3章 10話 湯煙に預ける戯言2

「……はッ」

 唐突に悠乃の意識は覚醒した。

 今の悠乃は肩までしっかりと湯に浸かっている。

 どうやら自分はすでに温泉を満喫しているらしい。

 ここ数分の記憶がないが、この状況からするとそうとしか考えられない。

 記憶の空白地帯が気になりはするが、思い出せそうにない。

 脳が機能停止していたのかもしれない。

 残念なような、安堵したような。

 複雑な気持ちだ。

「そういえば……」

 悠乃は周囲を見回す。

 途切れる前の記憶が正しければ、ここには速水氷華がいたはずだ。

 そう思い彼女の姿を探す。

 だが氷華は見つからない。

 ――もしかするともう出ていってしまったのか。


「どうかなさいましたか?」


「ふぁ……!?」

 真後ろから聞こえてきた声に悠乃は飛びあがりそうになった。

 今日一日で聞き慣れた声。

 そこにいたのは氷華だった。

 どうやら彼女は悠乃の後ろ――背中合わせの位置にいたらしい。

 どうりで見回したくらいでは見つからないわけだった。

「えっと……速水さん」

「はい」

 躊躇いがちに悠乃は口を開いた。

 さっきまでの失われた記憶――違う。

 その直前までのこと――違う。

 頭に浮かぶのは変な事ばかりだった。

 悠乃は頭を振って馬鹿らしい考えを吹っ飛ばす。

 そしてようやく紡いだのは、今さらな質問だった。

「速水さんは……なんでこんな時間に?」

「メイドですので」

 そう氷華は言い切った。

 メイドだから。

 なるほど。メイドであれば浴室の清掃を行うこともあるだろう。

 そうなれば、最後に自分が入り、そのまま洗ってしまったほうが手間もない。

 納得しかけた悠乃だが、再び首をひねる。

 そもそも氷華はこのホテルの人間ではない。よって掃除などしなくて良い。

 なら、なぜメイドだからなのだろうか。

 悠乃の反応から、彼女が理解できていないことを悟ったのだろう。

 氷華は先程の答えを補足する。

「メイドが。薫子お嬢様と一緒に温泉に入るわけにはいきません」

 そう氷華は語る。

 やっと彼女が言いたかったことが分かった。

 同時に、分からないことがある。


「――でも、薫姉は速水さんとも一緒にいたかったんじゃないですか?」


 悠乃は尋ねた。

 薫子ならきっと、氷華には一線を引いた対応ではなく、もっと親しい間柄になることを望むだろうと思ったのだ。

 そして、氷華なら薫子のそんな気持ちに気付けるはずだと。

 今日初めて会った氷華だが、彼女の気遣いは常人には真似できないものだった。

 それはメイドとして生きてきたからこその観察眼なのだろうか。

 ともかく、彼女が薫子のそんな機微を見逃しているとは思えないのだ。

 だから悠乃は問いかけた。

「そうであれば光栄です。ですが、

 氷華の口から出たのは、悠乃には納得しがたいものだった。

 薫子をずっと支えてきてくれたのは氷華だ。

 5年前から、悠乃たちと再会するまでの間。

 薫子にとって氷華は頼れる唯一の人であったのだ。

 自分から保護者役を買って出るような氷華が、なぜ薫子とつかず離れずの関係を保とうとするのだろうか。

「なんでですか?」

 どうして。

 その気持ちを悠乃はそのまま吐き出した。

「今、友人のような気軽さで接してしまえば――。私は、薫子お嬢様の友人にも……

「速水さんは、薫姉の環境をどうにかしたいと思っている。そういうことですか?」

「ええ。薫子お嬢様が本心から和解を嫌がっているのならば話は別です。しかし、彼女はすでに諦めてしまっている。それだけなんです」

 氷華はそう言った。

(速水さんは……諦めていないんだ)

 そう直感した。

 彼女は期待しているのだ。

 今は無理でも。何年後かには。

 また薫子が両親たちに迎え入れられる日が来るのではないか、と。

 再び、あの家族が以前の形を取り戻すことができるのではないか、と。

 だから氷華は薫子と家族のような絆で結ばれるわけにはいかない。

 そうなれば、薫子は『満足』してしまう。

 氷華を家族として見てしまう。それで、失った家族という穴を埋めてしまう。

 家族を取り戻す必要はないと――満足してしまう。

 それが氷華は嫌なのだ。

 薫子の心にある『家族』という空席。

 そこに自分が座ってしまう未来が嫌なのだ。

 

 今すぐ心の穴を埋めて上げて欲しい悠乃。

 失ったものを取り戻す日まで、穴を残しておきたい氷華。

 多分、どちらが明確に正しいという類の話ではないのだろう。

 少なくとも悠乃は自分が間違っているとは思わないし、氷華が言うことを批判できるわけでもない。

 思うところはあれど納得してしまう。

「――薫姉はいつだって自虐を繰り返す。それは多分、。現実を見てしまうと、家族を嫌いに――憎んでしまいそうだから、必死に言い聞かせているんだ。『悪かったのは自分だ』って、『自分の努力が足りなかったんだ』って。そう言い聞かせて生きてきたんだと、僕は思う」

 そうすれば傷つくのは自分だけだ。

 楽しかった思い出は傷つかない。

 思い出が美しければ、いつかは戻りたいと思える。

 理性は、致命的な家庭崩壊を前に解決を投げ出した。

 だが感情は――まだ断ち切られてはいない。

 諦めてはいても、諦めきってはいない。

 薫子はまだどこかで淡い希望を抱いている。

 そんな気がしていた。

「でも……僕にできることだなんてほんの一握りなんだろうなぁ」

 蒼井悠乃は子供だ。

 性別は認めてもらえずとも、子供であることは自他ともに認めている事実だ。

 魔法などという超自然的な力がなければ、平均よりも華奢な高校生だ。

 そんな悠乃に、できることなどほとんどない。

「一握り。きっとそうでしょうね」

「…………」

「ですが一握りでも価値はそれぞれです。一握りの砂と、一握りの金ではその価値が大きく変わります」

 氷華は続ける。

「貴方たちが薫子お嬢様と一緒にいてくださったことは客観的には些細なことかもしれません。ですが、薫子お嬢様にとってはかけがえのないものだった。そう私は考えています」

「そうだと……僕も嬉しいや」

 それは悠乃も同じ事だから。

 薫子や璃紗との再会は、間違いなく悠乃の世界を色彩豊かにした。

 ただ昔みたいに一緒に過ごしただけ。

 それだけのことが悠乃の未来を大きく変えた。

 悠乃を――救った。

 もしも薫子も同じように思っていてくれたのなら幸せだ。

 心からそう思う。

「まあ、これほど根深い問題となると、数年単位で考えていかなければならないとは思いますが」

「……そうですね。倒すべき敵がいるわけじゃないんだ。腰を据えて向き合うしかないんですよね」

 だから――これは戯言だ。

 まだ絵に描いた餅も良いところ。

 気持ちだけが胸にあって、具体的な解決策なんて微塵もない。

 進捗率0パーセントな構想だけ壮大な計画なんて笑い話だ。

 少なくとも、今は。


 ただ――戯れで終わらせる気はない。


 金龍寺薫子は大切な友達だ。

 友人の家族を元の形に戻したいと思うのが人情だろう。

 とはいえ価値観はそれぞれだ。

 家族と一緒が最上の幸せだなんて言うつもりはない。

 だが自分の意志と無関係に奪われていいものではないはずだ。

「僕は――」


「失礼しまーす」


 扉が開く音がした。

 自然と悠乃の視線は氷華から外れ、入口へと向かう。

 そこにいたのはさっきまで話題の中心だった少女――金龍寺薫子だった。

 彼女は恐る恐るといった様子で中をうかがっている。

「ふぁ」

 悠乃はすぐさま体を湯に沈める。

 鼻あたりまで沈むと、露天風呂の縁にある岩と同化するかのように額を擦りつけた。

 特に意味はない。

 彼女がそこにいるという事実は揺るがないのだから。

「……悠乃君はなにをしているんですか?」

 ゆっくりと扉をまたいだ薫子は、彼女へと歩み寄ると不思議そうにのぞき込んできた。

 裸で。

「ぶくぶくぶくぶくぶく」

 悠乃は水面を泡立たせた

 部屋を出るとき、薫子たちには「温泉に入る」と伝えたはずだ。

 つまり、彼女たちは悠乃がここにいると知っていたことになる。

 ならなぜ彼女はここにいるのか。

「ぷはっ……」

 さすがに息が続かなくなり、悠乃は温泉から顔を上げる。

「か、薫姉……」

「どうしましたか?」

「僕がここにいるって……知ってたよね?」

「はい。知っていました」

 薫子は悪びれずそう言った。

 確かに、別に彼女は悪くないのだが。

 むしろ男でありながら女湯にいる悠乃にこそ非はあるだろう。

 だが、声高に主張したい。

 ここにいるのは本意ではない、と。

「……マズくない?」

 悠乃は問いかけた。

 薫子は友人だ。それも大切な。

 しかし一緒にふろに入るのかと問われたのなら、倫理が許さないと答えざるを得まい。

 少なくとも悠乃基準では充分すぎる問題行動だ。

 そんな思いを込めた質問だったのだが、薫子は特に気にした様子もない。

「ダメ……でしたか?」

「普通は……結構問題じゃないかな?」

「そ、そうですよね……。ここは遊泳禁止の温泉なのに、わたくしみたいなビート板がいたらダメですよね。あはは……すみません。トイレの水で体を洗ってきます」

「薫姉……!?」

 悠乃の些細な一言で薫子は撃沈していた。

「ごめんなさい。わたくしでは目の毒でしたね。むしろ気の毒になってしまわれましたか? あはは。貧相なのは心だけにしないと駄目ですよね。心も体も将来性も貧相でごめんなさい……」

「別に言ってないよね……!?」

(それに――)

 悠乃は目を逸らす。

 彼女は自分を貧相だと評したが、悠乃はそう思わなかった。

 確かに彼女の肢体は女性的な起伏は少ない。

 だがそれは必ずしも女性としての魅力に乏しいことを示すわけではない。

 傷一つない白い肌。

 小ぶりながらも確かに存在する乳房。

 腰から太腿にかけての曲線は滑らかで、そのラインは彼女が女性であることを示していた。

 悠乃の目から見て、彼女の裸体は刺激的なものだった。

「ぼ、僕出るから……! 後はお二人でゆっくり――」

 悠乃の選択は、自らこの場を脱出することだった。

 これ以上はさすがにマズい。

 悠乃の理性的なものが焼け落ちてしまうだろう。

「あ、悠乃君待ってくだ――!」

 薫子が慌てたように飛びだす。

 彼女は悠乃を引き止めようとしたらしく、彼女の両手は悠乃の両肩を押さえていた。

 多分、それだけなら問題がなかった。

 しかし急いでいたせいか、薫子には勢いがついていた。

 さらに加えるのならば、外側から温泉の中にいる悠乃へと手を伸ばしているため、薫子はかなりの前傾姿勢となっていた。

 結果として――

「「あ」」

 浴場の床は濡れていて滑りやすい。

 そのせいか、薫子の足が滑り彼女の体が宙に投げ出される。

 その先にいるのは彼女に引き止められていた悠乃だ。

 迫ってくる薫子。

 悠乃がとっさにできたことといえば彼女を受け止めるために手を広げることだけだ。

 今の悠乃は魔法少女としての力がある。

 それは当然筋力にも反映されており常人とは桁が違う力を持つ。

 しかし足場が悪い。

 結局、悠乃もバランスを崩してしまい、背中から温泉に倒れ込むのであった。


 巻き上がる水飛沫。

「あぅ……すみません」

 申し訳なさそうな薫子の声が聞こえた。

 ただ悠乃の顔には水が降ってきているせいで状況がよく分からない。

「ん……」

 水が降りやむと少しずつ状況が見え始める。

 最初に映ったのは金色の光だった。

 いや、糸のように細いそれは、髪の毛だった。

 この場で金髪は一人しかいない。

「「ぁ……」」

 ようやく悠乃は完全に状況を把握した。

 自分が、薫子を抱きしめているという状況を。

 最後に受け止めようとしたせいだろう。

 二人の距離は完全にゼロだった。

 薫子を衝撃から守るため悠乃の両腕は彼女の背中に回され、しっかりと彼女の体を固定していた。

「ごご、ごめん……!」

 悠乃は薫子から慌てて距離を取った。

 すると彼女はずるずると崩れ落ち、その場でぺたりと座り込んだ。

 わずかに息を荒くしている薫子は数秒をかけて息を整えている。

「えっと……体を洗う前に入ってしまいましたね」

「あ、じ、事故じゃないかな……はは」

 さっきまでのことを話題にすることを避けつつ、ぎこちなく笑いあった。

 気まずい。

 相手を女性と認識しているだけに、先程の事故あるいは事件が気まずい。

「あの……悠乃君」

「な、なに……? 薫姉……」

 平静を装いつつも、明らかにたどたどしい口調で悠乃は答える。


「一緒に……入りませんか?」


「……はい」

 薫子からのお誘い。

 悠乃に断れようはずもなかった。

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