B

 半世紀前、戦争がありました。この国は負けました。


 でも、最後まで諦めない人達がいました。戦争が終わってさえなお、決してそれを認めない人達が。彼らの部隊は全てを捨て、研究をしました。この国が負けたという事実を無かったことにするために。


 世を忍び、誰にも明かせぬまま、平和な日常の、その水面下で研究はずっと続きました。

 それは長い長い間を経て――結局、彼らがどうなったかは分かりません。でも一つだけ成果があったと聞きます。


 お母さんの“ムコ”として結婚したお父さんは、その部隊の末裔だったといいます。

 私が十歳になる頃、お父さんはこう言いました。ケンキュウノイシズエになってほしい。私はなんだか分からなくて、一度はそれを断りました。


 それから。1989年の、あの夏の日を超えて。

 私はケンキュウノイシズエに……“最後のカギ”になることにしました。


 お父さんはそれからすぐ、どこかに行ったきり帰ってこなくなりました。

 でも私は言いつけと、そして来たるべきその日の為に、人目を忍んで生き続けました。


 20世紀が終わる前に、世界を、白紙からやり直すために。

 そして、あの約束のために。


―――


 ミカちゃんは雨の叩きつける窓の外を見つめたまま、煙草に火を着けました。


 小屋の中には大きな鉄の扉があり、赤いランプが一つだけ灯っています。

 紫煙を吐き、彼女は朽ちかけた椅子に腰掛けました。ボトルのスポーツドリンクを飲み干し、また煙草を吸います。

「世界なんて終わればいいのに。あたしは、確かにナツにそう言った」

 下着姿の、とても、とても細い彼女の身体を、私はじっと見ていました。

 ミカちゃんも私も、子供のまま大人になってしまったような気がします。あれから十年経ったのに、まるで私達はそのままでした。

 あれから私達は驟雨に降られ、すぐに小屋に入りました。ずぶ濡れたシャツを脱いだ彼女の脇腹には大きな傷がありました。それから背中にも。私は自分自身が濡れていることも忘れ、その身体に見入っていました。


「お互い、ろくでもない親父を引いたってことね」

 私の話が終わると、彼女は額に張り付いた前髪もそのままに、薄い唇をゆがめて自嘲しました。私はそうは思っていません、と返すと、ミカちゃんは肩をすくめました。


「あたしが今年、ここに帰省してきたのは偶然だった。でも偶然じゃなかった。なんかヘンなの」

 彼女は煙草を踏み消して言いました。湿気った畳がジュッと音を立て、焦げ痕がつきました。

「そんな理由で、なんで、ずっと」

 あの日、友達になってくれましたから、と私は彼女の目を見てそう言いました。

「ばっかみたい」

 些細なことだと、自分でも思います。

 あの日まで、私は迷っていましたし、お父さんも無理強いはしませんでした。でも自ら選択しました。あの日、友達になってくれたミカちゃんの話を聞いたから。

「じゃあ何。十年前のあたしの、あんなガキの零した、バカみたいな約束がなければ、ナツはそうしなかったし、“アレ”は目的通りに目を覚ますこともなかったって。そういうこと?」

 ミカちゃんはもう一度窓の外を見ました。再び彼女の背中が目に飛び込んできました。


 しばらく私達は何の言葉も交わしませんでした。


 彼女の背中のさらに先。窓の外。あの巨大な鉄の蓋の下にあるもの。

 それは強い力であり、そして世界を白紙にするためのヒキガネなんだと、お父さんは言いました。たった一発。向かう先は既に定まっていて、それが“きっかけ”になって、20世紀はきれいに終わるのだと。


 私がそのカギなのです。


―――


 十年前のあの日。私がミカちゃんを連れてきた場所。

 ぜったいにヒミツだと言われた場所でした。だから、それからすぐ彼女は“お父さんのお友達”を名乗る人達によってお家に帰されました。その人達も、今はもういません。十年の間に、お父さんと同じく、どこかに行ってしまいました。

 ミカちゃんは私に願いごとを伝えてくれました。私は絶対叶えてあげるといいました。


 そして今日、彼女はちゃんと思い出してくれました。


 あれから十年で、ミカちゃんが過ごした世界は変わりましたか?

 ミカちゃんは首を横に振り、それから私をじっと睨みました。私を見ているのか、それとも私の後ろにある鉄扉を見ているのかはわかりません。

 あれだけうるさかった雨も小降りになり、小屋の中はとても静かです。彼女の身体が、鉄扉の赤いランプに照らされます。


 一緒に行きましょう、と、私は言いました。

 この扉の先は安全だといいます。少なくとも、この世界が終わった後を見届けるまでは。


 そう。私がここにミカちゃんと来たのは、それが目的でした。私はミカちゃんと一緒にいたいと思いました。彼女の望み通りに終わらせて、そして新しくなった世界を過ごしたいと。

「あっはっは」

 ミカちゃんはからからと笑いました。からっぽの鈴が鳴るみたいな笑い声でした。


 私は鉄扉の横にあったボタンに触れました。その瞬間、真上からいくつかの光線が伸び、私の身体を走査し始めました。私は左腕を掲げ、走査線に通しました。


 滑らかに鉄扉は開きました。それはエレベーターでした。

 お父さんから託された、私の生きる使命がそこにはありました。


 私はミカちゃんの手を取りました。


―――


 でもミカちゃんの手はそこから動きませんでした。


「今さら何があっても驚かないし、止めもしない。でも」

 でも。

「ここに来て、ようやくあたしの本当の望みが分かった。口にして、それでもどこかで引っかかっていた部分、そこが分かった」

 はっきりと、彼女は言いました。


「ナツ。悪いけど、このままあたしは山を下りる」


 私はもう一度聞き返します。


「分かったんだ。あたしは“終わった後の世界を見たい”んじゃない」

 二人の視線が交わります。

「あたしは“世界が終わるのを見たい”」

 そう言い放った彼女の目には、確かな決心と、そしてひとさじの狂気がありました。

「あのウザいクソ親戚ども。あたしを好き勝手にして一方的にフったあのクソ男。あたしの人生を壊したクソ親父。そんなクソにまみれたあたし自身。とにかく――このクソッタレな世界そのもの。そういうあれこれが全部メチャクチャになるのを望んでいた。十年前もそう思っていたし、今でもそう」

 私はその場に立ちすくみました。ミカちゃんはずっと、私を見ていました。

「願いを叶えてくれるナツには感謝してる。だから何があってもあたしは一生忘れない」

 返す言葉がうまく見つからない私の手を強く握って、彼女は言いました。そうして次の言葉を紡ぐまで、彼女はそのままいつまでも待ってくれていました。

 雨はすっかり止み、傾きかけた太陽の光が窓から差し込んでいました。


 しばらく経ってから、私は精一杯のちからを振り絞って、こくりと頷きました。


 十年間、何があっても零れなかった涙が、いつのまにか流れていました。


 ふたりで、手をぎゅっと握りました。

 ぜったい叶えてみせると、私はもう一度“約束”しました。


 首から下げた金具を確認して、私は鉄扉の向こうに行きます。それはお父さんから託された認証キーでした。エレベーターを降りた先、あの鉄の蓋の下。そこにキーを使うべき場所があり、私が目指すべき場所があります。


 ミカちゃん。私の、たったひとりのお友達。私にとってはそれ以上のひと。でも最後はフられちゃいました。けれどもう、そんな細かいことは気にしません。だって、私の大事な友達なのには変わりませんから。


 ……いえ。




 ああ。そうか。もしかしたら。

 もしかしたら、私はズルをしたのかも。


 お父さんから言われた使命を、運命を、示された選択肢の、その決め手を、最後の一手を選ぶ、気持ちの拠り所を。

 それをミカちゃんの一言のせいにして押し込んだ――結局、そういうことだったのかもしれません。


 でも、それくらいは良かったよね? って思います。

 だって、彼女の望みなんだから。

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