1章 2話 エピローグの残滓

「ふぇ……もう無理ぃ」

 白毛玉に襲撃された悠乃は、気絶した玲央を保健室へと運んでいた。

 蒼井悠乃は華奢である。

 少女扱いを受けてしまう程度には。

 対して筋肉質な玲央は平均男性よりも重い。

 そんな事情もあり、玲央を背負っていた悠乃は、保健室に着くころには息も絶え絶えな有様だった。

 それでも友人を落とさなかったのは男のプライドである。

 そう、のプライドである。

「し、死んじゃう……ぐぇ」

 玲央を背負ったままベッドに倒れ込む悠乃。

 必然的に友人の下敷きとなり、悠乃は苦悶の声を漏らした。

 しかし、玲央の下から抜け出すだけの力はもはや残っておらず、悠乃はその場で脱力するのであった。

「ふむ。ベッドで体を重ね合うとは。最近の高校生は良く育っている。心も体も」

「そりゃ……どうも」

 悠乃は白毛玉に向かって皮肉をこぼす。

「……信じらんないよ」

 悠乃はもう一度白毛玉をじっくりと見つめる。

 なぜか白毛玉は「いやん」などと言いながら股間を手で隠しているが、それは無視しておく。

「……これが……あのイワモン?」

 悠乃は絶望さえ感じさせる表情で呟いた。

 頑なに無視していたが、白毛玉は道中ずっと自分語りをしていた。

 自己紹介ではない。自分語りである。

 嫌味たらしく自慢を繰り返す生物が名乗ったのは、かつて悠乃の相棒であった生物の名前であった。

 ――イワモン。

 それは《怪画カリカチュア》から人間を守るために人間界に現れた魔法生物であり、マジカル☆サファイアをはじめとした魔法少女たちに力を与えた存在である。

 戦闘力こそなかったが、凛とした物腰の彼はいざというときに頼れる兄のような存在であった。

 それに、翼で飛べる彼は、悠乃たちを持ち上げることで、彼らが空中でも戦闘ができるようサポートをしてくれていた。

 ……のだが。

「イワモンはこんなデブ猫じゃないもん……」

 悠乃は顔面からシーツに突っ伏す。

 ――なぜか、イワモンは激太りしていた。

 ぽっこりと膨らんだ腹。

 アロハシャツにサングラス。

 妙にニヤけた表情。

 吐き気がしそうな程キツい香水の臭い。

 かつての相棒は見る影もなかった。

「ああ。この腹には事情があるのだよ」

「……事情?」

 悠乃はわずかにシーツから顔を上げると、イワモンに視線を向けた。

「上目遣いえちえち……おっと失礼」

 イワモンが何かを呟くと咳払いをした。

「グリザイユの夜事件により、《怪画》どもは大きな被害を受けた。その功労者は三人の魔法少女。つまり、それを率いていた朕にはその三人分の功績があるというわけだ。まあ、朕がいなければ魔法少女は生まれなかったのだから当然だね。んー」

 妙に自慢たらしく語るイワモン。

「それで、だ。向こうの世界に帰るとだね、朕は英雄なのだよ。昔はヘコヘコ頭を下げるしかなかった上司が、今では朕の糞と見間違えるくらい必死にご機嫌取りをしてくる。『あ、朕の尻尾かと思ったらウンコだったかー。え? あ、部長だったんスか、ちわーっす。ところで、なんでウンコの真似してんスか? え? それが素なんですか?』みたいにだね。昔は朕に見向きもしなかった雌猫も、今では軽く誘ってやればその日のうちにお持ち帰り。そんな贅沢三昧が、朕の腹をこうしたのだ」

「思っていたよりもかなりゲスな事情だったよ!」

(僕の知ってるイワモンを返してぇ!)

 悠乃、心の叫びであった。

 彼は悲しみにシーツを濡らした。

 時間というものの残酷さを再認識した気がする。

「何。生物とは成長するものだ。変わってしまったことを憂いても仕方あるまい」

「絶対成長してないよ。もしくは成長しすぎて軽く腐ってるよ」

「そんなことはどうでも良いのだよ」

 イワモンは悠乃の言葉を無視すると、腰に手を当てて彼へと向き直る。

 目の前のデブ猫は普通の猫と大差ないサイズだ。

 とはいえ、悠乃がベッドに寝ていることもあり、イワモンは彼を見下ろすような体勢で語りかけてくる。

「ここに朕が来たのは大事な任務があったからなのだ。そう。この朕が、自ら赴かねばならないほどに大切な任務が、だ」

 なぜ妙に偉そうなのかは理解できないが、大切な任務という言葉のほうが気になった悠乃は首を傾ける。

「任務?」

「そうだ。あのグリザイユの夜……その後処理なのだよ」

「ッ……!」

 グリザイユの夜。

 その単語を聞いた瞬間、悠乃は反射的に体を起こした。

 もっとも、玲央の体重に再び押し潰されてベッドに沈むこととなったが。

「……イワモン」

「なんだね?」

「あの事件はもう終わったんだよ」

 悠乃の瞳にはわずかな非難の色が宿る。

 あの事件は終わった。終わっていて欲しい。終わらせたい。

 戦い続けたあの一年間は、悠乃にとって過去なのだ。

 今さら、あの事件にその先があったような言い方をされたくはない。

「あの戦いで、僕たちはそれぞれ身を削った。苦しくても戦った。戦いたくない相手とも戦い――」

 ――殺してしまった。

 悠乃の脳裏には、灰色の髪をした幼女の姿が浮かんでいた。

 命尽きるまで、決して自分の矜持を曲げなかった幼くも誇り高い王の姿が。

「あれからもう5年も経っている。そしてこの5年間、《怪画》が関わった事件は起こっていない」

「だが、これから起こる」

 悠乃が言い訳のように紡ぎ出した言葉に、イワモンは何か確信があるような口調で断定した。

「悠乃嬢。聞きたまえ」

 イワモンは人差し指を立てた。

「ここ最近、水面下で一部の《怪画》が活動していることが我々の調査で分かった」

「《怪画》が……」

「それは、いわゆる残党軍だ。魔王グリザイユを失った《怪画》が、有象無象なりに集まり、世界への報復を企てているのだ」

 ありえない。そう切り捨てることはできなかった。

 あの戦いで確かに魔王を討滅した。

 しかし、《怪画》のすべてを倒したわけではない。

「そこでだ、悠乃嬢には再び魔法少女として」

「――やだ」

「……何?」

 悠乃の拒絶に、さも意外そうにイワモンは眉を寄せた。

「魔王を倒した時点で、僕たちは魔法少女としての力を返却した。あとは、そっちで対処するってことで決着したはずだ。だから僕はもう関係ないよ」

「ふむ。確かに当初はそういう話だったが……。残党が徒党を組み始めたことで事情が変わったのだよ」

「言いたいことは分かるけど……」

 悠乃は目だけをイワモンへと向け「うぬぬ」と唸った。

 彼としては、絶対に拒否したい理由があるのだ。


「だって……女の子になっちゃうじゃん!」


 そう。魔法少女になるということは――少女になるということなのだ。

 悠乃は今日一番の声でイワモンの提案を拒否する。

「まあそうだが。前回もそうだったではないか」

「前は《怪画》に襲われたところを無理矢理だったよ! それに女の子になるとか全然言われてなかった!」

「……言っただろう?」

「変身してからね!」

 唾を飛ばしそうな勢いで悠乃は怒鳴った。

 あの頃は小さかったので対して問題視していなかったが、今になって思えば怒りが沸々と湧いてくるのだ。

 もっともイワモンを相棒として信頼しているのも事実なので、魔法少女への再任命などという話がなければ今さら指摘する気は毛頭なかったのだが。

「ねえイワモン。僕の顔を見てよ」

 悠乃はイワモンの頭を掴み、顔を近づけた。

 もう一方の手で、自分の髪を掴み上げる。

 さらさらとした艶のある青髪。

 何より、少女のような可憐な顔立ち。

「――僕って、女っぽく見えるでしょ?」

「ああ。君のように可愛い少女は、朕が通う店でもお目にかかれないな」

「で。この原因がだといえば察しがつく?」

「……ふむ」

 確かに、最初から悠乃は中性的な顔立ちではあった。

 だが、成長のための大切な時期に『少女』としての生活をした彼は、周囲の人間と比べて明らかに少年としての成熟が遅れていた。

 悠乃からしてみれば、あの頃の魔法少女としての活動が、現在の悩みの発端となったといえるのだ。

「これ以上僕が女っぽくなったらどう責任取るのさ」

「ふむ。古来より、男が女に責任を取る方法というのは結婚と相場が――」

「はぐらかすな」

 自分にとって最もデリケートな部分ということもあり、自然と声が低くなる。

 それでも女声なのが悲しくなるが。

 残念ながら、悠乃には変声期が来なかったのだ。

 可愛らしい顔に、滑らかな肌に、鈴の音のような声音。

 これ以上コンプレックスが加速するのだけは嫌だった。

「僕は今でも魔法少女だった時期の負債を払い続けているんだよ。これ以上、僕を生きづらくするのはやめてよ」

 自分勝手な理由だとは思う。

 他人に話せば「世界より我が身が可愛いのか」と非難されるかもしれない。

 だが、あの一年で、悠乃は一生分と言っていいほど他人のために戦った。

 これからの生活くらいは守りたい。

 もう、休みたい。

「なるほど。悠乃嬢の言い分は分かった」

 イワモンは頷く。

 だが、態度には一切の変化も妥協もない。

「しかし、決定事項なのだよ」

「……?」

 イワモンの言葉の意味が理解できず、悠乃は片眉を上げる。

 だが、彼が先を続けるまでもなく、その意味を悠乃は理解することとなった。

 学校のグラウンドに響いた轟音と共に。


「――もう選択の猶予はない。《怪画》のお出ましだ」

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