C

 半世紀ほど前に戦争があった。それでこの国は負けた。


 毎年夏になると、終戦の日だなんだと言って、テレビで特集がある。戦争はいけません。これからは平和な時代にしましょう。授業とか修学旅行の感想文で、だいたいそんな感じのやつを書かされた覚えがある。


 平和が一番。みんな何事もなく暮らしましょう。

 でも、本当にそうだろうか。明確な目標もなく、先も見えない世の中に不満がある人はいなかったんだろうか。平和であることが本当に幸せなんだろうか。勝手に戦争がはじまって、勝手に生活が変わって。いっそこんなどうしようもない世界など終わってしまえと思う人はいなかったんだろうか。


 へいわがいちばん。


 ほんとうに?


―――


 山道にさしかかる途中に自動販売機を見つけた。たぶんここが道中最後の自販機である気がする。そう思って原付を止めた。時刻は午前11時過ぎ。

「お金忘れちゃったんです」

 とナツがいたずらっぽく微笑んだので、私は呆れながらも二本分の缶ジュースを買った。


煙草に火を付け、額の汗を拭う。

「健康に悪いですよ」

 と言われて、私は二十歳になったら止める、と言い返した。

 酒を覚えるより前に覚えた煙草。ちょっとした“反抗”。

 そういえば、それを教えたあの男は今頃どこで何をしているだろうか。一年半前、世間に疎かった私は流されるままあいつに身体を許し、そして半年もしないうちに適当な理由で捨てられた。あのクソ男が残したのは、まずい煙草の味だけだ。

「やっぱり、おいしくないんですね」

 よほど怪訝な顔をしていたのだろう、ナツは私を見て言った。半分ほど吸いかけた煙草を落とし、私は踵で踏み消した。


 この暑さにあって、ナツは汗ひとつかいていなかった。それはとても奇妙なものに思えた。さらさらと細い黒髪。透き通る肌が目立つ首筋。長袖のワンピース。まるでマネキンのような――。

「どうしました?」

 よほどじろじろ見てしまっていたのか、ナツは私を見返して、笑みを浮かべた。

 一方の私は汗まみれだ。タオルを出し、シャツの裏から身体を拭く。

「……」

 気付くと、こんどはナツが私を見ていた。ああ、これか。私は自分の脇腹を見て、面白いものじゃないよね、と返す。


 山奥なのに、不思議と蝉の声が聞こえなかった。


 それにしても、本当に覚えがない。10年前といえば私が9歳。ナツは11歳。原付でも一時間かかる距離を、子供二人で。そんな大冒険をしたのなら、いくら私でも覚えているはずだ。思い出そうとすればするほど頭があやふやになってくる。この道に見覚えがないかと言われれば、無い。けれど、無いと言い切れるほどの記憶もない。


 1989年8月。

 その日の思い出だけが、すっぽりと抜けている。


 白昼夢のような感覚が、ずっとまとわりついていた。


―――


 ここの先です、とナツが示した先は山の中だった。道のようなものはあるが、続く先は鬱蒼とした木々の中だ。原付を道の脇に止め、先へ進む。もはや私は腹をくくっていた。明らかに「ちょっと山へ」で済む程度の道ではないが、今日はとことん付き合うと決めた。


 小柄な見た目によらない足取りで、ナツは先へ先へと歩いて行く。一方の私は追い付くのがせいぜいだ。あっちはサンダル、こっちはスニーカー、その差をもってしてもまだ早い。まるで何かに引き寄せられるかのように。もうすぐだ。きっと、もうすぐなのだろう。


 十分ほど歩いたあたりで、急に視界が開けた。

 明らかに人の手が入った広場。木々に隠されるようにそれはあった。


 まず目に付いたのは、蔦に絡まったコンクリート製の大きな建物跡。


 真っ赤に錆び付いた、年式も分からないほどの車の残骸。

 周りに散らばる鉄クズのようなもの。

 潰れかけた木造の廃屋が三つ。

 積み上がった石でできた墓のような何か。


 それは死の場所だった。朽ち果てるに任せるまま、誰にも気付かれぬまま、誰も寄せ付けないまま、その空間だけが静かに“死んでいた”。


「見覚え、ありませんか」

 私は首を横に振った。


 荒い息を整えようと天を仰ぐ。

 空にはいつの間にか、どす黒い雨雲があった。


―――


「十年前のあの日。私達二人は確かにここに来ました」

 ナツは言った。私に向けてではなく、まるでどこかにいる別の誰かに呟くように。

 そして彼女は歩き出した。広場を抜け、そこからさらに先に続く道へ向かって。


 暑い。とめどなく汗が流れる。それなのに、背筋が寒い。


「この先で、私は願い事を聞きました」


 どんどんと暗さを増していく静寂に包まれた森。

 先を行くナツの白いワンピースの裾が、ひらひらと舞う。


「十年間。私は」


 やがてもう一つの広場に出た。

 巨大な、鉄でできた円形の“何か”が地中にあった。


 ――大きな。鉄の。蓋?


 ナツはその真ん中に立ち、くるりとその場で一回転した。


 ぱちん、ぱちん、と、私の頭の中で何かが弾けた。

 映像が、記憶が、その断片がフラッシュバックする。


「ミカちゃん」

 女は私の名前を呼ぶ。


 ワンピースの左長袖がめくられる。

 その下腕部に、幾何学模様をした刺青のようなものがあった。


「私は十年前に教えてくれた願い事を叶えるために……役目を果たすためにきたんです」


 ああ、そうか。


 ――クソッタレな世界。クソッタレな人生。クソッタレなすべて。

 今に始まったことじゃない。十年前。あの最低の父親が私を傷物にし、あげくの果てに借金を作って出て行ったあの夏。

 そして、白ワンピースの女の子にその思いを打ち明けたあの日。


 ごろごろと、どこかで雷が鳴り始めた。

「こっちです」

 ナツは私の手を取り、傍にあった小屋に連れて行った。

 一軒の廃屋。そこだけは他と違い、不思議と形を保っていた。


 この場所は死んでいる。でも、この小屋と、それからあの“鉄の蓋”だけは生きている。なぜだか分からないけど、そう確信した。


「あの小屋の中です。そこで私は願いごとを聞きました」


 ――私の人生は決定的に壊れてしまっていた。

 だから、私はずっとそれを望んでいた。でもやっぱり叶わなくて、私は必死になんとかしようと生きてきた。母親の高望みに潰されて。クソ田舎の高校生活を耐えて。上京しても上手くいかなくて。おまけにまた人に裏切られて。


「もうすぐ通り雨がきます。濡れちゃうから、入りましょう」


 とにかく何もかもがどうにもならなかった。だから忘れることにした。

 どうせ子供が願った戯れ言だと思っていたから。


「そう」


 けれど彼女はひとり覚えていた。あの日、私が言ったことを。


「「世界なんて終わればいいのに」」


 やがて、雨がぽつぽつと降り出した。

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