3章 8話 キリエ・カリカチュア

(見えな……かった)


 悠乃は戦慄していた。

 先程、キリエは自分を取り囲んでいた男たちを肉片に変えた。

 証拠に、彼女の足元は霧のような血飛沫で汚れている。

 だが、

 魔法少女としての戦いの中で鍛え抜かれた動体視力をもってしても彼女の攻撃が一切見えなかった。

 不意の出来事だったのもあるだろう。

 距離が近かったからというのもあるだろう。

 だが、それは言い訳にならない。

 もしもあの攻撃が悠乃を狙ってのものであれば、すでに彼女は死んでいた。

 一歩も動けず、全身を細切れにされて。

「ふぅ。これで気兼ねなくこう呼べるね。お久しぶり、マジカル☆サファイア」

 少女は悠乃の名を――魔法少女としての名を呼んだ。

 それを踏まえ、悠乃は彼女の正体を確信する。

「――キリエ」

 キリエ。確か彼女はそう呼ばれていた。

 彼女と出会ったのは、悠乃がギャラリーと決闘をしていた時だ。

 その際、彼女――キリエの乱入により悠乃は深手を負った。

 会話といえるほどの会話はしていない。

 だが、ギャラリーが彼女のことをキリエと呼んでいた記憶がある。

「アハッ……! ちゃんと覚えておいてくれたんだねー。嬉しいなー」

 キリエは三日月形に口元を歪めて笑った。

 どうやら悠乃の記憶に間違いはなかったらしい。

 キリエは機嫌良さげに体を揺らす。

「てことで。うん。じゃあ。死んで?」

 こともなげに紡がれた暴言。

 同時に、彼女の手から身の丈ほどの鉤爪が伸びてきた。

 おそらく、あれが先程の男たちを殺した得物だ。

(マズい……!)

 あまりに唐突な彼女の変わりように悠乃は反応が遅れる。

 それでも悠乃は飛び退こうとした。

 だが、すでにキリエは腕を振りかぶっている。

 あのスピードで攻撃をされたら、躱せない。

 悠乃は腕の一本は持っていかれることを覚悟した。

 この間合いなら、

 でなければ、落ちるのは彼女自身の首だ。

 悠乃は来るであろう痛みに備えて歯を食いしばるが――


「やはり、姉様じゃったか」


「ッ……!」

 キリエの動きが一瞬だけ止まった。

 それでも彼女は腕を振り抜くが、硬直した分だけスピードは減衰しており鉤爪はすでに悠乃がいない地面へと突き刺さった。

「へぇ……君も海に遊びに来ていたんだね。……妹ちゃん」

 キリエは残虐な笑みを浮かべ、背後にいる人物を睨みつけた。

 彼女の背後には灰色の幼女が立っていた。

 小さな体躯からは想像もつかないほど凛とした眼差し。

 そして灰色の髪をドリルのようにロールさせた特徴的な髪型をした幼女など一人しか悠乃は知らない。

 幼女――灰原エレナは水鉄砲をキリエの背中に突きつけるようにして立っていた。

「姉様。海に来るにしては、いささか厚着なのではないかの?」

「悪いね。ここが海だなんて知らなかったのさ」

 軽口を交わしつつも、空気は張り詰めている。

 今にでも殺し合いが始まりそうな雰囲気だ。

 もっとも、実際に死闘が始まれば水鉄砲しか持たないエレナに勝ち目などないのだが。

「ククッ……。冗談だよ。まさか、アタシが妹ちゃんを殺すわけがないじゃないか。口に入れてしまっても痛くも痒くもない可愛い可愛い妹ちゃんを、ね?」

 ヘラリと嗤うキリエ。

 可愛いと謳うも、明らかにその口調にはエレナへの敵意が込められていた。

「やあやあ妹ちゃん。それで、だ。家畜の職業体験は順調かな? 下々の生活を経験することで王としての見識が広がったかい? それとも寝てればエサがもらえる生活に慣れて、王を辞めたくなったのかな」

 キリエは親しげにエレナへと語りかける。

 しかし言葉の端々には隠す気もない侮蔑の感情が滲み出していた。

 一方で、エレナは涼しい表情でキリエの言葉を聞き流す。

「そうじゃの。存外、家畜の生活とやらのほうが性に合っておったようじゃ。妾は元来、王には向いておらんかったのかもしれぬの」

 多分、それは偽らざる本音だったのだろう。

 自分は負け、最後まで民を導くことはできなかった。

 だからエレナは思っている。

 自分には王としての資格がなかったのだと。

 そう今でも、本気で思っているのだ。

「……ハァ?」

 するとキリエの口から底冷えのする声が漏れた。

 悠乃は彼女のことを知らない。

 だが、先程のエレナの発言がキリエにとって逆鱗に触れるものであったのは明らかだった。

「お前がそんな事を言ったらアタシは――!」

 憤怒に歯を剥き出しにして吠えるキリエ。

 彼女は激情のままに鉤爪を振り上げた。

 彼女が腕を下ろせば、それだけでエレナは地面の染みとなる。

「エレナ……!」

 とっさに駆けだす悠乃。

 だが、エレナを守るにはキリエを回り込まねばならず、間に合わない。

 悠乃はキリエが腕を振り下ろす様子をスローモーションのように遅々とした映像として見ることしかできなかった。

 そしてキリエの鉤爪は容赦なく――

「ハァー…………」

 容赦なく――エレナの隣の地面を穿った。

 あの鉤爪はどれほど切断力が高いのだろうか。

 アスファルトの地面に突き立てても破片一つ飛ばない。

 彼女の爪は地面を一切砕くことなく、豆腐に包丁を入れるかのように抵抗なく道路にめり込んでいた。

「チッ! もういいよ。今日はただ遊びに来ていただけだからね。わざわざ嫌いな奴と話す意味もないよね」

 舌打ちを残し、キリエは急に悠乃たちへと背中を向けた。

 すでに彼女の手から鉤爪は消えている。

(今なら――)

 今のキリエは無防備だ。

 この状態からなら、

 そう考えた悠乃は、ひそかに手元に冷気を収束させる。

 すぐに冷気は形を成し、彼女の手の中で氷のナイフとなった。


「――それで攻撃をしてくるなら、応えても構わないよ。アタシはさ」


「ッ……!」

 振り向くことなく、キリエは立ち止まる。

 前兆と呼べる変化はなかったはず。

 殺気だって漏らしていない。

 だが彼女は悠乃の敵対意志を察知した。

 それとも、最初から予測していたのか。

 ともかく、これで彼女の不意を突けないことが分かった。

「まあ……その時は、このあたりの一般人を八つ裂きにしながらの戦いになると思うけどね」

 ――この場で彼女と戦うわけにはいかない。

 それが分かるからこそ、悠乃は手中の氷剣を霧散させた。

「そうだね。うん。多分それは賢明な判断だ。少なくともアタシはそう思う」

 キリエはこちらに視線を向けもしない。

 最初から、悠乃が周囲の人間を巻き込んで戦うことはないと分かっていたのだろう。

「妹ちゃん。マジカル☆サファイア。せっかくだから忠告しておこうか」

 キリエがそう切り出した。

「アタシたちの邪魔をしないほうが良い。そして自覚すると良い。アタシは王。君たちは家畜だ。そもそも抵抗しようという考え方がズレているんだ」

 キリエはそう持論を展開する。

「良いじゃないか。そうまでして抵抗しなくても。今の君たちがしているのは、ネズミが必死こいで猫に噛みつこうとしているのと一緒だ。端的にいうと、

 彼女が話す理屈に、悠乃は眉をひそめた。

 キリエが人間という存在をあまりに軽視していることが分かってしまうから。

「アタシたちだって、食事のたびにいちいち邪魔が入るのは面倒なんだ。魚の小骨みたいに、君たちの妨害を躱してゆくのは本当に手間だ。食事くらい好きにさせて欲しいよ。まあ? たまには活きが良いのがいても面白いけどね」

 確かに、彼女たちから見ると悠乃たちの戦いは、食事を邪魔する行為なのかもしれない。

 だが、ここまで開き直られては反感を抱かずにはいられない。

「アタシたちと君たちの関係は……例えるなら、波と船、風と風船だ。君たち家畜が、自由に運命を操ろうだなんて考え自体が贅沢なんだよ」


「家畜は家畜らしく、少しでも生き延びられるよう他の家畜の陰に隠れてなよ」


 そう言い残すと、キリエは再び歩き始める。

 彼女の背中が遠くなってゆく。

 しかし悠乃は彼女を追うことはない。

 追っても、どうにもならない。

 引きとめても分かりあえないし、戦えば周囲に被害が出る。

 だから悠乃はただ見送った。

「あれがキリエ・カリカチュア。妾の姉にして、《旧魔王派》の筆頭じゃ」

 エレナは苦々しい表情でキリエの背中を見届ける。

 彼女が語った《旧魔王派》というのは、先代魔王のように人間を家畜として弄ぶ者たちのことだ。

 ある意味では、《怪画カリカチュア》としての本能に忠実ともいえる。

 エレナのように、人間を食料として扱いつつも、無用な殺生を避ける《現魔王派》とは相いれない思想の集団だ。

 話には聞いていたが、《旧魔王派》が人間を家畜としてしか見ていないというのに間違いはないようだった。

「そして姉様はおそらく……》じゃ。――姉様より強い《怪画》は父上――先代魔王だけじゃったからの」

 そうエレナは評した。

 つまり、当時の時点でキリエはエレナ――魔王グリザイユよりも強かったということだ。

 それでも彼女は魔王にはなれなかった。

 それが二人の確執につながっているのかもしれない。

 悠乃はふとそう思った。

「それでも……僕たちは……戦わなきゃ……勝たなきゃいけないんだ」

 相手が強くても、逃げるわけにはいかない。逃げたくない。

 キリエは言った。

 自分は王――運命を作りだす側の存在だと。

 人間は家畜――運命に翻弄される側の存在だと。

 もしかすると、それは真実の一側面かもしれない。

 だが、それを許容して逃げ出すことはできない。

 この世界には守りたい人がいて、自分にはそれを為すための力があるのだから。

 だから、立ち向かうしかない。

 守りたい人たちに降りかかる脅威を討ち倒すために。


「キリエ・カリカチュア。僕は君を倒す」


 そう悠乃は宣言した。



「おやおや。迎えに来てくれたのかい?」

 少女――キリエは背後に現れた気配にそう問いかけた。

 神出鬼没な気配には覚えがある。

 キリエが顔だけで振り返ると、そこにはピエロがいた。

 左右で泣き顔と笑顔が別たれた仮面をかぶり、ピエロを彷彿とした衣装を着ている男。

 本来なら、迷わず惨殺するくらいには不審者だ。

 とはいえ知り合いなので、キリエも気安く話しかける。

「うん。君の情報は確かだった。確かにマジカル☆サファイアはここに来ていたよ」

 キリエは口元に指を当てて考える。

「だけど……うん。不思議だ。君が言うには、マジカル☆サファイア――蒼井悠乃だったっけ? そいつは、変身していないと男だったんじゃないのかな? 普通に女だったみたいだけど」

「あれは衣装を着ていないだけDEATHヨ。すでに変身していまシタ」

 独特の口調で話すピエロ。

 しかし気にすることなくキリエは会話を続ける。

「ああ。なるほど。服が違ったからなのか。てっきり変身していないのかと思ったよ。先入観って奴だね。うん。納得だ」

 頷くキリエ。

 そして彼女は再びピエロに視線を戻す。

 確認しておかなければならないことがあるからだ。

「それで首尾は?」

「気分上々DEATH」

「うん。それは良かった。それで首尾は?」

「徐々デスね」

「うん。できてないね。急ぎなよ」

 今回の計画は、このピエロに一任している。

 だから彼が準備を終えなければ何も始まらないのだ。

「分かっていマスよ。夜には仕上げられますカラ」

「楽しみにしておくよ」

「ハイ」

 その返事を最後にピエロの輪郭が揺らぐ。

 渦に呑まれるように彼の体がねじ曲がってゆく。

 そして数秒後には、彼の体は空中にできた渦の中心へと収束して消えた。

 ああやっていつの間にか消え。気がつけば側にいる。

 その神出鬼没さこそが彼の真骨頂。

「まったく困った奴だ。――トロンプルイユ」

 そして食えない奴だ。

 そうキリエは笑う。

 制御し辛い奴だ。だが、仕事をさせれば優秀だ。

 だから不満はない。

 役に立つなら、人格など問題にならないのだ。

「フフ……さっさと始めたいね」

 キリエは胸を高鳴らせ、ピエロの報告を待つのであった。


 ピエロの名は《前衛将軍アバンギャルズ》トロンプルイユ。

 彼は唯一、


 そしてその強さは――

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