第1章 —学校—
1:THE INVISIBLE BOY
―――目を覚ますと、全身がしっとりと汗をかいていた。
寝ぼけた頭を起こす。悪夢を見ていたような気がする。いや、悪夢というよりは、過去の嫌な記憶をわざわざ思い起こしてしまったような、そんな感覚だ。
どんな内容だっただろう。思い出せない。
いつもそうだ。夢の内容は起きた瞬間におぼろげになり、上手く思い出せなくなってしまう。
まあいい。どうせろくな内容じゃないだろう。
起き上がると、身体にへばりつくタオルケットを床に放って朝を始めることにした。
自分の部屋を出てトイレの横の洗面台に向かうと、蛇口を捻った。兄の洗顔料が目に入るが、手に取らずに水だけでベタつく顔を洗った。
顔の水を拭うと、寝癖を直してから歯を磨いた。手に水を汲んで口を漱ぐと、もう一度顔を拭ってから前髪を整えた。
鏡に映った自分を見つめる。随分と冴えない表情。半開きの死んだ目。
嫌気が差して、洗面台から離れた。朝なんて、みんな大体あんな顔だ。
部屋に戻って制服に着替えると、リュックを背負って階段を下り、リビングに向かった。父が食後のコーヒーを片手にソファーに座り、テレビのニュース番組を見ている。母がフライパンとフライ返しを手に、キッチンから出てくる。兄は食卓に着いて、スマートフォンを弄っていた。
「おはよう」
コーヒーのマグカップと、トーストが乗った皿が並んでいる食卓。いつも通りの、家族団欒から始まる朝。
「あっ」
フライパンからトーストの上に目玉焼きを滑らせていた母が、声を上げた。見ると、二つの内一つの目玉焼きの黄身が何かの拍子に割れたのか、中身をとろりとはみ出させていた。
すると、兄が無言で割れた方の目玉焼きが乗った皿を自分の方へ引き寄せた。
「そっちでいいの?」
「別にいいよ、変わらないだろ」
母はその様子を見て、あらあらといった風に微笑むと、キッチンの方に戻りながら、
「そういえば、
と、兄に訊いた。
「ん、今日は夜間授業もないしね。早めに帰るよ」
「自習室には行かなくていいのか?大事な時期だろう」
父がコーヒーを啜りながら、口を挟んだ。今年、大学受験を控えている兄のことが、よっぽど心配らしい。
「別にいいだろ。それに、夏期講習だって控えてるんだ。いずれ嫌でも通い詰めることになるよ」
兄が、ぶっきらぼうに答えると、母が、
「ふふ、それじゃあ、今夜は久しぶりにスペアリブでも作ろうかしら」
「スペアリブ?」
「スペアリブより、あれがいいな。ローストビーフ。この間、作ってたやつ」
「まあ。あれ、意外と手間がかかるのよ」
「そうなの?でも、ローストビーフの方がいい」
「父さんも、ローストビーフの方がいいな」
母は、自分以外がローストビーフ派だと分かると、
「もう、仕方ないわね。じゃあ、ローストビーフにするから、二人とも早く帰ってくるのよ?」
今度は、やれやれといった風に微笑んだ。そんな家族団欒の時間が終わった後、僕は一足先に玄関へと向かった。
いつものように、靴箱の上に百円玉が三枚置かれている。今日の分のお小遣いだ。それをポケットにしまい、しゃがんでスニーカーを履いていると、父が、
「ああ、そうそう。
振り返ると、
「やっぱり駄目になったの?」
「ああ。揉めに揉めてたが、とうとう一時的に営業停止することになってなあ。昨日から、業者の立ち退きが始まってる」
母が、「ええっ」と驚きの声を上げる。
YOUトピアというのは、街にあるショッピングモールのことだ。この間から、昔起きた大きな地震のせいだとか、建築業者が偽装していたとか、建物の強度に問題があるとか、そういったことを父が話していたが―――、
「セレクトショップに、ローストビーフのソース買いに行こうと思ってたのに。そんなに大事になったの?」
「ああ。もし、強めの地震が来たら、建物どころか、あの一帯が地盤沈下を起こす可能性があるらしい」
「あり得るの?あんな大きな建物で」
兄が訊くと、
「あんな大きな建物だからだよ。地中深くに基礎杭を打ち込んでるから、その分、大事になるんだ。まあ、あくまで可能性の話だがなあ。発覚したからには、仕方がない。しかし、長いこと建築業に携わってきたが、前代未聞だよ、こんなこと」
父は短いため息を吐くと、
「多分、これから当時の施工を担当した業者とYOUトピアの経営グループとの損害を巡る泥沼裁判が始まるだろうな。父さんの会社も少しだけ関わってたから、先が思いやられるよ」
眉間にしわを寄せながら、コーヒーをグイッと飲み干した。
僕は、へえ、大変そうだなあ、と思いながら立ち上がり、
「いってきまぁす」
と、リビングに向かって声を掛け、玄関の扉を開けた。
「続きまして、次のニュースです。先日、
漏れ聴こえてくるテレビのニュースキャスターの声を背中に受けながら、外へと出た。背後で、ガチャンと扉が閉まる。
空を見上げると、馬鹿みたいに良い天気だった。夏らしく、晴れ晴れとした爽やかな朝。
だが、反対に僕の心は、どんよりと曇っていた。胃も、キリキリと痛んでいる。
……ああ、また何も良いことが無い憂鬱な一日が始まってしまった。
せめてもの慰めにと、ポケットからウォークマンを取り出して、繋いでいる有線イヤホンを耳に押し込んだ。タッチ式の画面を操作し、好きなロックバンド〝hump back〟のアルバムを選ぶと、お気に入りの曲を流して、自分だけの世界を創る。
この、僕という存在をひたすらに虐げる現実という名の世界から、押し潰されないように。
僕は沈んだ気分をロックでどうにか励ましながら家の敷地から出ると、ウォークマンを握りしめたまま、行きたくもない学校を目指してトボトボと歩き始めた。
危なくないように、ウォークマンの音量を外界の音が聴こえる程度に調整して画面をオフにすると、真っ暗になった画面に、制服の名札が反射して映り込んだ。
〝
僕の名前。明るいと書いて、あかると読ませる不思議な名前だ。
命名したのが両親なのか、親類の人間なのか、それともどこぞの姓名判断師なのかは知らないが、明るい人間になってほしいという願いを込めて名付けられたのならば、それは思惑外れだ。
僕は立派な日陰者——陰キャラなのだから。
ウォークマンをポケットに入れると、いつものように下を向きながら通学路を歩いていく。
真横を、同じクラスの女子が無言で通り過ぎていく。
公園の手前にある自販機に辿り着くと、いつものようにポケットの三百円でブドウ味のゼリー飲料を買った。丹念に振った後、缶を開けて飲みながら、また通学路を歩いていく。
真横を、同じクラスの男子グループが賑やかに通り過ぎていく。
ゼリーをじっくりと味わいながら、ウォークマンをいじって曲を変えた。朝はやっぱり、物静かな雰囲気の曲がいい。
ウォークマンをポケットにしまうと、また下を向いて缶を片手に、いつもの道を歩いていく。
真横を、同じクラスのヤンキーグループが自転車で騒がしく通り過ぎていく。
ゼリーを飲み終えると、いつものように学校の目の前にあるバス停の、自販機横のゴミ箱に缶を捨てた。校門の前には生活指導担当の体育教師、
イヤホンを付けたまま、その横を通り過ぎる。
たくさんの人間が和気あいあいと校庭を歩く中、独りで下を向いて玄関を目指した。やがて、校庭の地面が終わり、正面玄関へ続く階段が現れた。一段一段上がっていき、アスファルトの地面を少し歩くと、タイル張りの玄関の前に行き着いた。
「おはようございまーす!」
複数人のハキハキとした声がして、顔を上げると、三年生の生徒会長が生徒会役員たちを引き連れて、玄関横に立っていた。どうやら、前を通る生徒たちに挨拶をしているらしい。そういえば、今週は挨拶強化週間だったっけ。
無言で、その前を通り過ぎる。間を置いて、「おはようございまーす!」と声が上がる。振り返ると、僕の後ろを歩いていた一年生らしき男子生徒が、ペコッと頭を下げている最中だった。
下駄箱にスニーカーを入れて、上履きに履き替える。廊下を通って階段を上がり、二年一組の教室へ向かっていると、様々な人間が前へ後ろへ通り過ぎていった。
厚化粧のせいで、いつも不機嫌そうな顔をしているように見える英語教師の
それぞれが、すれ違う度に挨拶を交わしていく。
「おはようございます」
「おはようございまぁーす」
「ざいまっす」
「おはよう」
「おはよ」
「おはよーっ」
だが、誰も僕に対して挨拶をしなかった。
まるで、僕のことが見えていないかのように。
―――何も変わらない、
「起立、礼、おはようございます……着席」
抑揚のない声で言う日直の号令に合わせて、クラス全員が同じくらい抑揚のない声で「おはようございます」と挨拶をした。担任の
「ええ、出席を取る。
「はい」
「
「はぁい」
諏訪が名簿を眺めながら、次々と名前を読み上げていく。
「
「はい」
「
「はい」
いつものように、僕の名前は読み上げられなかった。そのまま、最後の一人まで呼ばれて出席確認が終わると、
「ええ、今日の四時限目だが、国語の
それだけ言うと、諏訪は銀縁眼鏡のつるを押さえて逃げるように教室を出ていった。形だけのやる気のない朝礼が終わった後、みんなは思い思いの行動を賑やかに始めた。席を立ったり、スマホを弄ったり、会話をしたり。
僕はというと、授業が始まるまでの時間を利用して、本を読むことにした。図書室から借りていた小説を取り出して、栞の挟まっているページを開く。
題名に親近感が湧いて借りたが、まだ読み始めたばかりなので面白いのかどうかは分からない。確か、包帯だらけの謎の男が犬に噛まれたところからだ。
隣の席で、女子たちが昨日見たYouTubeの動画の話で盛り上がっている。
反対側の席では、不真面目な男子が宿題の書き写しをしている。
前の席では、ヤンキーグループの小競り合いが続いている。
後ろからは、オタクグループの人たちのくぐもった笑い声が聴こえてくる。
僕はそんな喧騒の中、ひたすらページを捲る。
どこからか飛んできた消しカスが、本の間に挟まる。
消しカスを除けてページを捲る。
ヤンキーの一人が、机の端にドカッと腰掛ける。
本をやや手前に引き寄せてページを捲る。
後ろを通り過ぎる男子の膝が、椅子の背もたれにゴツンと当たる。
ページを捲る。
ヤンキーと女子の笑い声が隣で高らかに響く。
ページを捲る。
ページを捲る。
叫びたい衝動を抑えて、大して興味もない物語を理解しようとして、ひたすらページを捲る。
「今日の授業なんだけど、急なことだったから何も準備できなかったので、似顔絵を描いてもらいます。各班、目の前の席の人の似顔絵を描くように」
美術教師の
「その新しいスカート、YOUトピアで買った安物ですかあ?」
という、どこからともなく上がった冷やかしの声を無視して教卓に座り、仏頂面でノートパソコンを眺め始めた。
あちこちでキャハハと下劣な笑い声が響いた後、みんなは賑やかに雑談を交わしながら、スケッチブックに似顔絵を描き始めた。
「ちょっとぉ、何、その目の描き方。変なの」
「だって、アニメの絵柄で描いた方が描きやすいんだもん」
「なんだよこれ!猿かよ!もっとイケメンに描けよ!」
「はっはっは!お前はこんな顔だって、そっくりじゃんか」
あちこちで、楽しそうな声が上がる。
そんな中、美術室の大きな六人掛けの机の端に座る僕は、スケッチブックを前に沈黙していた。
僕以外の面々は、賑やかに会話しながら似顔絵を描いている。白紙の中に友達の顔を再現しようと。四苦八苦しながらも、楽しそうに。
僕に、その権利はない。僕は友達のいない日陰者だから。
でも、授業を真面目に受けていないとは思われたくない。
仕方なく、画用紙に鉛筆の先を押し付ける。偶然にも、僕の目の前の席にいるのは、密かに想いを寄せている女子の
とりあえず、特徴を捉えようと視線を上げると――不意に、林田さんと目が合った。
久しぶりに他人から向けられた視線に、心臓が跳ね上がった。ただでさえ人と目が合うのが久しぶりだというのに、それが想いを寄せている異性となれば尚更だ。
咄嗟に顔を伏せて似顔絵に没頭するフリをした。僕は今、絶対にキモい顔をしているはずだ。見られないようにしないと。
ほとぼりを冷ましてから恐る恐る顔を上げると、林田さんは黙々とスケッチブックに向かっていた。
抱えるようにして描いているスケッチブックには、僕の顔が描かれているのだろうか?
……いや、そんなはずはないか。
そう思い直すと、白紙に顔の輪郭を描き出した。鉛筆を走らせてどうにか白紙の上に林田さんを再現しようとしたが――無心で輪郭の線をなぞる内に、なぜか嫌な記憶が脳の奥底から蘇ってきた。
「今日からお前のことは見えないから」
「お前のこと、無視することになったから」
「なんでって、お前キモいし、別に構っても楽しくないし」
「キモいから話しかけないでくれる?」
「こっちくんなよ陰キャ」
「無視しなきゃいけないんだから、話しかけんなよな」
「———お前なんか、もう見えないよ」
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