1章 16話 そして夜空が砕け散る

 平穏な夜。

 星の輝く夜空が――割れた。

 星の光を呑み込み、大きな口のように空が裂ける。

「あれは……ゲート」

 悠乃にとってあれは見覚えのあるものだった。

 あの裂け目を通じて《怪画カリカチュア》が現れるのを何度となく見ているのだから。

 だが、これまでと違う点もある。

「……大きい」

 そう。あまりにも裂け目が大きすぎる。

 ゲートは100メートルほどの大きさだ。

(まあ……大きければ強いっているわけじゃないけど)

 悠乃はそう心を落ち着けさせる。

 ゲートの大きさと《怪画》の戦力は必ずしも比例するわけではない。

 しかし、相関関係がある傾向にあるのも事実。

「ここまでの大きさとなると、それこそ魔王クラスかな……?」

 おそらく、それに準ずる強さの《怪画》が現れている。

 となると残党軍のトップが出てきた可能性が高い。

「残党軍……か」

 悠乃は予感していた。

 残党軍のトップは理性ある――人間と変わらぬ姿をした《怪画》だと。

「行かなきゃ……いけないんだよね」

 悠乃は自室の鍵を閉める。

 これで自分がいなくなってもすぐには露見しない。

 彼はそのまま窓を開き、外へと飛び降りた。

「僕にやれるのかな……?」


 魔王グリザイユを相手にしたように――殺すのか。


 正直、彼女が生きていたことを知った時、心の底から嬉しかった。

 そんな事を言う資格がないのは分かっていたから、態度には出さなかったけれど。

 そして、人として生き、悠乃たちと利害が衝突しなくなったことを言い訳に彼女と事を構えないことを決めた。

 もし彼女が《怪画》として生きていたとしても、ちゃんと戦えたかは分からないクセに。

 悠乃は心が乱れたまま駆けだす。

(戦えるかなんて分からない――)

 脳内でそんな言葉が巡る。

(でも、僕がやらなきゃダメなんだよね……?)


 そして悠乃は、再び避けられない運命の流れに身を投じていった。



「――お主じゃったか。レディメイド」

「ええ。お久しぶりですね。我が君」

 暗い部屋の中。

 灰色の髪の少女――灰原エレナは背後の人物と言葉を交わしていた。

 聞こえてくるのは女性口調だが、声そのものは男性のものだ。

 レディメイド。

 確か彼は、グリザイユの下で戦った《怪画》の一人だ。

 残念ながら、彼が出撃する前に魔王グリザイユは敗戦したのだが。

「残党軍、じゃったかの」

「ええ。事情はご存知で?」

「最近知った」

 それまでエレナは《怪画》の掃討は順調に進み、すでに彼らの生存は絶望的だと考えていた。

 しかし先日、悠乃と再会をしたことで残党軍の存在を知ったのだ。

「では、ワタクシがここに来た理由もお分かりでしょう」

 レディメイドが歩み寄ってくる。

 しかしエレナは振り返らない。


「ワタクシたちのとなってくださいませ。魔王グリザイユ様」


 レディメイドはそう言った。

 それに対する返答。

 それは、あの日から決まっていた。

 老夫婦に拾われ、一人の少女となった日から。

 エレナは覚悟を込め、口を開く。

「断る」

 エレナが吐いたのは拒絶の言葉だった。

 それが意外だったのか、背後でレディメイドがうろたえている。

「そんな……そんな! 我が君は、ワタクシたちの用意した玉座ごときには座れぬと申されるのですか!」

「ああ。座れぬの。妾には、そんな資格などない」

 エレナは床へと目を伏せた。

「妾は敗北した。あの日、魔王グリザイユは死んだのじゃ」

 そう告げる。

 あの日、魔王としての自分は死んだ。

 あそこで魔王としての歩みは止まってしまったのだ。

 今さら君主面をして戻るわけにはいかない。

「いいえ死んではいませんわ! ここに、ワタクシたちの王はいる!」

「いいや、もうおらぬよ。ここにおるのは魔王グリザイユではなく、平凡な夫婦の娘である灰原エレナじゃ」

 もしも、最終決戦に敗れていた直後であれば違う返事をしていたかもしれない。

 だが、もうエレナは選んでしまった。

 人間として生きる道を。

 今更、王の座に戻ることは……できない。

 エレナが拒絶の意思を明確にすると、レディメイドが纏う雰囲気がわずかに変わる。

 背後から匂いを嗅ぐような音が聞こえた。

 そして、レディメイドは重々しく尋ねてくる。

「一つ、お聞きしたいことがあります」

「一つに限定せんでも良い。手は貸せぬが、敗者の王として説明の義務くらいは果たすつもりじゃ」

 それはエレナの偽らざる本音。

 自分は人間として生きると決めた。

 しかし、最後の務めとして、《怪画》に対しては真摯に向き合うと決めていた。

 その結果が何であろうとも。


「なぜ……?」


 やはり、レディメイドには分かったのであろう。

 すでにエレナが魔力のほとんどを喪失していることを。

 そしてその原因にも察しがついているはず。

「言うたじゃろう? ここにおるのはただの小娘じゃ。人間を食らうことをやめた妾に、魔力を補給する手段などあろうはずもない」

「っ!」

 レディメイドが息を呑む。

 エレナが本気で生きようとしていることを理解したのだ。

 魔王グリザイユが見せた覚悟。

 それ対するレディメイドの反応は――怒り。


「ああ…………。本当に、我が君は死んでいらっしゃったわ」


「がっ!」

 エレナの後頭部をすさまじい衝撃が襲う。

 彼女は受け身さえ取れずに壁をぶち抜く。

 額の傷から血が流れる。

 脳が揺れて視界が歪んだ。

 それでも、エレナには一切の恐怖も憤怒もなかった。

 それは仕方がないことなのだと、彼女は理解していたから。

「……当然じゃろうな。きっと妾の覚悟は、民草であったお主らにとっては裏切りなのじゃから」

 エレナは立ち上がろうとする。

 しかし足に力が入らず、その場に倒れ込んだ。

「覚悟はしておった……。人間として生きると覚悟した時、同時に裏切り者としてお主らに殺される覚悟もしたのじゃ」

「我が君にはここで死んでいただきますわ。そして、ワタクシたちの心の君主として、お名前だけを拝借いたします」

 レディメイドはそう宣言する。

 グリザイユの名前は《怪画》の中でも大きな意味を持つ。

 死んだ教主がその宗教において神格化されるように、グリザイユが死ねば残党軍の士気はさらに跳ね上がる事だろう。

 本人が君臨することがレディメイドの理想であっただのだろうが、次善策としてグリザイユの名を起爆剤とすることに決めたのだ。

「搾りかすの妾でも、名前くらいは役に立つ、か。中々合理的な考え方をするようになったの」

「暴れるだけのワタクシたちに、そうしたことを教えたのはあなたですわ」

「じゃった……かの」

 目がかすむ。

 長い断食生活により、体の強度も衰えていたのだろう。

 あれくらいの打撃ですでに体中が悲鳴をあげていた。

 動くどころか、意識さえ保てそうにない。

「良い。妾を殺すことも、妾の名を使うというのも構わぬ。じゃが、一つだけ頼みを聞いて欲しいのじゃ」

 それでも、エレナには譲れない一線があった。

 死ぬより前に、なさねばならないことがあった。


「妾の親となった老夫婦を。得体の知れぬ小娘を本当の娘のように思ってくれる善良な一般市民を。彼らだけは見逃してくれまいか」


 エレナは衰えてはいても魔王だ。

 この家の中にいるのが目の前に立っているレディメイドだけではないことは分かっている。

 おそらく、グリザイユを魔王として迎え入れ、彼女の親代わりだった老夫婦を始末する。

 そして残党軍は新魔王軍へと生まれ変わる。

 それがレディメイドのシナリオだったはずだ。

 自分が殺されるのは良い。だが、自分を助けてくれたあの二人にだけは手を出さないで欲しい。

 だからこその助命嘆願だった。

「どうして、エサに心を砕かれるのですか」

 純粋な疑問をレディメイドは口にする。

 だから、エレナも純粋な気持ちを告げた。

「それは妾が――じゃからじゃ」

 娘が両親の無事を願うのは当然であろう。

 そうエレナは答える。

 それほど彼女にとってあの夫婦が大切であり、心の支えなのだ。

「――だ~め」

 だが、そんな想いをレディメイドは踏みにじる。

 彼はエレナの頭を躊躇なく踏みつけた。

「なんでワタクシが、の言うことなんて聞かないといけないんですの~?」

 レディメイドはエレナを人間と断じた。

 もう、目の前にいる少女は身も心も人間に堕ちたのだと判断した。

 ゆえにレディメイドは、人間へと向けていた軽蔑をエレナに対しても向ける。

 お前はもう自分たちの王ではないのだと。

「――頼むのじゃ」

 レディメイドの返答に対してエレナができることは、ただ懇願するだけ。

 エレナは頭を踏まれながらも土下座の姿勢を取った。

 この上なく無様な体勢で許しを乞う。

 対等な存在としての頼みではない。

 自分が下等であることを認め、慈悲を乞うのだ。

「なんで、あなた様がァ!」

 エレナがした一連の行動はレディメイドの怒りを倍加させた。

「なんで他ならぬあなた自身が! ワタクシたちの理想を貶めるの!」

 エレナの頭から足が離れる。

 だがそれは許しを意味しない。

 次の瞬間には、エレナの腹は容赦なく足蹴にされていた。

 エレナは嘔吐しながら床を転がる。

 壁に当たって止まれば、さらに蹴られる。

 執拗に何度も何度も。

「ワタクシたちの王が! 人間ごときに! ワタクシたちと共にあるはずの心がァ!」

 レディメイドはヒステリックに叫ぶ。

 だが、それを理不尽だとはエレナには思えなかった。

 これほどまでに自分を信じてくれていた部下を裏切ってしまったのだから。

 これはきっと当然の報いなのだ。

 死で贖われるべき、罪なのだ。

「……それで気が済むのであれば、このまま妾を殺してくれ。じゃが、もう妾は誓うたのじゃ。死を迎える最期の一瞬まで、あの夫婦の娘であると。己への誓いは、破るわけにはいかぬのじゃ」

「ならぁ! その夫婦を先に殺してやるわ! そうすればあなた様が人間の小娘である必要はもう……我が君は目を覚まして……ワタクシたちの王に!」

 狂信的なまでの崇拝。

 レディメイドから吐かれる言葉に込められたものは、エレナの心へと深い傷をつける。

「済まぬ……! 済まぬのじゃ……!」

 彼の気持ちも分かってしまうからこそエレナの口から漏れたのは謝罪だった。

 彼女が口にするのは、自分を殺そうとする相手への謝罪の言葉。

「じゃが……妾は自分で、自分の命の使い切り方を選んだのじゃ……!」

 そして、己の覚悟を示す言葉だった。

 レディメイドの足が止まる。

 暗い闇に埋もれ、彼の顔は見えない。

「分かりましたわ」

 レディメイドが足を大きく持ち上げる。

「我が君と我々の道は、致命的なほどに別たれてしまったことが」

 レディメイドが足を振り下ろす。

 その軌道から見て、エレナの顔面を踏み潰すつもりだろう。

 そして人間と同じ脆弱な体しか持たないエレナは――死ぬ。

 それでもエレナは小さく微笑んでさえいた。

 目の前に迫る死を受け入れているからこその笑みだ。

「――さよならじゃ」

 彼女の視界が黒く埋め尽くされる直前、


 ――周囲の気温が一気に下がった。

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