雄叫びが嗚咽のような、うがいのような声に変わった後、大量の血を吐いて男子はプツンとこと切れた。群がっていた人間たちは、その後もしばらく男子を齧り続けていたが、やがて興味を失くしたようにヨタヨタと離れていった。
「ひ、ひっ……」
ようやく動けるようになった――というよりは力が抜けて、床にヘナヘナとへたり込んだ。壁に隠れるようにして背中を預け、シャツの襟をギュッと握りしめる。恐怖のあまり、息をするのを忘れていた。喉からカヒューッと音が漏れている。
あれって……ゾンビか?
困惑と恐怖でグツグツ煮立った脳が、突拍子もない思考を弾き出す。
まさか、そんな、あり得ない、映画じゃあるまいし、ドッキリ?誰が、何の為に、爆発が、火事が、街が、駅が、皮膚が、肉が、喰い千切られて、血が、人が、人を……。
―――グオォオオォオオオンンンン……
と、聴いたこともないような地響きを思わせる音が、背後で響いた。振動で、背中を預けている壁が震えているのが分かる。
へたり込みながら、恐る恐る外を眺めた。遠くの方で救急車と消防車のサイレンが鳴っている。さっきよりも立ち昇る黒煙の数が増えている。あちこちで叫び声と、助けを呼ぶ声と、黄色い悲鳴と、怒号と、断末魔の叫びが聴こえる。車のクラクションと、金属が軋む電車のブレーキ音が混ざり合って聴こえてくる。遠くの空から来たヘリコプターがバランスを崩し、大学病院の建物にぶつかってひしゃげていく。その向こうの空に、たくさんの飛行機が並んで飛んでいくのが見える。またどこかで、ガラスが割れた。
校庭を逃げ惑う人たちは、あちこちでゾンビとの追いかけっこに敗れ、齧られていった。唯一、校門の傍の電柱によじ登っていた人だけが助かっていたようだったが、急に身体をのけぞらせて落下し、電線に絡まってぶら下がった。感電死したのだろうか。
見慣れた日常があっという間に崩壊していくのを眺めていると、肺がキリキリと締め付けられた。手足が震え、呼吸が乱れ、額に汗が滲んでいく。
「はっ、はあっ……」
耐えられなくなり、ドッと息を吐くと、半分開いた窓にゴンと頭が当たった。カヒュカヒュと喉を鳴らしながら、せめて外の新鮮な空気を吸おうと首を突っ込むと、真下の植え込みに横たわっている男子の惨殺死体が目に付いた。
「う、うええっ、おっ、おろ……げえええっ」
何も入っていないはずの胃袋が震え、大量のゲロが口から溢れ出た。胃液の気持ち悪い酸っぱさが、口中に広がって外界に滴り落ちていく。
不謹慎なことに、僕の吐いたゲロが男子の死体にビシャビシャとかかった。血で汚れた死体が、僕のゲロでまた汚れていく。ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中で連呼しながら、口いっぱいのゲロを真下に吐き捨てた。
「うげえっ、うっ、ううっ……」
ゲロを吐き終えると、涙が出てきた。顔面がグチャグチャになっていくのを感じながら、世界が滅茶苦茶なんだっ、泣いたっていいだろっ、と誰に言うでもなく悪態をついた。
この街に、この世界に、一体何が起きたというんだ。これからどうなってしまうんだ。どうなって……。
窓から首を出したまま、グスグスと泣きながら力なく項垂れていると、真下でガサガサと音がした。
見遣ると、僕のゲロをかぶった男子の死体が、植え込みからゆっくりと起き上がっていた。
「ヴぁうう……」
男子の死体——ゾンビは呻き声を上げた後、あらぬ方向に曲がった腕をぶらぶらと振り回しながら、片足を引きずって、どこかへヨタヨタと歩いて行った。
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