夏の飛翔体
黒周ダイスケ
I
1999年、7の月。ばかげた、子供じみた、オカルトの、くだらない予言があった。
けれど私はアテにしていた。本当にもし世界があっけなく終わるのなら。それはどんなにありがたいことか。……あるいは、口に出して言わないだけで、他の皆も、心のどこかで“もしかしたら”と思っていたのかもしれない。私だけじゃないはずだ。そう思いたい。
でもそうはならなかった。
当たり前だ。
―――
1999年8月。親戚揃っての盆。
都会に期待を馳せて進学とともに上京した私は半年足らずでドロップアウトし、些細な仕送りに頼るだけの穀潰しと化した。今回だって、できれば帰省したくなんかなかった。仕送りを止めるぞ、という脅しさえなければ。
それは私の知りうる限り最悪の夏の夜だった。
案の定、いかに私がボンクラであるかという糾弾合戦と、それをダシにした経歴自慢大会なんかがはじまった。母親はもう、私を“どうしようもない不出来の娘”として徹底的にネタにすることに決めたらしい。
まあ、よくある田舎の盆だ。一族集まってのクソ宴会。特に、私より二つ上の、顔もわからない又従兄弟の男が一番厄介だった。クソ田舎の役所勤め。タヌキみたいな顔の奥さんがいて、そいつらが連れてきたクソガキがまたよく泣きわめく。ナントカくんはもう家族まで持って、今度家を建てるそうよ。
ああ五月蠅い。
いよいよ限界だった。私はトイレに行ってくると断り、縁側に出た。蒸し暑く不快な夜。宴会が終わるまでここにいてやろうと決めた。煙草に火を着け、夜空を仰ぎ見る。
「みんな、ニギヤカですね」
後ろから声がした。女の子が立っていた。ビールを片手に。
―――
いちいち名前なんて覚えているはずもない。正直に私が名前を訊ねると、彼女はナツと名乗った。ええと、曾祖父の、次男の、そのさらに長女の、娘? もうどこにどう血縁があるのか分からなかったけど、とりあえず“親戚”だ。
「小さい頃、一緒に遊んだじゃないですか。十年前の夏」
よく覚えているものだ。私は一切記憶がない。
彼女はなんというか、全体的にひどく小さく、幼く見えた。親戚連中の、他の“若いの”と比べても、異質な雰囲気があった。ぬるいビールの注がれたコップを持つ手は細く白く、着ている衣服はぶかぶかだ。それに、こんな真夏に長袖シャツなんて。
さらに歳を聞いて驚いた。21歳。私より年上じゃないか。
ナツは私の隣に座り、ビールを飲むでもなく、黙って佇んでいた。本当は一人にしてほしかったけど、でも――少なくとも、他と比べれば彼女は大人しかったし、聞かれたくないことも一切会話にしようとしなかった。誰か来たらすぐ教えますからと、煙草のことも黙っていてくれるようだった。特に母親にはバレたくない。出て行った父親の影響で、アレは煙草が大嫌いだ。
彼女と過ごす時間は不愉快ではなかった。お互いに何かを話すこともなく、煩わしい宴会が終わるまで、ひたすらぼうっと過ごした。呼び戻しにも来ないところを見ると、もう私のことなんてどうでもいいんだろう。
このままこっそり部屋に戻って寝てしまおう。そう思って何本目かの煙草を揉み消すと、ナツは突然、私に不思議なことを言った。
「本当に覚えていないんですか。あの日に起こったこと。あの日の願い事を」
確かに彼女はそう言った。
――私はそれを思い出すことができなかった。
―――
翌日、盆参りやらなんやらに慌ただしい朝。
ナツと一緒にいた女を見た。
あれが母親なんだろう。年齢的には母親と大して変わらないのだろうが、痩せこけていて全体的に生気が無い。ともすればその場にいることすら忘れてしまいそうな人だ。やがて幽鬼のようにどこかに行ってしまった。
そうして一人になったナツが声をかけてきた。
「昨日はよく眠れました?」
十年前のことを思い出そうとしてあまり眠れなかった、とは言わないでおいた。他人に関心のない私が――今はなぜか、彼女のことが気になって仕方がない。気温はどんどん上がっていく。セミの声が、子供のわめく声が、軽トラックのエンジン音が、あの煩わしい音のどれもが、ナツと話しているとひどく遠くに聞こえる。
この場にあっては“はぐれ者”の二人。
「1999年8月14日」
白い長袖のワンピースを翻し、ナツは言った。
「ねえ」
ガラス玉のような瞳が、その視線が、こちらを射貫く。
「今日、一緒に行きたい場所があるんです」
―――
財布と煙草とライター、ペットボトル、タオル、虫除けの塗り薬を入れたバッグ。そして玄関から失敬した叔父の原付のカギ。それらを持って、私とナツは家を出た。
原付が集落の道を走り抜ける。差すような陽の光と生ぬるい風。犬の鳴く音。堆肥の臭い。錆びて朽ちかけたバス停の看板と、舗装の行き届いていない車道。シャッターが降りたきりの小さな商店。やがて集落をはずれ、青く実る棚田が見えてくる。びびびびび、と喧しいエンジン音と共に、原付は白煙と上げながら坂道を登る。何もない、呆れるようなクソ田舎の道。おまけに空は雲一つない。原付に乗っていてさえ汗が噴き出してくる。
いったい何をやっているのだろう。いつでも引き返そうと思えばできた。でも私はそうしなかった。いつの間にか随分高いところまで来てしまった。
眼下に私達のいた集落が見える。山の中に立ついくつかの風車。その向こうには港町。物々しく建つ巨大な原子力発電所。そして海。
ナツは後ろに座って私の肩を掴んでいる。表情は見えない。
心なしか、掴むその指先に少しだけ力が入ったように思えた。
―――
――山?
私が聞くと、ナツは頷いた。
「あの山に一緒に行きたいんです。そんなに遠くはないはずです。私が“そこ”まで案内しますから」
一人で行ってくればいいじゃない、とは言えなかった。
十年前に行った場所。私も一緒にいた“はず”の場所。そこに、どうしても私と一緒に行きたい、と彼女は言った。で、仕方なく、私は人生ではじめての原付泥棒になった。
山にいったい何があるのかと言っても、ナツは教えてくれなかった。ともかく彼女はそのためにここに来たのだという。
「でも」
付け加えるようにナツは続けた。
「――そこにはきっと、望むものがあるはずです」
私の、望むもの。
ナツの首から何かが下がっていたことに気付く。
それは不思議な形をしていて――何かの“カギ”にも見えた。
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