3章 9話 湯煙に預ける戯言

「――星が綺麗だ」

 悠乃は空を見上げた。

 そこには満天の星空。

 悠乃の口から感嘆のため息が漏れる。

 旅先でもなければ、わざわざ星空を楽しもうなどとは思わない。

 だがいざ見てみると、これまで目を向けてこなかったのがもったいなく感じられるほどに美しい。

「貸し切りっていうのも、味があるね」

 今、悠乃がいるのは露天風呂だった。

 そこには『彼女』しかいない。

 それはこの宿が閑散としていることを示しているのかといえば間違いだ。

 問題は時刻だ。

 悠乃がここに来たのは、すでに日が変わった夜中だ。

 理由は単純である。

 ――

 悠乃が男湯に入ろうとしたところ、女将が必死に説得したのだ。

 彼女は悠乃が男だとは思わなかったらしい。

 学生証でもあれば性別の証明もできたかもしれないが、そんなもの携帯してはいない。

 とはいえ服を脱いで「じゃあ確かめてください」などと言えるわけもない。

 犯罪である。

 そういうわけで男湯が駄目なら女湯しかない。

 だがそれも問題がある。精神衛生的に。

 だから最初は部屋についているシャワールームを使用しようとしていた。

 しかしそれも味気ない。

 結果として、薫子たちの提案によって誰も使用していないであろう時間帯を狙って女湯に入ることとなったのだ。

 ――女性の姿で。

 そうすれば見た目において、悠乃が男とバレはしない。

 もし他の客がいればすぐに出れば良いだけだ。

 ――ちなみに、男湯に入ることは許可されなかった。

 湯に浸かっていると性別が見分けられないから……らしい。

 悲しい。

「じゃあ、まずは体を洗おうか」

 誰もいないため、自然と悠乃の口から独り言が漏れる。

 今は夏ということもあり、野外でも気温が高い。

 とはいえ長く裸で立っていれば風邪をひきかねない。

 悠乃はまっすぐにシャワーへと向かう。

 彼女は近くの椅子に腰を下ろす。

 そしてシャワーに手を――


「お背中、流しましょうか?」


「ふぁっ……!?」

 背後から聞こえた声に悠乃は体を跳ねさせた。

 女性の声だ。いや、女湯だから当然なのだが。

 ここにいるということは他の旅行客か。

 一日に何度も温泉に入る人もいるという。

 もしかするとそういう人がこの時間帯にもいたのかもしれない。

 悠乃は慌てて振り返る。

「安心してください。私です」

「速水……さん?」

 悠乃の背後にいたのは、金龍寺家のメイド長という速水氷華だった。

 彼女は悠乃を覗き込むようにして立っている。

 ――裸で。

 それもここが温泉である事を想えば当然なのだが。

「あわわわわわ」

「大丈夫ですか?」

 氷華が首をかしげる。

 裸体をさらしているというのに彼女に動揺は見られない。

 一方で、悠乃は錯乱状態だった。

 見えるのだ。それもかなりの近距離で。

 前かがみになったせいで強調され、揺れている二つのものが。

 無自覚なのだろうが、両腕で挟み込まれるような形になっているのがさらに目の前の光景の毒性を高めている。

「きゅぅ」

 悠乃はぎこちない動作で前を向くとそのまま縮こまる。

「……大丈夫ですか?」

 再び氷華が尋ねてくる。

 彼女が近づいたのか、垂れた彼女の髪が悠乃の首筋をくすぐった。

「ええと……すいません。速水さんがいたって気付かなかったんです」

 悠乃はさっきの一瞬で、

 おそらく彼女はすでに温泉に浸かっていたのだろう。

 浮かれていて悠乃は彼女の存在に気がつかなかったらしい。

「ありがとうございます」

「えっと……何がですか?」

「気配を消すのはメイドに必要な技術です。技術を褒めていただいたので、感謝の言葉を述べました」

「そ……そうなんですか……」

 メイドは裏方の仕事だが、気配を消す能力は必要とされないと思う。

 そんな事を言えるわけもなく、悠乃は体を小さくした。

「あ、あの……! すぐ出ていくんで……!」

「いえ、必要ありません。気にしませんので」

「ええ……」

 本当に気にした様子のない氷華。

 彼女は悠乃が男であることは知っているはずなのだが。

 納得がいかない。

「蒼井さんは、薫子お嬢様の大切な友人です。性別は関係がありません」

 氷華はそう言い切る。

「貴方たちのおかげで、また薫子お嬢様が元気な姿を見せてくださるようになりました」

「……そうなんですか?」

「はい。自虐をするときの目が生き生きとしています」

「方向性!」

 そっちに元気になって意味があるのだろうか。

「ともかく、以前から蒼井さんにはお礼をしたいと考えていました」

「…………」

「だから、貴方たちには楽しく過ごしていただきたいと思っているのです」

 ――つまり、遠慮なさる必要はありません。

 そう断言する氷華。

「お背中、流しましょうか?」

 再びそう言う氷華。

 きっとこれは、彼女が心の底から抱いている厚意なのだろう。

 彼女は悠乃と薫子の再会を心から喜んでいて。

 そして、今回の計画を立てた。

 私財を投じて、悠乃たちをここに連れてきた。

 恐縮。悠乃の感想を一言で表現するとこうなるだろう。

(速水さんは、薫姉を大事に思っているんだろうなぁ)

 困ったものだ。

 温泉に入る前に、胸が温かくなってしまうとは。

「えっと……よろしく、お願いします」

 ここまで言われて、断る勇気など悠乃にはない。

 恐る恐る悠乃は彼女に応えた。

「それでは――失礼いたします」

 そう氷華が切り出すと、悠乃の背中越しに彼女はシャンプーを手に取った。

 くちゅくちゅという音が背後で鳴った。

「ふぁぁ……」

 悠乃の口から変な声が漏れた。

 突然、氷華の手が彼女の頭部へと伸びたのだ。

 悠乃の頭髪を泡が包み込む。

 氷華の指が頭皮を刺激してくる。

「ふにゃぁ……」

 自分で自分に触れるのと、他人に触れられるのとは大きく違う。

 自分でするのはなんということもない。

 だが、他人に触れられた途端、くすぐったくて仕方がない。

 ただ、気持ち良い。

 氷華の指先が動くたび、悠乃は至福に包まれる。

「にゃぷ」

 悠乃の頭に水が降り注ぐ。

 シャワーの水圧で彼女の髪から泡が剥がれ落ちてゆく。

(誰かに髪を洗ってもらうって、まだ小さかった頃以来だ)

 髪を洗うとは、頭に触れるということだ。

 頭は、人間の生命に直結する部位だ。

 それを他人に委ねるということは、相手を信頼するということ。

 誰かを信じる。

 それが、この心地よさの正体なのだろうか。


「それで、次は背中を――」

「…………ふぇ?」

 夢見心地だった悠乃はたった一言で現実に戻される。

「――失礼します」

「え、え、えぇぇぇ~~~~~~~!?」

 ――ここから数分間、悠乃の記憶はない。

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