3章 20話 敗者の王

「アハハッ……! ホラ頑張って逃げなよ。じゃないと家畜ちゃンの子宮が潰れちゃうよォ? 必死こいてAボタンと十字キーを連打して脱出しなきゃねェ?」

 キリエの踵が美月の下腹部へとさらに深くめり込んだ。

 それでもキリエは嗜虐的な笑みを浮かべたまま折檻をやめない。

 そう。これは攻撃などではなかった。

 分不相応に抵抗した家畜への調なのだ。

「ツッキぃー……」

 春陽が心配そうに声をかける。

 それがキリエの注意を引きつけてしまう。

「うっせぇンだよ」

 その一言でキリエが腕に込めていた力が倍増する。

 春陽の体に鉤爪がさらに押し付けられる。

 彼女は壁と爪に挟まれて苦悶の表情を浮かべた。

 春陽へと与えられている痛みの凄惨さは、彼女の背後の壁に入ったヒビを見れば想像がついてしまう。

(姉さんだけでも……助けないと)

 そう美月の心がささやいた。

 だが、肝心の体が動かない。

(影に潜れば私だけなら逃げられるかもしれないけど……)

 ――でも、できるわけがない。

 そんなことをすれば、春陽は今以上に残酷な末路を迎えてしまう。

なら二人で逃げる?

こんな状況で言って良い類の妄想ではない。

結局のところ、美月は詰んでいたのだ。

「どォしたのさ。もしかして、痛いのに慣れてきたのかな? それとも、痛いのが楽しくなってきちゃったのかなァ。アタシ、痛いのが好きな人を痛めつけるの嫌いだからなァ。もし家畜ちゃンがマゾだったら、興冷めして解放しちゃうこともあるかもねェ。で、実際のところどうなのかなァ?」

 キリエは美月を踏みつけている足を左右に振った。

 それに合わせて、彼女の中で臓物が揺れているのが分かる。

「私は……マゾじゃありませんから……」

「ふーン」

「ただちょっと……逆転の策を考えていただけです」

「下手の考え休むに似たりって奴か。どうりでアタシには家畜ちゃんが休憩しているようにしか見えなかったわけだ。……うん。納得だね」

 美月たちを辱めて溜飲が下がったのか、キリエが放っていた怒気が鎮まり始める。

 しかし彼女が見逃してくれるわけもなく、絶望的な状況に変わりはない。

「んー。もうそろそろ……指一本かな。足か手か。それが問題だ」

 キリエは首を傾けて思案する。

 だがその内容はロクでもない拷問だ。

「うん。足だ。5本全部イッちゃうかもしれないけれど、できるだけ一本ずつになるよう努力するから。まあ。頑張れ」

(だ……大丈夫……。蒼井さんも、朱美さんも……すぐに金龍寺さんを連れて)

 たとえここで足を潰されても、薫子がいれば治してもらえる。

 それまでに死にさえしなければ、体は治せる。

 ――それでは心はどうなのか。

 そんな疑問からは目を背ける。

 このまま末端からすり潰されて、自分はいつまで正気を保てるだろうか。

 怖い。

 所詮自分は、数か月前まで試合としてさえ戦ったことのないような人間なのだ。

 そんな自分が生きたまま体を潰される痛みの中で発狂せずにいられるのか。

 心が弱ってゆく。

(助けて……)

 最後のプライドにかけて命乞いはしない。

 だが、美月の心は恐怖に屈服しかけていた。

(誰か……助けて……!)

 そう心の中で懇願した時――

「ぃッ……!?」

 キリエがよろめいた。

 彼女が何かに押されるように数歩進んだため、踏みつけていた足が離れて美月は解放される。

 春陽を押さえていた鉤爪も位置がずれ、わずかに生じた隙間から春陽の体が床へと滑り落ちた。

「あ……あれ? 今の……。まさかトロンプルイユが負けた……? それはない。何より、……」

 キリエは考え込んでいる。

 彼女の背中は服が円形に破れ、覗いた肌が赤く腫れていた。

「ていうか、この魔力に覚えがあるなぁ……。やっぱりこれって――」

 キリエが振り返る。

 同時に美月も、自分を助けてくれた人物がいるであろう方向へと目を向けていた。

 そこにいたのは――灰色の少女だった。

 ドリルのようにロールした灰色の髪。

 凛とした眼差し。

 小学生のような華奢な体に、王者の風格さえ感じさせる堂々たる立ち姿。

 そして、その手には二丁の拳銃。

(あれは……)

 美月を救った少女は――

「済まぬ――遅れたのじゃ」

「ああ。うん。予想通り。妹ちゃんじゃないか」

 エレナの姿を視界に捉えたキリエは淡々とそう言った。

 だが、彼女の表情は幽鬼じみていて、明らかに平常心ではない。

「姉様。そちらにおるのは、妾の友人じゃ。どうか見逃してくれぬかの?」

「あれ。うーん。おかしいな。なんで妹ちゃんがその姿なのかな?」

 キリエは折れそうな程に首を傾けていた。

 現在、エレナが纏っているのはドレスだ。

 それもかなり露出が多く、首元からヘソにかけて大胆に布が取り払われたデザインとなっている。

 背中もほとんど隠されておらず、もし彼女が豊満な肢体を持つ女性であったのならこの上なく扇情的な装いとなっていたことだろう。

 だが重要なのは、そのドレスが明らかに普通の服ではないことのほうだ。

 それはまるで――

「懐かしいね。アタシが嫌いな――『魔王』として戦う妹ちゃんの衣装だ」

 そう。エレナが纏っているのは戦闘衣装。

 あそこにいるのはいつもの灰原エレナではなく、魔王グリザイユだった。

「あれ。ん? ギャラリーは、妹ちゃんは魔力を失っているって……。アイツ、アタシに嘘吐いたの? でも、レディメイドもそう言ってたしなぁ。あれ?」

 ゆらりと体を揺らして歩くキリエ。

 そして彼女は動きを止めると、急に明るい表情となる。

「あ、分かった。人間を食べたんでしょ? 確か、あそこには一匹家畜がいたよね? なるほど。トロンプルイユが言うには、あの女とマジカル☆トパーズは深い関係らしいからね。あの女に『マジカル☆トパーズを助けるために私をパクリとしちゃってくださいぃ』みたいなこと言われたんでしょ? アハ。超泣ける」

 喜色満面のキリエ。

 そんな彼女へとエレナは冷静に拳銃を向けた。

 その様子を見て、キリエの表情を歪む。

「いや。おかしい。ちょっとだけ妹ちゃんの魔力が変だ。覚えている。アタシは妹ちゃんの魔力を忘れたりはしていない。なのに記憶と齟齬がある。不純物が混じっているみたいだ」

 そこまで思考し、キリエは一つの結論に至った。

「ねえ妹ちゃん」

「なんじゃ……姉様」


「お前、?」


「是、じゃ」

「…………………………へぇ」

 エレナの答えに、キリエは数秒だけ放心して……笑った。

 嬉しそうに。狂おしそうに。

「アハハハハハハハハハッ! 妹ちゃんが魔法少女!? それは捨て身のギャグすぎるよぅ妹ちゃん! 家畜のモノマネの次は魔法少女のコスプレ! いくらなんでも必死こいてウケ狙いすぎだよぉ! 笑いのために人生捨てすぎぃ!」

 キリエは腹を抱えて笑っている。

 彼女は体を震わせ――唐突に笑みを消した

 エレナを見つめる瞳は深淵のようで、底知れない悪意が覗く。

「……でも、これで殺して良い大義名分ができたってことだよね?」

 キリエが腰を落として構える。

「可愛い妹ちゃんがお笑い芸人になろうとしているんだ。姉としては、もっと安定した職業に就くよう説得しなきゃだから」

 キリエの姿が――消える。


「例えば――ハンバーグとかになるのはどう?」


 気が付くと、キリエはエレナの背後に回り込んでいた。

 そして、キリエは鉤爪を振り下ろす。



「ま、痛いよりはマシだろ?」

 玲央は倒れ伏した悠乃にそう問いかける。

 彼女が纏う花嫁衣裳は着崩され、片方の乳房がこぼれていた。

 目に光はなく、口からは大量の涎が垂れ落ちている。

 股からは透明な液体が滴り水たまりを広げている。

 どう考えても、もう戦える状態ではない。

 玲央が操る力は夢幻。

 応用範囲はそれこそ無限。

 個人に対して使えば五感をほぼ自由に操れる。

 例えば、五感を奪うことさえも可能だ。

 何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。

 そんな空間に放り出された人間は、驚くほどの速さで狂うという。

 それほど五感が失われた状態は、精神的にストレスなのだ。

 いくら歴戦の魔法少女でも、この状況下では戦意を失うことだろう。

 そう思っていた。 

 ゆえに、玲央は驚くこととなる。

「悠乃…………」

「はぁ……はぁ……んくぅ……」

 玲央は悠乃と視線を交わす。

 だが、代償は大きかったのだろう。

 悠乃は今にも倒れそうなほどにフラついている。

 五感を失っていた反動で、平衡感覚さえ壊れかけているのだ。

 それでも悠乃は氷剣を杖にして立ち上がっていた。

 とはいえ――

「ほら」

 もっとも、再び五感を奪えば同じことなのだが。

「ぁ、ぁぁ……」

 悠乃はその場でうずくまる。

 全身の感覚を失ったことで彼女は全身を弛緩させて失禁する。

 そしてついに彼女は頭を抱え――

「やめ……て」

 そう懇願した。

「お願いだから……」

 目が見えない。耳が聞こえない。

 地面の感覚も分からない。

 その恐怖は、常人が耐えられるものではない。

 今、悠乃は狂いそうなほどの恐怖に襲われていた。

「ふッー……! ふッー……!」

 悠乃は呼吸の仕方も忘れたかのように必死に息を吸っている。

 折りを見て――聴覚だけを元に戻す。

「悠乃。もうやめようぜ。ま、キリエのほうはこっちが適当に幻術で誤魔化しといてやるからさ。もう戦わなくて良くねぇか?」

 玲央はそう提案する。

 彼としてもここで悠乃を殺す気はない。

 別にキリエ一人の目を欺くくらい玲央には難しくもない。

 だからこその提案なのだが。

「それじゃぁ……薫姉は……どうなるのさ……!」

「まあ……殺すけど。3人もチョロまかすのは、さすがにあのチョロ姫相手でも難しいわな」

 このように破談となってしまうのだ。

 予想はついていたが。

「言ったろ。友達の友達はオレの友達じゃねぇって」

 玲央は悠乃の首元に剣を突きつける。

 それでも彼女の眼光は衰えない。

「なら……やめられないよ」

 悠乃は今にも気を失いそうな有様。

 それでも瞳からは強い意志が伝わってくる。

 薫子を助けるという思いの強さが伝わってくる。

(まぁ、迷いもあるみてぇだけどな)

 玲央も悠乃とダテに友人関係を築いてきてはいない。

 彼女の瞳の奥で躊躇いが渦巻いていることくらいすぐに分かった。

(さっきまでは怒りでどうにか押し切っていたみたいだけど、一度気絶したことで冷静になっちまったか……)

 彼女の中には――玲央と戦うことを忌避する気持ちがある。

(裏切り者でも、友達ってわけか)

 まだ割り切れていないのだ。

 敵として対峙しているはずの玲央に対して敵対心を燃やせないほど。

 最初は裏切られたという怒りだけで攻撃ができた。

 しかし一度冷静になってしまえば、玲央を再び敵視することは難しい。

 結局のところ――

(優しんだよお前は。やっぱり……ここから先はお前が戦うべきステージじゃない)

 そう玲央は断定する。

 、悠乃の性格では戦い抜いていけない。

 だから、ここで歩みを止めるべきだ。

 ここから先の戦いは、正義の魔法少女と悪の《怪画》だなんて構図にはならない。

 戦争だ。どちらにも大義があり、どちらにも正義のない戦いだ。

 正義の反対はもう一つの正義、なんて戦いじゃない。

 利己主義者たちによるワガママの押し付け合いだ。

 そこに、この優しい友人の居場所はない。

 ――彼には、戦いに臨む馬鹿共とは違う場所で生きていて欲しい。


「ああ……これ以上粘られると――壊しちまいそうだ」


 玲央は剣を抜いた。

「多少の後遺症は仕方ねぇか」

 切っ先は悠乃へと向いている。

「悪いのは悠乃なんだぜ」

 悠乃はうずくまったまま動けていない。

 死が迫っているというのに、自分の体勢さえ認識できていない悠乃では逃げることもできない。

「オレはキリエと違って加減は上手だからな。良い感じに終わらせといてやる」

 彼女の両脚の腱を断つ。

 そう決め、玲央は剣を振り下ろした。

「ちょっと待てよ」

 だが、何者かが彼の手首を掴んで受け止めた。

 その人物は赤い髪を揺らし、玲央を睨んでいた。

「ああ。そっちも正気を保ってたのか」

「人に気持ち悪ぃーもん見せといて、無事で済むと思うなよ」

 赤髪の女――璃紗は犬歯を剥き出しにして怒っている。

「悠乃。お前はもー良い」

「り……さ……?」

「そいつが元とはいえダチってんならさ。無理して、戦わなくて良い。無理して憎んで、戦わなくていいんだよ」

 璃紗は悠乃へと語りかけている。

 心の底から璃紗は彼女のことを心配している。

 悠乃を辛い戦いに駆り出さないために、幻術世界を打ち破るほどに。

(仲間に、大事にされているんだな……悠乃)

 ただのビジネスパートナーなんかじゃない。

 心からの、真の友情がそこにはあった。

「そーいう時はさ、アタシが代わりに戦ってやるって」

 璃紗の手に力がこもる。

 玲央の手首が軋んだ。

 このままでは手首を折られると判断し、玲央は璃紗の手を振り払って距離を取る。

 玲央は半身で構えて璃紗を待ち構える。

 一方で彼女は、床に転がっていた大鎌を拾い上げていた。

 そして――唱える。

「5年前にも言ったろ? キツい時には頼れって」

 璃紗は穏やかに微笑んでいた。

 彼女から魔力が迸る。

 その魔力は絶大な熱量を内包している。

 肌が焼けるような炎。

 なのに、どこか安らぎを感じる。

 

 それはきっと、粗暴にも見える彼女が内に隠している優しさで――


「――Mariage――――――――《既死回デスサイズ・帰の大鎌リザレクション》」


 朱美璃紗が持っている――

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